人でなし、『好き』を知る
その日から雪は続いた。
さしものイグルさえ動けない天候となる。
吹雪けば視界はほとんどが白く染まり、つい先刻まで見えていた物もが隠れ、もはや現実なのかさえもが定かではなくなる。
ただ冷たく、死んでいくだけの世界だ。
「『都市伝説』って知ってる?」
「都市、伝説」
「その反応、聞いたこともないでしょ」
「うん」
小屋を出れない間、イグルはヨゾラと話している。
この山へと至るまでの旅路を物語の調子で聞かされたイグルは、『旅とは何たるか』の一端に触れて感動している。た
山の外には知らない物が沢山ある。
識ろうとしなかっただけで、世界は山だけで終わっていない。
そのことに驚愕と、そして奇妙な寂しさがあった。
「世界には不思議が沢山あるわ」
「不思議がたくさん……………それは、魔獣みたいなのがゴロゴロといるわけか」
「ううん、一概にそうとは言えないけれど…………時に人を驚かせたり、幸福にしたり、間違って出くわせば危険なのもあるわ」
「むぅ、奥深い」
全然わかっていない顔でイグルは頷く。
奥深い、とは単に今では理解が届かないという意思表示でもある。
幼子のような彼の反応に、ヨゾラは慈しみすら持って一つずつ話した。
見た目は、およそ十七か八の年の頃。
物心付く頃から山にいて、まだ多くを知らない子供っぽさ以外は、ヨゾラとも変わらない人間だ。
…………そう、見えている。
次にイグルは山について語った。
幼い頃の熊との逃走劇を演じたという肝の冷える話から、北西の谷の向こうでは人の死体が絶えない戦争が起きているという話題に上げたイグルの感性を疑ってしまうような話まで。
ただ、どれも一貫して俯瞰者のような語り口調だった。
熊に襲われても傷を負ったことも、死体を見ても、ただそこにあるだけと言わんばかりにイグルは無感動だった。
話の中に、彼の所感が交じえられて話されることはない。
何も、感じない。
事実だけを語る話だ。
「ねえ、イグル」
「ん?」
「自分が危ない目に遭ったとき、怖いって思わなかったの?」
「ああ、思ったかもしれない」
「……………」
「でも過ぎたことだから気になってないかな、無駄だから」
イグルはいつものように微笑む。
「その分、ヨゾラの旅は凄いな」
「そう?」
「街とは、人とはまだ俺には理解できないけど色々な物で満ちてる。…………正直、きっと俺が異常なだけだと、思い知らされた」
「えっ――――」
イグルは恥じ入るように顔を俯かせる。
山と街の差異は、ヨゾラが如何に配慮してイグルに分かりやすく語っても、その言葉の端々から滲み出る。
ヨゾラが絶対の常識として信じる物が根底にあり、それを元に話していた。
だが、それが共通認識とは限らない。こと、イグルに関しては尚更だ。
「イグル、あなたは悪くないの」
「…………」
「あなたはただ、機会が無かっただけ。そして、律儀に父の言い付けを守っていたから何も知らないだけなの」
「律儀…………俺が?」
「子供なんて好奇心の塊よ。子供の頃に親の言い付けをきちんと守れた人なんて、きっと世の中探してもいないわ」
「…………」
イグルはぼんやりと、その言葉を聞いていた。
言い付けを破るのは悪い子、だから躾けられるのは父から教えられたことだ。
つまり、そう。
山の外は、悪い子だらけなのか!
