二十三話 例え嵐に追い付けなくても
やがて、その日の戦いが終わったのは世界が黄昏に染まる頃であった。敵兵が何やら妙な術を唱えて消えて行くのを、紅葉は満身創痍のまま見送る他無い。
「……っ、は……やて、にぃ、さん……」
紅葉は大槌を支えに立ち上がりながら、自身より更に酷い有様の疾風の元へと歩み寄る。歩く度に、何処かしらから血が流れ落ちた。
「……ごめ、くれは、ちゃ……俺……あいつらに、顔割れてて……多分、たくさん、むちゃを……」
立つのもやっとと言った状況の疾風は、ゼイゼイと荒い息のまま紅葉の身を案じた。額の切創からは今も尚血が流れており、彼の顔の半分は赤く染まっている。
「――疾風様っ!」
そんな二人の元へ、同じく満身創痍の鴉天狗が飛び込んで来た。それは、疾風より幾分色素の薄い髪を一括りにした、疾風隊の一番槍――椋である。
「生きてる!? これ生きてる!?」
彼は着地したと同時に、まるで駆け込む様に疾風の傍まで寄ると、瞬時に肩を支えて呼び掛ける。その必死な表情からは、いつもの呑気さは感じられなかった。
「っ……はは、いきてる……だいじょぶ……」
対する疾風の返答は、言葉とは裏腹に全く大丈夫では無さそうであった。
そんな言葉を聞きながら、紅葉はぼんやりと目を閉じる。同時に限界が来たかの様に、大槌が簪へと戻り、紅葉の身体は前のめりに倒れて行った。
「――っ! どうしてこの少女が戦場に……!」
それを倒れる寸前で受け止めたのは、同じく疾風隊の副長である隼であった。彼は紅葉を優しく抱き直しながら、信じられないと言った様に首を振るう。
「いいや、それはまた後で良いでござる。――皆の物、撤退に候! ――椋、拙者は殿を務める故、紅葉殿をお頼み申す」
しかし、隼は即座に副長としての責任を果たさんと号令を掛けた。途端に何人もの一族の兵が集まってくる。そうして隼は椋に紅葉を託すと、皆を安全に撤退させるべく駆けるのであった。
****
「――ぁ?」
紅葉が目を覚ましたのは、星が夜空に煌めく頃であった。慌てて上半身を起こした瞬間、自身が満身創痍であった事を思い出し、後悔する。だが、身体中の痛みを感じる事は無かった。
「……ぁ、れ。治ってる……?」
慌てて身体の様子を確認するが、何処にも傷が見当たらない。あれ程酷い有様であったのに、今残っているのは小さな傷ばかりであった。
「――っ! 紅葉ちゃん! 良かったぁ、起きたんだね」
不意に、襖が開いて、心から安堵した様な声が紅葉の鼓膜を叩く。ゆるゆるとそちらに顔を向ければ、そこに立っていたのは疾風であった。
同じく満身創痍であった彼も、まるで何事も無かったかの様にピンピンしている。強いて言えば、大きな切創が残されていた頭に包帯が巻かれているくらいだ。
「傷は桐ちゃんがある程度治してくれたよ。多分今は緋月ちゃんも手伝ってるんじゃないかな? ……あ、そうそう、簪はここにあるから安心してね! はい、確かこれ、大事な物なんだよね?」
疾風はペラペラと最初に出会った時と同じ様に絶え間無く喋りながら、傷が治っている理由と緋月の無事、そして簪の行方について教えてくれる。彼は懐から簪を取り出すと、紅葉の傍らに膝を着いてそれを優しく手渡した。
「あ……ありがとう」
簪を受け取り礼を告げながら、紅葉は未だにぼんやりとする頭の中で一つの可能性について考えていた。それは、自分が下手に合流してしまったが故に、疾風が地上で戦わざるを得なかった可能性だ。
静かに褥の中から疾風を見上げるが、目が合った彼は優しく笑って「どうしたの?」と首を傾げるだけ。
「あ……や、その……」
「……紅葉ちゃん寒くない? 寒くないなら、ちょっと夜風に当たろうよ」
どう言ったものかと悩んだ紅葉が言い淀めば、疾風は「夜風に当たろう」と誘ってくる。紅葉が返事をする前に、彼はもう立ち上がっていた。
特に、断る理由も無い。紅葉もゆっくりと立ち上がって、彼の後に続いて部屋の外に出た。
「あー、今日もいい風だったなぁ〜」
既に疾風は回縁の高欄の隙間から足を出し、夜空を見上げている所であった。紅葉も黙ったままその隣へと座り込む。
「……戦、怖かった?」
柔らかい声が、紅葉の丸まった背中に掛けられる。思わず小さく声を漏らして、疾風の方を向いた。憂慮に染まった黄緑の瞳が、静かに紅葉を見つめている。
