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陰陽亭〜安倍緋月の陰陽奇譚〜  作者: 祇園 ナトリ
第三章 鴉天狗の里編
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十九話 もう、恐れないから

 翌日、桐は一人きりであった。緋月もハクも、勿論ヤタも、彼女らと共に来た者達との話し合いがあるらしく、久しぶりに静かな朝を迎えたのである。


「…………」


 桐はそっと訓練場の方へ目をやった。努力の甲斐か、兵士の彼らとは会話を出来る様にまでなっていたのだ。

 いつも彼らが口々に言うのは、「ただでさえ蒼嵐様も厳しいのに、そこにヤタ様まで加わっちゃ大変さが倍増する」という事であった。


「……ふふっ」


 その言葉を聞いたヤタが憤慨して、兵士達が蜘蛛の子を散らす様に逃げていく様子を思い出して、思わず桐は笑い声を漏らす。


 もう既に、すっかり恐怖は薄らいでいた。


 けれど、それが故に、蒼嵐に対して未だに上手く接せられない事を同時に思い出して、心がチクリと痛む。

 どうしてか分からないが、彼に対する恐怖だけは全く拭えなかった。まるで怒れる鷹の様なあの瞳に見つめられると、何も言えなくなってしまう。


「……っ!」


 思わず泣きそうになって、ハッとした。桐はぶんぶんと頭を振って陰鬱とした考えを打ち払う。

 そうやって気持ちを入れ替えると、今日こそはという思いで深呼吸。


「――今日は、私一人で……!」


 そうして、桐は確かな足取りで前進を続けるのであった。


****


「――あれっ!? 桐ちゃん!? 一人で来たの!?」


 一人で赴いた桐を出迎えたのは、既に素振りを始めていた疾風であった。朝の早い時間という事もあってか、他の兵達も疎らにしか居ない。


「は、はいっ! 今日は、その、緋月さん達は他の用があるみたいで……!」


 まだ僅かに緊張するものの、それは心地の良い緊張であった。桐は少し上擦った声のまま答える。疾風は「そっかそっか」とまるで幼子を見る様な眼差しになっていた。


「……あれぇ? 巫女姫様だぁ〜、おはよぉございまぁす!」


「本日も誠に良き風でござりますな!」


 そうして二人が話していると、奥で同じく素振りをしていたらしい兵士達がやってくる。


「あ……、おはようございます! えぇと、(むく)さんと、(はやぶさ)さん。良い風ですね!」


 桐は話せる様になった二人の名を呼びながら、覚えたての挨拶を返す。「良い風だ」と言うのが、鴉天狗達の一般的な挨拶だった。

 のんびりと目を細めて笑う椋と、忍鴉(しのびがらす)特有の口布の奥で笑う気配を見せる隼。彼らは疾風の隊の一般兵だ。


「ねぇねぇ疾風様ぁ、今日は何すんのぉ? 素振りばっかで飽きちゃったぁ〜」


 と、丁度話が区切れた所で、椋は眠そうな眼を瞬かせながら疾風に問うた。うんざりと正直な事を言ったからか、隼に横腹を小突かれている。


「え? うーん、そうだなぁ……ヤタ様も蒼も居ないし、今日は模擬戦でもする?」


 ヤタが居れば彼女にこてんぱんにされ、蒼嵐が居れば基礎を厳しく叩き込まれる。そんな兵士達にとって、好きに模擬戦をさせてくれる疾風は救世主の様な存在だった。


「……! いいねぇ〜、賛成でぇ〜す」


「じゃあ俺が審判やるから、椋と隼でやりなよ! 皆がいい感じに集まったら開始ね!」


 模擬戦と聞き、途端に目の色が変わった二人の兵士を見て、疾風はケラケラと楽しそうに笑いながらそう告げる。


「承知! 手加減はせぬ故、覚悟するでござる、椋!」


「あははぁ、そっくりそのまま返すよぉ〜、隼ぁ〜」


 そう言い合う二人の目付きは、まさに獲物を狙う猛禽類。普段は温厚な二人であったが、一般兵の中では一、二を争う血の気の多さだ。それが故に、次期棟梁で実力もある疾風の隊に配属されているのである。