イグルは山の外が無駄なことで満ちているだけでなく、必要なことを疎かにする者ばかりという曲がった知識を獲得した。
「山の外に、良い子っているのかな」
「いるわよ」
「でも、言い付けを守った人はいないって」
「そこは、イグルがもっと人と関わるようになれば自ずと知れるわ」
「むむ」
イグルにとっての殺し文句だ。
必要最低限で過ごしたからこそ、自分は無知なのに……………。
これ以上の交流は単なる余分、無駄なことだ。
それでは、自分は一生無知なままじゃないか。
そこまで考えて――ふと、イグルは自身がそれを嫌がっていることに気付いた。
まさか、知りたいのか――山の外の、無駄を。
「……………」
「イグル?」
「いや、何でもない。それより、明日には雪が止むと思うから、探索をまた始めるよ」
「無茶はしないで」
「もちろん」
イグルはやや強引に話を切り上げる。
それから二人は、就寝した。
※ ※ ※
「ううん」
十日が経過した。
まだ追手は来ないが、足音は近付いている。
イグルは本腰を入れて、そろそろ安全経路の選択を急いだ。
既に幾つか見つかっている。
魔獣の所在と、彼らの視線から刺客の位置を予測した上で多少は危険な橋を渡らざるを得ないものの、越えれば安全に山を脱出できる道だ。
ただ、何というか。
イグルはそこに疑問を呈した。
――まるで、選ばされているな。
道が限定されている。
自然なようで、どこか人の気配がする。
本来は、いつもなら獣を追う側の立場であったからこそ、今度は相手を避けて動く立場に転じ、物の見方を変えたときに生じた違和感は新鮮だった。
狩人の動向が分かるイグル。
だからこそ逆の立場で相手の意図が読める。
確認できた安全な道は、まるで誘導の気を感じた。
「まさか、狩られる側とは」
イグルは独り呟く。
自分でもよくわからない感嘆を漏らした。
「イグルっ」
「ん?」
「外、凄いわね」
「外かい?」
イグルは立ち上がって小屋の外に出た。
真昼の山中に陽光が注がれる。
積雪で斜面が銀色に光っていつもより眩しい。
イグルも眠った後の深夜に雪が積もった。
元から豪雪地帯であったので、この事態は予測できていたのだ。風と雲の兆候から、深夜辺りにかけて強い勢威で降る。
たった一晩で足首まで届く深さ。
あとは夕刻にかけて再び降雪が始まる。
小屋が潰れないのは、屋根の形状のお陰である。
あとは快適さや広さを重視しないこじんまりとした普請なので、屋根上に雪が積もることもあまりない。
理に適った形だ。
「凄いわ、こんなに積もるなんて」
「この時期には恒例だよ」
「少し見て回って良いかしら」
「ああ、足下に気をつけてね」
一晩で銀世界に変わる山々。
あっという間の模様替えにヨゾラは驚く。
心做しかその目は輝いていた。
吹く風は昨日よりも痛くて、滑らないように頼った木の幹は触れた掌に石のような固さと冷たさを伝える。
厳しい寒さに凍えた冬景色。
なのに、柔らかい陽射しが印象を変えた。
これまで人込みに紛れ、息を潜め、人目を忍んで…………そんな風に他人の気配に自意識過剰にすらなっていたヨゾラは、活気づく街の景観すら色褪せて、その辻辻に悪意が潜んでいると恐怖していた。
だが、ここはそれが全く無い。
人の手垢に汚れていない空と土。
生まれたままの自然がそこにある。
「何もかも綺麗に見える」
「そうかな」
「イグルはそう思わないの?」
「そんなことを気にしたことがない」
イグルにとっては無駄なこと。
けれど、ヨゾラには刺戟的らしい。
ただ毎日、頭上にあるだけの空も踏みしめるだけの大地も、今の彼女はすべてが鮮やかに、清々しく映っている。
イグルには無い感覚。
人として培った、ヨゾラの感動だ。
「ここの空気は苦しくならない」
「街は苦しいのか」
「他人を気にするって、ときに苦しいものなの」
「む」
「もちろん、配慮の要らない人間なんていないけれど…………それを苦に思わないほど親密な関係、というのもあるわ」
「なるほど…………?」
「苦しいばかりじゃないわ」
イグルは理解しようと努める。
だが、まだ理解に及ぶにはまだ下地に不足が多い。
言葉は解っても、感性を共有できない。
つくづく深刻な差として浮き彫りになる。
己の未熟さばかりを自覚するのに不快になる一方、目の前のヨゾラが眩しく見える。しぜんと恨めしく思ったりしない。
イグルはその感情を、知らない。
「山は本当に綺麗」
「そうかな」
「誰もいない、何も無いのに何も必要としてないわ」
「必要無い、か」
「前までのイグルね」
「俺が?」
