二十四話 黄緑色の雛
目を閉じれば、今でもあの時の事を鮮明に思い出す。
焼け落ちる家屋。冷たくなった家族達。そして――理不尽の刃を振るう黄色の装束。何もかもが目に焼き付いたまま離れない。
それは、決して忘れる事の出来ない記憶だ。
遥か昔、一人の小さな鴉天狗が、片翼と里の全てを失ったあの日の――。
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疾風の朝は早い。――本人はそう信じて止まなかったが、実際は日が少し昇り、皆が起き出して来た少し後に起きるくらいであった。
そうして飛び起きた疾風は用意されていた朝餉をかき込むと、柄に巻かれた布がすっかり擦り切れた小さな木刀を持って外へと飛び出していく。これは去年、七つの誕生日の時に父から貰ったものであった。
「いってきまーすっ!」
もちろん厨に立つ母への挨拶も忘れない。母は「元気だねぇ」と目を細めて笑い、手を振って送り出してくれた。
疾風は商店が建ち並ぶ大通りを駆け抜けた。大通りとは言ったものの、道の広さは他の道と大差無い。何故そこが大通りだなんて言われているかと言えば、そこは唯一商店が存在しているからであった。理由は大した事ない。
「――おう、坊主! 今から稽古か? 親父さんによろしく言っといてくれや!」
「――いつ見ても元気だねぇ、疾風ちゃんや。あの人も若い頃は……」
「――あら疾風ちゃん、今日も剣のお稽古? また皆で飴細工食べに来て頂戴ね!」
そうして疾風が駆け抜けていく間にも、沢山の鴉天狗達が陽気に声を掛けてくる。父と仲の良い道具屋のおじちゃん、いつも話が長い薬草売りのばぁちゃん、稽古の後に皆で遊びに行っている飴細工屋のお姉さん――皆が皆、疾風の大切な家族だ。
「とうさーん! おくれてごめん!」
半ば飛ぶ様に駆け込んだのは、訓練場と銘打たれた小さな広場。疾風と同じくらいの子供達に囲まれた父に声を掛ければ、彼は豪快に笑いながら「待ってたぞ!」と大きな声を上げた。
「それとな疾風! ここでは先生と呼べって言ったろ?」
「そうだった! せんせー、今日はなにすんの?」
わしゃわしゃと父と同じ色の髪を撫で回されながら、疾風は黄緑の瞳を煌めかせて問うた。他の子供達もわらわらと父へ群がり始める。
小鳥達の囀りが父を囲んで、父は楽しそうに口の端を吊り上げた。
「よーし、じゃあ長老の家まで鬼ごっこだ! 俺に捕まった奴は……くすぐりの刑だぞーっ!」
子供達の騒ぐ声は、途端に甲高い悲鳴へと変わった。まさに蜘蛛の子を散らすが如く、小さな鴉天狗達は小さな翼をはためかせて飛び上がる。
空の上で楽しそうな笑い声が響いていた。各々懸命に翼を打ち付け、後ろから追いかけてくる先生から楽しそうに逃げ惑う。
「――なぁ、はやて! きょうそうしようぜ!」
「あはは、いいよ!」
この里の子供達の中で、疾風は一番速かった。まるでその名を体現するが如く、誰も追いつけない程の速さで縦横無尽に空を駆る。
「それじゃあいくよ! よーいどんっ!」
故に、子供らは皆疾風を追い抜こうと日々躍起になっていた。しかし、どれだけ翼を打ち付けようとも、やはり風神の化身の様な疾風に適う事は無かったのである。
疾風はただ放たれた矢の如く、空を駆け抜けて行く。それはまさに光の軌跡が見える様であった。
「よーしっ! あはは! おれのかち!」
その日も疾風の勝利で競走は幕を閉じた。まるで羽が落ちるが如く軽く着地した疾風は、得意げな顔で勝利を宣言。勝負を仕掛けた小烏――松風は「くっそーっ!」と悔しげに声を上げたが、その顔は楽しげな色に染まっていた。
「次はまけねぇからな! ……はぁーっ、つかれたぁ」
松風は口元を笑みに染めたまま宣戦布告。その後、仰々しく身体を反らし、ドカッとその場に座り込んだ。それを見て疾風もケラケラと笑い声を上げる。
「――おぉ、なんじゃ。やけに賑やかじゃと思ったら……今日も楽しそうじゃのう、可愛い子らや」
