人でなし、覚悟を決める
イグルは今日も今日とて安全な道の探索に出ていた。
雪で一時的に伏兵も退いていた。
だが、既にこの雪の中でも再配置されてヨゾラが現れるのを虎視眈々と狙っている。
彼らの目を逃れる道はそうそう見つからない。
そも、安全な道の条件が厳しい。
まずヨゾラの体力で踏破可能な険しさまでが許容範囲であり、次に魔獣がいない道、そして大前提である刺客の有無だ。
すべて揃える道は、正直無い。
イグルは過酷な現実に直面していた。
ここまで来ると方法を変えざるを得ない。
犠牲の無い道が選べないなら――ある程度の危険を承知して、なお被害を最小限にする道へと判断基準を変更する。
そうなれば、幾つか候補は上がる。
無論、犠牲となるのは当然――…………。
「む、あなたはこの前の」
「よう、イグル」
イグルは、覚えのある気配に振り返る。
そこには、正に声をかけようとしていた黒装束の男が立っていた。
襟巻きを贈ってくれた相手ともあり、その姿を認めたイグルは笑顔のままで彼へと歩み寄る。その懐中から、保存していた肉を一つ差し出した。
黒装束は突然のことに目を剥いて黙る。
「はい」
「これ、は」
「この前の襟巻きのお礼だ。雪でいなくなってしまったかもしれないと思ったけど、お礼がしたくて会えたら渡そうかと」
何の衒いも無い、純粋なイグルの厚意だった。
男は躊躇いがちにそれを受け取る。
「…………肉で返礼、か」
「すまない。俺にはこれくらいしか返せる物がなくて」
「あれは、質問に答えたおまえへの報酬だぞ」
「いや、聞くところによると感謝の意を伝えるのは何かを贈ることらしいんだ。あなたの襟巻きでこちらも幾分か救われている、だからこれはその感謝だ」
「…………つくづく、変わってるが良いヤツだ」
呆れ半ばに男が笑う。
その首元には既に新しい襟巻きがある。それを見て、やはり寒かったのだろう、などと見当違いなことをイグルは考えた。
男は肉を懐中に入れて銀色に染まった遠くの山を見つめる。
イグルもそちらへと視線を運んだ。
流れる雲は穏やかで、イグルの目をして明日も天候が荒れることはないと読み取れた。
「そういえば、イグル」
「なんだ?」
「おまえに訊きたいことがある」
目しか見えないよう隠された男の顔は、だがその目元だけでどんな表情を浮かべているのか、それが分かるほど険しかった。
イグルは少し面食らって、自身も真剣な表情になる。
「俺に応えられるなら、何でも」
イグルはどん、と自分の胸を叩く。
頼もしそうな雰囲気を醸し出しているが、男からすれば、それはお遣いを初めて頼まれた子供が張り切っていられる姿のようにしか見えない。
ただ本人の意気込みを認めて、男も言葉を切り出した。
「――おまえ、人を匿ってるな?」
「…………」
その問いにイグルは口を開かない。
男は、それが返答だとばかりに視線を足下へと落とした。失意と諦観、悲しさを含んだ複雑な色がその瞳を染めている。
イグルの反応に、その真実を悟った。
自身の探していた物を、この人畜無害で純粋な少年がずっと秘匿していたのだ。
少年が自分を欺く意図が無かったのは理解していた。
だから、怒りよりも――悲しみが先に湧いた。
対するイグルも、薄々と察していた。
潜んでいる刺客の存在は以前から聞いていたし、男との会話から得た情報からヨゾラを狙う存在と、男とその仲間が重なりつつあったのである。
実際に、雪山でも変わらず彼らが探す物。
それは、彼らが現れると同時期に山に潜んでいる存在に他ならない。
必然的に、ヨゾラが答えだと辿り着ける。
二人の間に声はない。
ただ静かに時を刻むように、乱れないが重々しさを含む呼吸音だけがする。
「イグル、そいつが何者か知っているのか?」
「…………」
「イグル!」
男が鋭い声で糾す。
イグルの灰色の瞳が微かに揺らいだ。
「悪いことをした、とだけ」
「…………どんな内容かは?」
「聞いていない。互いに、そこまで踏み込んだことは何も」
「なら、まだ間に合う」
男は一瞬安堵して、イグルの肩を掴む。
「我々は目撃者も殺す」
「うん」
「だが、おまえはまだ事情を深く知らない…………辛うじて知らない内に分類できる。俺が仲間に伝えるから、大人しく娘を渡せ」
「…………」
「俺はおまえと争いたくない」
男は半ば希うように要求する。
