十九話 もう、恐れないから
翌日、桐は一人きりであった。緋月もハクも、勿論ヤタも、彼女らと共に来た者達との話し合いがあるらしく、久しぶりに静かな朝を迎えたのである。
「…………」
桐はそっと訓練場の方へ目をやった。努力の甲斐か、兵士の彼らとは会話を出来る様にまでなっていたのだ。
いつも彼らが口々に言うのは、「ただでさえ蒼嵐様も厳しいのに、そこにヤタ様まで加わっちゃ大変さが倍増する」という事であった。
「……ふふっ」
その言葉を聞いたヤタが憤慨して、兵士達が蜘蛛の子を散らす様に逃げていく様子を思い出して、思わず桐は笑い声を漏らす。
もう既に、すっかり恐怖は薄らいでいた。
けれど、それが故に、蒼嵐に対して未だに上手く接せられない事を同時に思い出して、心がチクリと痛む。
どうしてか分からないが、彼に対する恐怖だけは全く拭えなかった。まるで怒れる鷹の様なあの瞳に見つめられると、何も言えなくなってしまう。
「……っ!」
思わず泣きそうになって、ハッとした。桐はぶんぶんと頭を振って陰鬱とした考えを打ち払う。
そうやって気持ちを入れ替えると、今日こそはという思いで深呼吸。
「――今日は、私一人で……!」
そうして、桐は確かな足取りで前進を続けるのであった。
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「――あれっ!? 桐ちゃん!? 一人で来たの!?」
一人で赴いた桐を出迎えたのは、既に素振りを始めていた疾風であった。朝の早い時間という事もあってか、他の兵達も疎らにしか居ない。
「は、はいっ! 今日は、その、緋月さん達は他の用があるみたいで……!」
まだ僅かに緊張するものの、それは心地の良い緊張であった。桐は少し上擦った声のまま答える。疾風は「そっかそっか」とまるで幼子を見る様な眼差しになっていた。
「……あれぇ? 巫女姫様だぁ〜、おはよぉございまぁす!」
「本日も誠に良き風でござりますな!」
そうして二人が話していると、奥で同じく素振りをしていたらしい兵士達がやってくる。
「あ……、おはようございます! えぇと、椋さんと、隼さん。良い風ですね!」
桐は話せる様になった二人の名を呼びながら、覚えたての挨拶を返す。「良い風だ」と言うのが、鴉天狗達の一般的な挨拶だった。
のんびりと目を細めて笑う椋と、忍鴉特有の口布の奥で笑う気配を見せる隼。彼らは疾風の隊の一般兵だ。
「ねぇねぇ疾風様ぁ、今日は何すんのぉ? 素振りばっかで飽きちゃったぁ〜」
と、丁度話が区切れた所で、椋は眠そうな眼を瞬かせながら疾風に問うた。うんざりと正直な事を言ったからか、隼に横腹を小突かれている。
「え? うーん、そうだなぁ……ヤタ様も蒼も居ないし、今日は模擬戦でもする?」
ヤタが居れば彼女にこてんぱんにされ、蒼嵐が居れば基礎を厳しく叩き込まれる。そんな兵士達にとって、好きに模擬戦をさせてくれる疾風は救世主の様な存在だった。
「……! いいねぇ〜、賛成でぇ〜す」
「じゃあ俺が審判やるから、椋と隼でやりなよ! 皆がいい感じに集まったら開始ね!」
模擬戦と聞き、途端に目の色が変わった二人の兵士を見て、疾風はケラケラと楽しそうに笑いながらそう告げる。
「承知! 手加減はせぬ故、覚悟するでござる、椋!」
「あははぁ、そっくりそのまま返すよぉ〜、隼ぁ〜」
そう言い合う二人の目付きは、まさに獲物を狙う猛禽類。普段は温厚な二人であったが、一般兵の中では一、二を争う血の気の多さだ。それが故に、次期棟梁で実力もある疾風の隊に配属されているのである。
「巫女姫様ぁ、おいらの事応援しててねぇ〜」
「む、卑怯でござる! 巫女姫殿、何卒拙者を!」
だが、それも次の瞬間には和らいで、椋と隼は口々に自分の応援をと桐に頼む。その様はまるで餌を求める雛鳥の様で、桐は思わず笑声を零した。
「ふふっ、じゃあお二人共応援しますね!」
桐が笑顔のままそう答えれば、二羽の鴉は満足そうに頷いて、これから始まる褒美の時間の為の準備に消えて行く。
――かなり順調だ。これならきっと、もう怯える事も無くなる日も近くなるだろう。
そんな思いを抱きながら、疾風に促されるままに休憩用の長椅子の元へと向かった。
