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陰陽亭〜安倍緋月の陰陽奇譚〜  作者: 祇園 ナトリ
第三章 鴉天狗の里編
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十七話 震えながらの一歩

 ――怖い。


「わ、ヤタと互角なんて、疾風くんって凄いんだね!」


 ――怖い、怖い。


「せやねぇ。皆大盛り上がりなんねぇ」


 ――空気を揺らす低い声が。沸き立つ歓声が。飛び交う野次が。雄叫びが。


 どれもこれも、桐にとっては知らない物ばかりだった。ただ、覚えていないだけなのかもしれない。

 けれど、その存在達を前にした途端、足が竦んで、声が出なくなるのだ。これを、恐怖と呼ばずになんと呼べばいいのだろう?


 桐は震える身体を、隣の安心出来る存在に押し付けて、ただじっとこの時間が終わるのを待っていた。

 確かに、変わりたいと言ったのは自分だ。それでも怖い物は怖い。いきなり恐怖の底へ落とされて、すぐに這い上がれる程の精神力は持ち合わせていなかった。


「――づっ! ぅゎぁぁぁああぁあぁぁああッッ!?」


 不意に、一段と大きな声が響き渡って、桐は思わず身を竦ませた。小さく悲鳴が零れる。


「――! あんのアホガラス……今のはアカンわぁ。あん子、怪我してへんやろか?」


「ねぇ、今すっごい音したよ!? 疾風くん大丈夫かなぁっ!?」


 隣の存在は唸るように零した。落とされるのは焦りを帯びた声。もう一人の心を和ませてくれる存在も、慌てた様に声を上げている。


「――?」


 少しだけ気になって、恐る恐る顔を上げみる。

 騒ぎが起きていたのはそう遠くない場所だった。先程まで戦場に居たはずの恐怖の対象は、いつの間にやら木刀と木片の中に埋もれている。


 恐怖の対象は、何やら炎そのものの様な神様と言葉を交わしながら、周りに助け起こされていた。

 その時桐は、その存在から赤い何かが零れて地面に落ちるのを目撃する。


 ――嗚呼、血だ。きっと、怪我をしたんだ。


 咄嗟に顔を上げてしまい、後悔する。すぐ様恐怖が身体中を這い回って、心の臓がぎゅっと掴まれた様な心地がした。

 けれど、けれど――それを上回る気持ちが、桐の心中に現れる。


 ――大丈夫、だろうか?


 それは心配。恐怖の対象の身を、案ずる気持ち。

 あの存在は、とても怖い。けれども、あの存在は、自分に良くしてくれる方達にとても愛されている。


 自分なら、役に立てる。今なら、きっと受けた恩を返す事もできる。

 何より、()は傷付いているのだ。そんな存在を放っては置けない。


 だから、桐は――。


「……は、ハクさん。お願いが、あります……」


 勇気を出して、小さな一歩を踏み出した。


****


「――――!」


 桐のか細い声を聞いて、疾風は瞬時に口を噤んだ。そのまま後ろへ、ヤタに掴まれていない手をそっとやって、己に群がっていた兵士達にも指示を出す。


 ――声を上げるな、気配を消せ。


 それはそんな合図であった。蒼嵐を含む暗殺部隊がよく使う合図なのだが、疾風達一般兵も使えない訳では無いのである。


「ふむ……? ――疾風、ちょいと失礼しますよ」


「へっ!? ちょっ痛……むぐぐ」


 ここからどうするかと思案していた疾風は、唐突に強い力で肩を下に押され、襲ってきた痛みに思わず声を上げた。慌てて膝を折り、口元を抑えながら痛みの発生源に目をやろうとして、それも出来ない事に気が付く。


「……え、ヤタ様?」


 目の前をヤタの身体が遮っていたのだ。しっかりと疾風の腕を抑え、動かない様に固定している。どういう事かと困惑の視線を彼女に向けるが、ヤタはそんな事はお構い無しであった。


「ほれ、お前達も後ろでも向いてしゃがんでいなさい」


 頭上で響く声は、どうやら兵士達に指示を出している様だ。身体を固定されているので振り返る事は出来ないが、背後から戸惑う様な雰囲気をありありと感じる。


「……ほら、桐。これなら平気なんね?」


「――っ、は、はぃっ!」


 聞こえて来た桐の返事は裏返っていた。それと同時に、誰かの気配が――恐らく桐の気配が近付いてくる。前が見えなくても分かる程の緊張具合に、何故か疾風まで緊張してしまい、静かに身を固くした。


 沈黙が落ちる。すぅ、はぁ、と小さな深呼吸が聞こえた。何が始まるのだろうと、思わず疾風は息を飲む。


「――か、掛けまくも(かしこ)き……や、八百万(やおろず)の神々よ……! 我が願いを(きこ)()せと、畏み畏み(もう)す……っ! こ、この者に、安らぎと癒しを……!」