後ろ暗い仕事を請け負うこの男は、特に標的であろうが不幸にも事情を知った他人であっても、人を殺めることに何ら躊躇いは起きない。
何せ、どれもヨゾラへの愛に狂った者ばかりだったからだ。
だが、この純粋な少年は違う。
その心根は、まるでまだ人の足すら知らない深山の新雪のごとく、底なしの善性があった。
相手にしていると、不幸な目に遭おうとしていれば誰であっても哀れんでしまう。
この山中で出会った優しい少年に対して、己が理不尽の鉄槌となることを恐れていた。
「イグル」
「すまない」
「…………」
「俺は、ヨゾラに世話になっている。あなたとも争いたくはない。でも俺に人が何たるかを教えてくれた恩人を…………見殺しにはできない」
その返答に男は目を眇める。
純朴だった少年の雰囲気が――変わった。
山に注ぐ陽光のようだった印象はどこかへ、いま目の前に立つ彼は泰然自若としており、古の大樹を思わせる。
隙が無く、攻め難い。
衣の下で密かに短剣を握る手が動かない。
相手が少しでも恐怖心を見せれば、一気にその喉元まで素早く走らせた剣先で命脈を断てる。長くこの仕事をしている男にとって、それは造作もないことだった。
そして、そんな刺客としての男にとってイグルは初めてそれが困難だと思わせる正体不明の存在。
男は静かに問う。
「それは、命を賭してもか」
「山ではいつだって命懸けだ」
イグルは淀みなく、即答する。
「おまえが守ろうとしているのは、最悪の犯罪者だ」
「…………」
「おまえは、そんなヤツを守るのか?」
男の声は切実に問うていた。
――おまえは悪人を擁護するのか、と。
たしかに、これを守るというなら必然的にイグルもまた罪深い者として裁きが下される。如何に血や友情が通っていようとも、その人が犯した罪科の責任を自らも背負うようなものだ。
それでも。
「それでも、俺はヨゾラが『好き』だ」
「…………イグル」
「雪合戦も、二人でする食事も…………『好き』だから。これを大切にしたい」
「――――」
「だから、俺は彼女を守るよ」
イグルの決然とした答えに、男は幾度か追及しようとして逡巡した後、がっくりと肩を落として黙った。
真っ直ぐに自身を射竦めるこの灰色の瞳は、無垢ながらもこれから穢れていくことを甘受し、その上で堪えていくという決意に満ちている。
たとえ、男と戦うことになろうとも。
「そうか」
男は背を向けて歩み出す。
少しだけ歩いて、不意にイグルへと振り返った。
「今晩、おまえを殺す。――覚悟しておけ」
今まで見せなかった、強烈な殺意を乗せて――イグルへと最後通告を放った。
※ ※ ※
その日は突然だった。
二人での生活が一月となる節目、探索から帰ったイグルの空気は重々しい。
夕餉を用意していたので、早速食事にありつく。
「ヨゾラ」
「なに?」
「今晩、山を出るんだ」
「…………え?」
いつもと同じ簡素な食事。
囲炉裏を囲って二人で交わす談笑。
すべてがヨゾラにとって日常になりつつあった。
そんな日々を終わらせるように、イグルは静かに告げる。
その声が昼食の一時を凍りつかせた。
一瞬の忘我の後。
ヨゾラは悲しくもそれを受け容れた。
最初から決まっていたことである。
生きて『未来』を求める以上、安息はどこにもない。どれだけ滞留を求めても、常に背中を押される旅なのは承知していた。
この『千里眼』で見た未来は、それだけ過酷なのだと。
ただ、どれだけ視ても、イグルやこの山に関する情報は何一つ無かった。
だから、イグルが見せる表情や山の世界はどれも新鮮で――――。
だから、もしかしたらそんな宿命めいた旅から解き放たれる、別の道ができるかもしれないとほんの少し期待してしまっていた。
…………たった一月、続いただけ。
いつもより少し、長かっただけ。
「今晩は月が出る」
「ええ」
「魔獣と追手については任せて欲しい」
「…………でも、それはイグルが危険よ」
「ヨゾラが距離を作る時間を稼げるし、その後に俺も逃げられる」
「できるの?」
「雪合戦よりは得意さ」
イグルは穏やかに笑った。
連戦連敗の雪合戦よりは楽勝と語る。
その笑顔の裏に、重い覚悟が秘められていることはヨゾラでも察することができた。魔獣一体の相手でも容易ではない。
それに加えて追手を相手取るのは至難の業。
