人でなし、街へ出る!
霧の暴力は半時ほど続いた。
人のみならず、ヨゾラの進行方向にいた魔獣も含めて悉くを貪る。
安全な道ではなく、最善の道。
ヨゾラを逃すために許容した最小限の被害は、イグル自身が『人としての最低限を損なうこと』であった。
己が本性を明かして、遺憾なく敵の殲滅に発揮する。
それがイグル自身の嫌う手段であったとしても、良くしてくれた男との敵対と、ヨゾラを知らない母に重ねたときから覚悟は決まっていたのだ。
人を食う。
その食感が、父を想起させた。
「父とは違う味だ」
霧の一部が一塊になって蟠る。
やがて大きな四足獣を象ると、命を得たかのごとく明瞭な輪郭を以て雪に足跡を刻む。
まだ霧から逃げ延びていた一人は、その姿に目を見開く。
一目で、誰もが美しいと称する自然の具現がそこにあった。
馬のように頭頂から首筋にかけて生える豊かな金の鬣と、隆々とした筋肉の鎧で包まれる熊より大きな黒い体躯、理性の光を宿す怜悧な灰色の双眸は、今まで見たどんな獣にも無い神聖さがあった。
仲間を食らい尽くしたバケモノだと言われても、それは自身らがこの山のヌシに捧げられた名誉ある贄――とさえ錯覚させるほどに。
灰銀の瞳は、最後の一人を捉える。
恐怖は遥か遠くに。
神秘の体現を目の当たりにし、息を忘れて見入った。
獣の吐く白い吐息すら、消えるのに名残惜しく思わされる。
振り向く挙措へ、筆舌に尽くしがたい感動で唇がわななく。生きることよりも、この獣を記憶に刻むことに生命が力を注力する。
生きることより、この獣を見ていたい。
呼吸は要らない。
鼓動も要らない。
ただ目に焼き付ける。
やがて、呼吸を忘れたその一人は呆気なく事切れた。
「……………」
獣はいま事切れた死体を見下ろして、周囲を見渡す。
魔獣が周囲を包囲していた。
赤い目を爛々と輝かせて、今まで群れなかったはずの彼らが巨大な狼を狩ろうとしている。本来なら独立している彼らが結託しなければならないほどの敵として認識されている。
唸り声を上げて、じりじりと躙り寄って来た。
彼らは――怒っているのだ。
狙っていた黒装束たちを、すべて横取りされたから。
「君たちは、言葉が通じないもんな」
一斉に魔獣たちの尾が鞭のように鋭く打ち出される。
それに対し、イグルもまた尻尾を軽く振る。
まるで足下の雪を払うような何気ない仕草で――一斉に迫る鞭の尾たちが、イグルを中心に発生した突風で弾き返される。
再び魔獣たちと睨み合う。
イグルは彼らを見つめて――。
「食べられそうなところが無いんだよな」
獣の姿からは不相応な、少年の声。
魔獣たちは再び飛びかかろうとして、イグルの遠吠えに呼応したかのように足下から突き出た錐状の地面に貫かれて悲鳴を上げた。
それだけに留まらず、魔獣の体内に触れる部分は更に変形し、内側から多方向にさらなる突起を発達させてズタズタにした。
血飛沫を噴いて沈黙する魔獣たちに、イグルは森の中を歩き出す。
イグルは北の空を見上げる。
今から走れば、ヨゾラに追いつくだろうか。
少し考えた後、それは止めた。
自分の本性を知った彼女が、もう今さら自分と会いたいとは思わないと感じたからだ。
「俺も、行こう」
ヨゾラとは反対に、イグルは森を南下する。
森中に潜んでいた敵はすべて排除した。――再び、イグルの山へと戻る。
静けさは以前のように、だがそれがイグルにはもう堪えられないものになっていた。
『オマエは混ざり物だ。母のような人間にも、わたしのような獣にもなれない』
父は巨大な狼だった。