「あっ! 長老! おはよーっ!」
不意に、優しげな声が二人の背中に掛かる。振り返ればそこには長い髭をたくわえた長老が居た。疾風は嬉しくなって思わず、髭を撫でる老年の元へ駆け寄る。
「おぉ疾風や……薫はおらんのかぇ?」
長老は急に飛び付いてきた疾風に驚いた素振りを見せたが、すぐいつもの木漏れ日の様な笑顔を見せ、目的の人物の行方を訊ねる。
「とうさん? 今おにごっこのとちゅうだったんだ! たぶん、すぐにくるとおもうよ! ねぇ、きいてよ長老! おれたちはつかまらずににげきったんだ! すごいでしょ!」
突然父の名を出された疾風は一瞬不思議そうな面持ちになったが、すぐ様パッと鬼ごっこの事を思い出し笑顔になる。そして自身の偉業を褒めて欲しいと声高らかに主張し、煌めく黄緑の瞳を長老へ向けた。
「おぉ、そうかいそうかい……それは凄いのぅ」
疾風の無邪気な声に、長老は優しく目の端に皺を刻み込みながら破顔する。彼に向ける表情はまさに、孫に向けるそれと言えるものであった。
「あっはっは、逃げ切ったのはお前達だけ……ん? これはこれは、萩様ではありませんか! いやはや失敬、少々騒がしくし過ぎましたかな?」
と、そこへ疾風の父――薫が大きな翼を打ち付けながら舞い降りた。その両手にはそれぞれ疾風の友人達が抱えられている。どうやら彼らは捕まった様だった。
薫はしょぼくれた様子の二人の少年を傍らに下ろすと、パチンと額を叩きながらおどける。
「なぁに、構わんよ。むしろ丁度良い、お主に少々厄介事を押し付けようかと思っておってのぅ」
萩と呼ばれた長老はころころと笑声を零すと、優しく疾風を自身から離しながら前へ進み出る。
「えぇっ? ははは、それは困りましたなぁ……仕方ない、疾風!」
「――? なぁに?」
その長老の背を不思議そうに眺めていた疾風は突然名前を呼ばれ、更に不思議そうな顔で返事をした。そのまま父の元まで駆け寄れば、彼はパッと破顔して疾風の頭をくしゃくしゃに撫で回す。
「ほら、小遣いをやるから皆で飴細工屋さんに行ってなさい」
そのまましゃがみ込み、疾風と目線を合わせた薫は、慈愛の眼差しを向けながら懐へと手を入れる。そうしてじゃらじゃらと飴細工が買える程度の金銭を渡しながら、ぽんぽんと疾風の頭を優しく叩いた。
「ほんと!? やったーっ! とうさんありがとー!」
金銭を受け取った疾風の気分は即座に高潮する。何故なら、あの飴細工屋の飴細工が疾風の一番の好物であるからだ。その為か、父を先生と呼ぶ事がすっかり頭から抜け落ちてしまっていた。
「だから今は先生と……まぁいいか。あまり涼風お姉さんに迷惑かけちゃダメだぞー?」
息子のあまりのはしゃぎっぷりに、薫は思わず口元を綻ばせる。そして呼び方の訂正もそこそこに、行ってこいと疾風の肩をそっと叩いた。
「わかってるよ! みんないこ!」
疾風はきらきらと瞳を輝かせながら駆け出す。彼の友人達も皆、疾風が呼び掛ける前に足を動かしていた。あの飴細工は疾風だけの好物では無く、子供達皆の好物であるのだ。
小さな雛達はやいやいと歓声とも嬉しい悲鳴とも聞こえる声で囀りながら、あっという間に空の彼方へと飛んで行く。
「……ほっほっほ、元気じゃのぅ。若い頃のお前にそっくりじゃ」
その様子を見ながら、萩は悠々と昔を懐かしんだ。元気溌剌で神速自慢。それはまさに、幼い頃の薫そのものであった。
「ははは! 可愛い可愛い自慢の息子ですよ! ――して、奴ら……憎き黄の一族はなんと?」
薫はそれへ豪快に同意しながら、何度も首を縦に振って疾風を褒め称えた。だが次の瞬間、薫から一切の表情が消え、冬の様な厳しさだけが残る。
「……まぁまぁ、ひとまず中に入れ。話はそれからじゃよ」
この小さな小さな黄緑の里は、黄の一族に狙われている。その事を知っているのは、長老である萩と里一番にして唯一の剣士である薫のみであった。