この一月の間、彼は調べていたのだ。
採るべき選択、冒すべき危険、得られる結果。
安穏と過ごしていたのは、自分だけ。
ヨゾラは己の能天気さを呪う。
「大丈夫」
「イグル?」
「自分の命までは無駄にしないよ。山では生き残ることが大前提だって、父が言っていたからね」
「…………」
「それに、やりたいことができた」
「やりたい、こと?」
「山を下りて、人の生活を知りたい」
「…………!」
「ヨゾラが教えてくれたし、山にはいつでも戻れるし」
ヨゾラは小首を傾げる。
ヨゾラはともかく、まさか。
「山を出るの?」
「うん、人を知りたくなったんだ」
「…………」
「父の言い付けを破ることにはなるけど」
その言葉にヨゾラが目を細める。
「イグル」
「うん?」
「きっと、山を出たらそれが最後で…………今後は二度と会えないと思う」
「そうなのか」
「だから、興味本位で聞くんだけれど」
一瞬だけ躊躇って。
ヨゾラは真っ直ぐにイグルを見つめる。
「あなたの父君ってどんな人?」
「…………」
「…………」
「厳しかったよ。生き方が弱肉強食というか、子供の俺さえ敵に見ているようだった…………いずれ縄張りを争う相手として」
「縄張り」
「山のヌシ、って感じかな」
ヨゾラはそっと視線を落とす。
座っているイグルの背後には――影がない。
囲炉裏の火に照らされている夜でさえ、屋内に映し出されるのはヨゾラの孤影のみ。
イグルは火に当たれば、目鼻や耳の裏、髪や服の中など微かな陰影ができる。
それでも、足下や他の場所にはなぜか影ができない。
「ずっと気になっていたけれど」
「うん」
「イグルに影はないのね」
「ああ、俺は無いみたいだ」
事も無げにイグルは認める。
自らの異質さを理解しつつ、恐れていない。
この一月、尋ねまいとしていたこと。
父のこと。
そして、イグルのことを今しか聞けないと思った。
「イグルは、人なの?」
「――人だよ、最低限」
今まで指摘はしなかった。
イグルは狩猟が得意である。
ただ、肉の保存や土器を入れる目的の小さな納戸以外には収納する空間が無い。狩りが上手いと自負するが、道具を使っていないのだ。
自然の道具――石や草、枝を用いた罠師なのかもしれない。
ただ、それでも異常ではある。
異様に鼻が利き、夜も問題なく活動する目。
その仕草さえ、どこか相手の油断を誘いながら近寄れば仕留めんとする獣の強かさが感じられる。
「父君はどうして君に山で暮らせと?」
「…………」
「話せない?」
「いや、きっと今晩わかる」
「今晩」
「それまで、このままでいさせてくれ」
イグルは笑う。
だが、それは悲哀の色を含んでいた。
正体について問われること、父について語ることを酷く避けている。
今晩、『答え』が分かる。
それ以上は断固として話さないつもりだ。
「何だか」
「なに?」
「ヨゾラは母さんみたいだね」
「イグルの?」
突拍子もない言葉にヨゾラは目を見開く。
何か、彼に母性でも感じさせただろうか。
「俺は母を知らないんだけれど…………獣は雌雄一対だから、父にもツガイになる母というのがいたんだろうと思って訊ねたことがあるんだ」
「…………それで?」
「母は子に道徳を、父は生きる術を教える者だって」
「…………母君は?」
「…………殺されたんだ――――父に」
そこでイグルの顔が険しくなる。
時折見せる、陰鬱な表情と同じだった。
「どうして?」
「父にとって母は獲物で、俺は手違いで生まれたんだと。俺は同類だから、一応は育てられたけど…………いずれは縄張り争いの敵だって」
「そっか」
ヨゾラは納得した。
彼の言い回しや、無駄を省く性質。
言わずとも彼の父もどうなったか察せられる。
その在り方は、まるで――。
「ヨゾラ」
「なに?」
「俺は、人になれるかな」
イグルが困惑した顔でヨゾラを見る。
その視線は、どこか期待と不安に満ちていた。
縋るような弱々しさを感じてヨゾラは苦笑する。
「イグル」
「…………」
「あなたが大事にしたいと思ったことを、貫けば人として在れるわ。あなたが、人として在りたいという気持ちも、その一つ」
「…………うん」
ほっとイグルが胸をなで下ろす。
それから。
「やっぱり、ヨゾラは母みたいな人だ」
イグルはヨゾラに識らない母の面影を重ねて、幸せそうに微笑んだ。