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しばらくして模擬戦は始まった。久しぶりの仲間同士のぶつかり合いに、兵達は皆大盛り上がりである。
始めは地獄からの悲鳴の様に聞こえていた歓声も、今では桐の心を同じく踊らせる要因の一つになっていた。
自分には無い、純粋な力同士のぶつかり合い。その目を見張る様な素晴らしさに、桐は感心だけでなく一種の憧れさえも抱いていた。
「やっちまえ椋ー! 忍鴉なんか目じゃ無いぞー!」
「隼ー! そんな寝坊助野郎ぶっ飛ばせー!」
「勝った方が隊長だー!」
「えっ!? ちょっと待って!? どっちが勝っても隊長は俺のままだからねっ!?」
訓練場には様々な野次が、時には疾風へのイジりが飛んで、場はどっと笑いに包まれる。
未だに大きな声に身は竦んでしまうが、彼らに悪気が無い事を桐は既に理解していた。だから、すぐに身体を弛緩させ、今にも始まりそうな戦いを注視する。
「――では、始めっ!」
疾風の大きな声が空気を揺らした。それとほぼ同時に二人の兵士は駆け出す。
「――しっ」
速さを制するのは隼の方であった。しかし、彼の振るう二振りの木製の短剣は、のらりくらりと揺れる椋には当たらない。
「南無三っ!」
「あはぁ、おかえしぃ〜」
まるで二羽の鴉は戯れる様に切り結ぶ。椋は緩急を付けた動きで隼に迫った。それは間延びした言葉通りやり返す様に、しかしその勢いは隼の喉を貫かんとするばかりだ。
「ははっ、何処を見てござる!?」
「……っ、ちょっとぉ〜術はずるいでしょぉ〜!?」
だが次の瞬間、そこにはもう隼の姿は無かった。代わりに椋の木刀が弾いたのは、人の胴体程の太さの丸太だ。
それは忍鴉達が使う常套手段、隠れ身の術。それに気が付いた椋は、消えた隼を探しながら文句を零す。
「――覚悟ッ!」
「う、やば……!」
椋は気配を感じて振り返る。そこには先程まで探していた姿が。隼は既に身体を捻り、回転斬りの構えを取っていた。
ならば、先手を取るまで。
一瞬でそう判断した椋は、自分目掛けて振り下ろされる右手を木刀で弾いた。
「む――!」
咄嗟の事に隼は思わず手を離してしまう。そのまま制御を失った短刀は勢いを失速させる事無く、
「――ッ! 桐ちゃん、危ないっ!」
桐の方向へと飛んで行った。
「ぇ……」
急な事に、身体は動かなかった。
迫る木刀。いくら短刀と言えど、あの勢いの物が当たれば無事では済まないだろう。
頭から送られた信号が一番早く到達したのは顔だった。ぎゅっと目をつぶって、目の前の現実から逃れる様に顔を逸らす。
ふと、目の前に何かの気配が現れた気がして、訓練場に流れる緊迫の種類が変わった様な気がした。
「――――!」
桐が目を開ければ、そこにあったのは蒼色の背中。何度も何度も、心の中で懺悔を塗り重ねた彼の姿。
「……っ、何をしている、お前ら」
彼――蒼嵐は、痛みに耐える様に息を吐き出すと、刺々しい叱責の言葉を静かに落とした。慌てて訓練場の中心に居た二羽が飛んで来るのが見える。
「……お前も、自分の身を守れないならこんな場所に来るな」
群青の瞳が桐を貫いた。そこに孕まれる非難の感情に、桐は蛇に睨まれた蛙の様に動けなくなってしまう。
「――っ、ご、めんなさ……っ!」
溢れる恐怖を抑えながら声を振り絞ったその時、桐は彼の腕に流れる血に気が付いた。彼は、飛んで来た木刀をその手で弾き、自分を助けてくれたのだと今更ながら理解する。
「……これくらい、いつもの事だ。放っておけば治る」
蒼嵐は、突然桐が視線を注ぎ始めた場所へと目を向けると、少しだけ目を見張って、それから静かな声で弁明する。そうして気不味くなったのか、彼は踵を返してその場から去ろうとした。
――あぁ、行ってしまう。
――また助けられたのに、私はこのままでいいのか。
――――そんな訳、無い!
「――――!」
蒼嵐は僅かに袖を引かれた感覚に、歩みを止めた。弱々しくも、「行かせない」という意思が込められた力。
振り返れば、立ち上がった桐が両手で自分の袖を掴んで、引き留めているのが目に入った。
「だ、め……です! わ、私……私が、治します……からっ!」
怯えを振り払うように絞り出された声。じっとこちらを果敢に見つめる浅葱の瞳には、固い決意が宿っていた。