足取りは慎重なようで弾んでいる。
ヨゾラは新雪に自身の足跡を刻んでいった。
時折それを振り返って笑う。
無邪気な燥ぎように、イグルは彼女の姿を嬉しそうに傍らで見守る。
並んだ二つの足跡は小屋からずっと続く。
「最初はわたしを怖がっていたわ」
「怖がるって」
「未知の物を前にして、好奇心と危機感の鬩ぎ合いって感じ」
「む、それは否めない」
イグルはあのときの所感を思い出す。
最初は持ち帰ることも悩んだ。
あのまま獣道に放置するかと冷徹な判断を下した一方で、体は好奇心に動いており、結果として思考はそれを容認するように選択肢が保護へと傾いていた。
蓋を開けて見れば無害な少女。
イグルの識らない世界を教えてくれる。
この数日でも充分に刺激的だった。
そも、刺激の少ない連続の日々だったイグルからすれば魔獣もヨゾラも、頭の上に落ちた雷も同然の衝撃がある。
生活に彩りが生じていた。
「今の俺はどうだろう」
「…………」
「分からないんだ」
「わからないって?」
知りたいのか。
無駄だと排除したいのか。
「俺にはどれも無駄に思えてしまう」
「うん」
「でも、君と接する内に自分の中にもある物だと思ったんだ。…………いや、他人がいることで初めて生まれた物なんだろうけど」
「そうね」
「実は必要なのかな」
イグルは真剣な表情で尋ねる。
ヨゾラはそれに微笑み返すだけだった。
「イグルは、それをどうしたい?」
「えっ」
「捨てたい?それとも、持ち続けたい?」
「…………」
捨てるか、大事にしたいか。
二人だから得られた感情である。
ただ。
「俺はどうせまた一人になる」
「…………」
「だから、不要に――」
「要るか要らないかじゃない。イグルが持ちたいか、捨てたいか」
「それが分からないんだが」
「そっか、じゃあ」
ヨゾラが足下の雪をすくい上げる。
手中でそれを捏ねて。
「そりゃっ」
「ぷ」
イグルの顔に至近距離で投げつけた。
突然の衝撃と冷たさにイグルが悲鳴を上げる。
「怒った?」
「…………びっくりしたぞ」
「あ、怒った」
「びっくりしただけだ」
「ようし、雪合戦しちゃおうか」
「雪合戦?」
「わたし、昔はよく兄上と雪合戦したの。子供なんかはよくやるのよ」
「ふうん?」
「それっ」
「ぷっ」
二発目の着弾。
イグルは再攻撃に面食らって後ろに倒れる。
ヨゾラはその間に近くの木の陰に隠れた。
起き上がったイグルはむ、と顔を顰める。
「それは何をするんだ」
「相手が参ったというまで雪を当てる遊戯」
「遊戯」
「言うなれば、軽い勝負よ」
「…………なるほど」
勝負なら知っている。
無論、命の遣り取りだ。
ただ、軽い――というのはつまり、相手が息絶えるまではせず手加減せよ、という含意なのだろう。
…………そんな奥深く剣呑な理解を呈して、イグルもまた雪の一塊を手に取る。
「これをやる意味は?」
「後で教えてあげ――る!」
「それはもう通じないぞ」
ヨゾラが木陰から躍り出て雪を投げる。
先の不覚はもうしない。
イグルは素早く身を躱し、反撃の一弾を放つ。
だが。
「よっと」
「なぬっ!?」
ヨゾラは投げるより先に動いていた。
まるで、未来がわかるように。
弾道を今さら変えることもできず、虚しく彼方へと消えた己の一撃を呆然と見送って、イグルはその横っ面に四発目を食らう。
負けじと次の弾を投げる。
「ふふふ」
「このっ」
「はい」
「むむ、これならっ」
「どうでしょう」
「――――」
イグルは唖然とした。
まったく当たらない。
それどころか、攻撃の都度に一撃を返されている。着弾した雪よりも、当たらない敵への戦慄で体が冷たい。
思ったより難敵だ。
イグルは眦を決して雪を握る。
「ふふ、何をやっても――!?」
投げる直前。
ヨゾラが驚愕に目を見開いた。
種を明かせば単純、『千里眼』という反則を平然と行っていた彼女はイグルの次手の全容を把握し、驚かざるを得なかった。
それはただの投擲ではない。
狩猟法の一つ。
幾つもの石礫を握り、散弾のように放つ投擲法は必殺よりも、相手に確実に当てて動きを止めることを狙う攻撃だ。
即ち、これは――。
「狩りなら俺も得意だ!」
「きゃふっ」
雪礫が広範囲に放たれた。
視えていても体が追いつかず、ヨゾラは数発を受けて雪の上に転ぶ。
反則技を堂々と使っていた厚顔に見事命中する。
だが、恐れるべきはこの攻撃ではない。
強烈な雪の散弾も囮でしかないのだ。
狩りにおいて、その投擲は次に放つ本命を確実に当てて仕留める為の布石。