「戦は……怖くない。兄さんも見たと思うけど、俺、鬼だから。……地獄の鬼だから、こんな戦いはしょっちゅうあった。だから、それは平気」
優しく促す様な問い掛けに、紅葉は触発された様にぽつぽつと話し出した。疾風は時折「うん」と小さく相槌を打って、それを静かに聞いている。
「でも、俺、鬼なのに、皆より強くなきゃいけないはずなのに、全然役に立てなかった……! 緋月も爺さんも、皆、皆頑張ってたのに……っ!」
紅葉の瞳からポロポロと涙が溢れ出す。
自分はいつもそうだ。晴明や十六夜、ましてや常に隣に居るはずの緋月にさえ追い付けない。隣に居るはずなのに、いつも見えるのは遠い背中だ。
鬼という切り札を引いてさえ、追い付けない。そんな自分は果たして、必要なのだろうか。
もしかしたら自分は、自分は――。
「……あのね、紅葉ちゃん」
不意に、暗い思考を疾風の声が遮る。紅葉がゆるゆると涙に濡れた顔を上げれば、黄緑の双眸はしっかりとこちらを見据えていた。
「風は……どんなに頑張っても、嵐には追いつけないんだ。だけど、風にはちゃんと、風のいい所がある。――それはきっと、月と紅葉も同じだよ」
「――っ!」
紅葉は息を飲んで瞠目した。風と嵐、月と紅葉。それは明らかに、彼とその義兄弟、そして自分と相棒の事を言い表している。
「だから大丈夫。焦らなくても、紅葉ちゃんは強いよ」
慈愛に満ちた声が紅葉を包む。本当に、疾風は心優しいのだと思った。何かを告げようと口を開いたが、言葉より先に嗚咽が溢れ出す。疾風は泣き出してしまった紅葉の頭を優しく撫でていた。
****
「……なぁ、疾風兄さん。もしかして今日、俺がいたせいで空に戻らなかったのか? 俺のせいで、あんなに怪我を……」
しばらくして、紅葉は赤い目を擦りながら、心の中にずっと残っていた疑問を鼻声で問うた。先程までこの事を聞こうと思っていたのに、すっかり頭の中から抜け落ちてしまっていたのである。
「へっ!? いやいやいや、そんな事ないよ!? ……あ、そっか。紅葉ちゃん達は外から来たから知らないんだっけ?」
その問い掛けを聞いた瞬間、疾風は素っ頓狂な声を上げ、何を言っているんだと言わんばかりに否定した。しかし直後、何かを思い出したかの様にハッとすると、少し困った様に微笑んで頬を掻く。
「…………?」
「俺ね――飛べないんだ」
疾風がそう言うと同時に、彼の背中から片翼の羽根が広がった。まるでそれは、故意に切り捨てられたかの様な傷跡。漆黒の羽が何枚も舞い散って、紅葉は驚愕を顔に貼り付ける。
「え……ぁ……な、それ……っ!?」
「あ、ごめん! ビックリさせちゃったよね!? えーっと、とにかく俺が言いたいのは、俺が地上で戦ってたのはこういう理由だから気にしないでって事で……!」
上手く声が出ない様子の紅葉を見た疾風は、慌てて自身の伝えたかった事を口にした。この調子だと、恐らく彼にとっては当たり前の事で、驚かれるとは思っていなかったのだろう。
「そっ……か、うん……ありがと。ごめん、俺の為にそんな傷見せさせちまって……」
一連の行為は紅葉を安心させようとして行われた物だと気付いた紅葉は、戸惑いながらも感謝と謝罪の言葉を告げた。
「あはは、だいじょーぶだいじょーぶ! 俺が飛べない事もこの羽根の事も里の皆は知ってるし、何より俺はもう前を向いてるからね!」
「……何で、そんなに前を……」
あっけらかんと笑う疾風を見て、紅葉は思わず呟いた。何処か彼が眩しく見えたのだ。それは、そう、まさにいつでも前向きで天真爛漫な相棒の様で。
「簡単な事だよ。――だって、羽根が無いからって前を向けない訳じゃないでしょ?」
疾風はその小さな呟きを聞き漏らす事無く、まっすぐ紅葉の瞳を見つめながら笑った。その表情は、自信と希望に満ち溢れている。
「――! そっか……はは、うん! そうだよな! ありがとう、俺……もっと顔上げて頑張ってみるぜ! ……あ、じゃあ早速緋月達の事手伝ってくる!」
その太陽の様な笑顔に触発され、紅葉も笑い声を上げ何処か憑き物が落ちたかの様な晴れやかな笑顔を見せる。そうしていい事を思い付いたと言わんばかりに立ち上がると、その笑顔のまま駆け出して行った。
「うん、応援してる!」
これで一安心。疾風はそう言うかの様に声を掛け、その背中を見送る。その声はまるで、自分の事を喜ぶかの様であった。
だから、駆けていく紅葉は気が付かない。一人になった疾風その笑顔が、僅かに寂しそうに曇った事に。