「巫女姫様ぁ、おいらの事応援しててねぇ〜」


「む、卑怯でござる! 巫女姫殿、何卒拙者を!」


 だが、それも次の瞬間には和らいで、椋と隼は口々に自分の応援をと桐に頼む。その様はまるで餌を求める雛鳥の様で、桐は思わず笑声を零した。


「ふふっ、じゃあお二人共応援しますね!」


 桐が笑顔のままそう答えれば、二羽の鴉は満足そうに頷いて、これから始まる()()()()()の為の準備に消えて行く。


 ――かなり順調だ。これならきっと、もう怯える事も無くなる日も近くなるだろう。


 そんな思いを抱きながら、疾風に促されるままに休憩用の長椅子の元へと向かった。


****


 しばらくして模擬戦は始まった。久しぶりの仲間同士のぶつかり合いに、兵達は皆大盛り上がりである。

 始めは地獄からの悲鳴の様に聞こえていた歓声も、今では桐の心を同じく踊らせる要因の一つになっていた。


 自分には無い、純粋な力同士のぶつかり合い。その目を見張る様な素晴らしさに、桐は感心だけでなく一種の憧れさえも抱いていた。


「やっちまえ椋ー! 忍鴉なんか目じゃ無いぞー!」


「隼ー! そんな寝坊助野郎ぶっ飛ばせー!」


「勝った方が隊長だー!」


「えっ!? ちょっと待って!? どっちが勝っても隊長は俺のままだからねっ!?」


 訓練場には様々な野次が、時には疾風へのイジりが飛んで、場はどっと笑いに包まれる。

 未だに大きな声に身は竦んでしまうが、彼らに悪気が無い事を桐は既に理解していた。だから、すぐに身体を弛緩させ、今にも始まりそうな戦いを注視する。


「――では、始めっ!」


 疾風の大きな声が空気を揺らした。それとほぼ同時に二人の兵士は駆け出す。


「――しっ」


 速さを制するのは隼の方であった。しかし、彼の振るう二振りの木製の短剣は、のらりくらりと揺れる椋には当たらない。


「南無三っ!」


「あはぁ、おかえしぃ〜」


 まるで二羽の鴉は戯れる様に切り結ぶ。椋は緩急を付けた動きで隼に迫った。それは間延びした言葉通りやり返す様に、しかしその勢いは隼の喉を貫かんとするばかりだ。


「ははっ、何処を見てござる!?」


「……っ、ちょっとぉ〜術はずるいでしょぉ〜!?」


 だが次の瞬間、そこにはもう隼の姿は無かった。代わりに椋の木刀が弾いたのは、人の胴体程の太さの丸太だ。

 それは忍鴉達が使う常套手段、隠れ身の術。それに気が付いた椋は、消えた隼を探しながら文句を零す。


「――覚悟ッ!」


「う、やば……!」


 椋は気配を感じて振り返る。そこには先程まで探していた姿が。隼は既に身体を捻り、回転斬りの構えを取っていた。


 ならば、先手を取るまで。

 一瞬でそう判断した椋は、自分目掛けて振り下ろされる右手を木刀で弾いた。


「む――!」


 咄嗟の事に隼は思わず手を離してしまう。そのまま制御を失った短刀は勢いを失速させる事無く、


「――ッ! 桐ちゃん、危ないっ!」


 桐の方向へと飛んで行った。


「ぇ……」


 急な事に、身体は動かなかった。

 迫る木刀。いくら短刀と言えど、あの勢いの物が当たれば無事では済まないだろう。

 頭から送られた信号が一番早く到達したのは顔だった。ぎゅっと目をつぶって、目の前の現実から逃れる様に顔を逸らす。


 ふと、目の前に何かの気配が現れた気がして、訓練場に流れる緊迫の種類が変わった様な気がした。


「――――!」


 桐が目を開ければ、そこにあったのは蒼色の背中。何度も何度も、心の中で懺悔を塗り重ねた彼の姿。


「……っ、何をしている、お前ら」


 彼――蒼嵐は、痛みに耐える様に息を吐き出すと、刺々しい叱責の言葉を静かに落とした。慌てて訓練場の中心に居た二羽が飛んで来るのが見える。


「……お前も、自分の身を守れないならこんな場所に来るな」


 群青の瞳が桐を貫いた。そこに孕まれる非難の感情に、桐は蛇に睨まれた蛙の様に動けなくなってしまう。


「――っ、ご、めんなさ……っ!」


 溢れる恐怖を抑えながら声を振り絞ったその時、桐は彼の腕に流れる血に気が付いた。彼は、飛んで来た木刀をその手で弾き、自分を助けてくれたのだと今更ながら理解する。


「……これくらい、いつもの事だ。放っておけば治る」


 蒼嵐は、突然桐が視線を注ぎ始めた場所へと目を向けると、少しだけ目を見張って、それから静かな声で弁明する。そうして気不味くなったのか、彼は踵を返してその場から去ろうとした。


 ――あぁ、行ってしまう。


 ――また助けられたのに、私はこのままでいいのか。



 ――――そんな訳、無い!



「――――!」


 蒼嵐は僅かに袖を引かれた感覚に、歩みを止めた。弱々しくも、「行かせない」という意思が込められた力。

 振り返れば、立ち上がった桐が両手で自分の袖を掴んで、引き留めているのが目に入った。


「だ、め……です! わ、私……私が、治します……からっ!」


 怯えを振り払うように絞り出された声。じっとこちらを果敢に見つめる浅葱の瞳には、固い決意が宿っていた。

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