その姿に息を呑んだイグルを、しかし父は感情は『無駄』だと言った。
生命に美醜を見出してはならない。
所詮、人も獣であり奪うことしか能が無い。
そんなものに拘泥すれば、『半端者』のオマエは何者にもなれない、と厳しく叱責された。
愛情があったか分からない。
いや、父の言葉に従うなら無かっただろう。
同じ獣の血がありながら、『純血』と『混血』という異なる立場にあった。
だから父は、自身を敵と見定めた。
同じ者でしか群は成せない。
最終的に父とは山における食物連鎖の頂点の座を懸けて戦うことになった。
結果はイグルの勝利に終わった。
当時は父を食らうことで己は完全な獣になれるのだと、無垢な心のままに肉親を殺し、それでもなお変わることのなかった己に恐怖した。
何者にもなれない。
獣にもなれず、立ち尽くすイグルに父は最期に言い残した。
『どちらにもなれない。なら人として最低限生きろ、だがそれ以上は望むな。半端者にはそれしか許されない』
イグルに『最低限は人として、それ以上は望むな』と言い付けたのも、ひとえに人にも獣にもなれないイグルの一生が価値もないと判断してのことだ。
そんな過去を思い返してイグルは空を見上げる。
「俺は人を知るために行くよ」
誰にともなく呟いた言葉の後、イグルは夜空の下を人の姿に戻って歩いていった。
※ ※ ※
大陸東部の森の中にあるならず者の街――通称『掃き溜め』と呼ばれる、誰にも厭われた場所がある。
窃盗や殺人は日常茶飯事、一時期は国がその街へ手を出そうにも奥深くには高官たちが贔屓にしている暗殺組織の潜伏地でもあるので、誰も手の出しようがない。
ならず者たちに限界はない。
人から奪った物と、捨てられた物で埋め尽くされた街は噎せ返るような臭いが常に絶えない。
今日も今日とて。
一人の男が盗んだ物を仲間に自慢していた。
「見ろよ、これ連中が高価で取引していた衣だ!」
「足がつかねえようにしろよ」
「ソイツの名前を教えろ、俺がもっと高いの取ってきてやる!」
わんやわんやと騒ぎ立てる彼らの傍を、一人の青年が歩いていく。
その姿に目を留めた一人が、自然と距離を詰めて肩に腕を回した。青年は特に気分を害した様子もなく、突然触れてきた相手に小首を傾げている。
「よう、ここらじゃ見ない顔だな」
「そうだね、ここには初めて来る」
「ほー、新入りか」
「いや?ただ通りかかっただけだ」
青年の一言に誰もが絶句する。
この街の風評は誰の耳にも届いている。どんな事情があろうと、他に険しい道しか無かろうとら必ずこの街を避けるのがこの辺り一帯の常識だ。
そんな愚を犯すのは、温室育ちの世間知らず―――とこの街の人々が揶揄する貴族家の子供だったり、まだ未熟な幼子ぐらい。
だが、青年の出で立ちはそうではない。
十七か八の外見年齢、着ている粗末な服から貧しい生活であることは誰の目にも明らかだ。
「オマエ、分かっててここに来てんのか?」
「何をだ?」
「ここらは殺し屋やら盗人が寝床にする場所なんだぜ?」
「む、そうなのか」
知らなかったな、と小さく呟く姿に皆が笑みを隠す。
こいつ、バカだ。
騙してこき使えるかもしれない。
そんな悪巧みをする者もおり、段々と全員が青年へと距離を詰める。
本来なら、ここで己が危険であると察知しなくてはならない青年は――。
「でも人殺しや盗みはいけないぞ」
優しい微笑みのまま、そんな生温い常識を説いた。
今度こそ、その場の一同が言葉を失う。
このとき、まだ誰も知る由もない。
この人畜無害な青年が、後に『掃き溜め』と呼ばれる最悪の街を治めることなど。