 緊張で震え、時折つっかえながら桐が唱えたのはそんな言葉だった。疾風には意味がさっぱりであったが、首を傾げている内に、負傷した腕へ暖かな力が流れ込んで来るのを感じる。


「……おぉ、これは凄いじゃないですか!」


 ヤタがそう零す間にはもう、すっかり腕の痛みは引いていた。そうして腕の力に気を取られている内に、桐の気配は目の前から消え、疾風は拘束から解放される。


「――えっ!? け、怪我が治ってる……!?」


 数分ぶりに見た腕は、先程までの惨状の面影をすっかり失っていた。言うなれば、怪我をする前の状態。いつもの見慣れた腕がそこにあった。

 疾風が思わずと言った様子で声を上げれば、後ろに控えていた兵士達もわらわらと彼の元へ集まって来る。


「――! 誠に治ってござる!」


「えぇっ、叩いても痛くないのぉ?」


 駆け寄って来た、特に疾風と仲の良い兵士二人は興奮した様に声を上げた。疾風は促される様に軽く腕を叩き、


「うん、痛くない!」


 と叫び声を上げる。それを聞いた二人の兵士は顔を見合わせると、先程の比では無い勢いで疾風の腕を叩き始めた。


「え、ちょっ! 痛っ……や、流石にその勢いは痛いから!? え……でも……やっぱり痛くない! 治ってるーっ!」


 二人以外にも囲まれ出した疾風は脱兎の如くその場から走って逃げ出すと、すぐまた興奮した声ではしゃぎ出した。


「あーあー……ほんまに緋月と変わらんねぇ、疾風は」


 唐突に走り回り始めた疾風を見ながら目を細めるのはハクだ。その言葉を聞いた緋月は「あたしぃ!?」と講義の声を上げたが、確かにそうだとも思ってしまい、そのまま口を閉じる。


「うわーっ凄い! え、ねぇ、これってあの話みたいじゃない!? あれ、ほら……『巫女姫様』の伝説!」


 遠くで疾風の大声が轟いて、ハクの背後で桐が身体を縮こまらせる。聞き覚えの無い言葉に緋月は首を傾げた。


「みこひめさま……? 何の話だろう?」


「ん〜、なんやろねぇ。……アホガラス、なんか知っとる?」


 ハクも同様に首を傾げる。今この中で一番里に詳しいのは、恐らくヤタだ。故にハクは隣で阿呆(はやて)を見つめる阿呆(ヤタ)に声をかけた。


「アホじゃねぇです! ……えぇと、なんでもこの里に伝わる伝説だとか……? 昔、怪我をした鴉天狗を、黒髪の美しい天女が凄い術で助けたそうです。それを今でも『巫女姫様』と呼んで崇めているらしいですね」


 案の定ヤタは伝説について知っていた。疾風に向けていた呆れた目を釣り上げて、「アホ」という言葉を否定すると、すぐ様何かを思い出す様な目つきになって答える。


「黒髪の……。ウチ、なんか黒髪の凄腕の陰陽師なら知っとるんやけど……まさか、なんて事はあらへんよなぁ」


「えぇ、多分ヤタさんも同じ事考えてます」


 その話を聞いた時、ハクの脳裏に浮かんだのはとあるかつての主の姿であった。恐らく、今も元気に城内をほっつき歩いているはずの。

 二人の会話を聞いていた緋月も、何となく「じー様なら有り得る」と思ってしまっていた。


「……って、あれっ!? いつの間にか兵士の皆、戦い始めてる!」


 そのまま緋月は、先程まではしゃいでいた兵士達へ意識を戻すと、彼らがいつの間にか木刀を持ち、何でもありの乱闘を繰り広げている最中である事に気が付いた。


「おっ! いつの間に面白そうな事をやってるではありませんかぁ! ヤタさんも混ざってきます!」


 緋月に続き意識を思案から引き戻したヤタは、嬉しそうに言葉の語尾を上げる。そして、羽根を空気に打ち付けてあっという間に兵士達の元へ飛んで行くと、そのままの勢いで奇襲を仕掛けた。


「はぁ……ほんまに元気やねぇ」


 呆れ顔でそれを見つめるハクは、背後の桐の怯えが薄らいでいる事に気が付いていた。僅かに顔を覗かせて、兵士達の様子を伺う気配も感じる。

 何とも荒療治かに思えたヤタの作戦は、どうやら思ったよりも効果があった様だ。


 こうして、また日は暮れて行く。この日桐は、僅かに、だが確かに前進したのであった。

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