片手で密かに匿っていた雪塊を、イグルは容赦なくヨゾラへと擲った。
正に狩猟、相手への配慮など無い。
生きるか死ぬか…………ではなく勝つか負けるか。
「あぶっ」
「ぷふっ」
しかしヨゾラも大人しくはない。
寝転がりながらでも雪を投げて抵抗する。
相討ち覚悟の弾は、過たずイグルの顔へと命中した。
痛快な手応えに反さず、イグルも倒れる。
「ふふ、甘く見たわね」
「…………驚いた」
「え?」
「そうか、手負いの獣ほど恐ろしい物は無い。なるほど、正に狩りだ」
「え?」
イグルはひとり納得する。
ヨゾラの攻撃を受けて己の不覚を悟った。
油断は禁物、最後まで徹底的に相手を潰せ。
それは、狩りの最大基本。…………なのだが。
「ヨゾラ」
「なに?」
「ここからは、俺も本気で行く!」
「ええ、ちょっ――」
イグルが跳ねるように立ち上がり、ヨゾラ目掛けて駆ける。
その気迫に圧されたヨゾラは、確信した。
この少年、存外負けず嫌いだと。
斯くして。
開戦の火蓋は切って落とされた。
ヨゾラとイグルの細やかで、けれど白熱したその雪合戦は迫る恐怖を忘れさせ、夕刻まで続くのだった。
やがて雲が空を染めていく頃。
イグルは雪の上に正座して、深く頭を垂れた。
その拍子に肩や頭に乗っていた雪が落ちる。
眼前では腕を組んで昂然と佇むヨゾラの雄々しい姿があり、意気消沈しているイグルがますます彼女が大きく見えるようになっていた。
「参った」
「ふふ、よろしい」
「まさか狩りが得意だったなんて」
「そういうわけではないけど」
ヨゾラはその評価に苦笑する。
決定打は一つ。
結局は『千里眼』という特権だった。
イグルから逃げた後、彼の頭上の梢に溜まった雪塊を遠くから投げた雪で揺らし、その頭の上に落とすという作戦だ。
本来なら来る相手に合わせて発動しなくてはならないので、難易度はぐっと上がる。
だが『千里眼』なら一瞬たりとも外さない。
見事成功した功績もあり、イグルは強烈な一撃を受けて倒れた。
「自然を利用した一撃だった」
「そう、かも?」
「君が上手であることを認めよう」
口惜しそうにイグルが告げる。
――やっぱり負けず嫌いね。
ヨゾラはにこりと笑う。
「次もやりましょう」
「む、次があるのなら是非。今度こそ俺は負けないぞ」
「ふふ。ねえ、イグル」
「…………?」
「無駄って、楽しいでしょ?」
その一言にイグルはぴたりと止まる。
あんぐりと口を開けて驚いていた。
――そう。
この勝負は正に無駄そのもの。
勝っても負けても明日に繋がる物がない。悔しさという余分な感情の蓄積があっただけだ。
そして、解消の為に次の『無駄』を所望する己の選択。
いま、進んで無駄に身を費やしている。
「楽し、かった」
ぎこちなく、だが確かな本音で認める。
ヨゾラは満足げに微笑む。
「よろしい」
「でも」
「ん?」
「これは、二人だからできる常識だろう?俺には…………」
「違うよ、イグル」
イグルは目を瞬かせる。
「たとえ一人でも、楽しかったり寂しかったりすることはあるの」
「一人でも?」
「わたしがいなくなった後、きっとあなたは寂しくなるわ」
「…………そうなのかな」
「一人で生きることは凄く強いこと。でもね、人は一人で生きていけないの」
「…………」
「あなたは物を得るために山を下りて肉を売ったりしているでしょう?人はその肉を糧に生きてるし、とても関係が浅いとはいえ互いに関わり合ってる」
「うん」
「人としての最低限の生活は、たしかに色んな苦痛が無くて済むわ。でも、それは誤魔化しているだけ」
「…………」
「一人でいる苦しみもまたあるの。それよりも、多くの人といる方が幸せ、っていうときもあるわ…………最低限だとしても、幸せになっていいの」
「俺は不幸なのか?」
「わたしといると楽しいでしょ?」
「……………」
「一人のときと比べて、どう?」
イグルは生活を振り返る。
たしかに、味気ない。
必要不必要以外の観点が無かったイグルからすれば、ヨゾラとの日々は何よりも鮮やかで眩しく、心地よくすらあった。
言葉だって人と対話が能うための物。
笑顔だってその一つ。
ただの手段でしかなかった。
なのに――たった一人と深く関わるだけで、ここまで変化していた己に初めて気づいた。
今や手段ではなく、自身からこぼれ落ちた一部だ。
「ねえ、イグル」
「…………」
何度目かの、その呼びかけ。
イグルは改めて彼女を見る。
「雪合戦、好き?」
その問に。
「うん、好きだ」
イグルは迷うことなく応える。
そのとき、初めての宝物を得たような無邪気な笑顔がイグルの顔に宿った。