人でなし、二人を考える
二人で生活して五日が経過した。
より厳しくなる冬の冷気に堪える木々は、そこかしこで空気の乾燥に喘ぐように、ぱきりと木肌から乾いた音を鳴らす。
最近では眠れずにさ迷う獣も姿を見なくなった。
生命が息を顰める季節が本格的に始まる。
イグルもそれを身に犇々と感じ取っていた。
「帰ったよ」
「おかえりなさい」
「む」
夜中に帰ったイグルをヨゾラが迎える。
投げかけられた『おかえりなさい』に、イグルは動きを止める。
「…………」
ヨゾラは微笑を湛えた顔でイグルの様子を見守る。
やがて、視線に促されるようにぎこちなく。
「ただい、ま?」
「よくできました」
「…………」
帰宅したイグルをヨゾラが迎える。
拙い挨拶を返すイグルに彼女は微笑んだ。
新たな常識――外出時の出発と帰着の際の挨拶を行うこととなった。
イグルには、やはり無駄に思える。
挨拶に何の意味があるのか。
必要性は感じない。
だが、挨拶を交わした際に胸に宿る温かいものを抱く。また正体の分からない物を知ることとなり、ますます疑問は募るばかりだった。
ただヨゾラに訊こうとは思わない。
いずれ一人になれば感じなくなる。
「山はどうだった?」
「いつもと変わらない」
イグルが端的に様子を伝える。
夜目が利くイグルは、この夜間でも問題なく山中で行動できる。ただ夜山が危険であることは承知しているので、不用意に出かけることは今まで控えていた。
だが、今回は事情が異なる。
「魔獣は移動していない」
「そうなの?」
「群れてはいないが、一箇所に留まって獣を仕留めるでもなく待機している」
「そうなのね」
イグルは俯いた顔を顰めさせる。
ヨゾラが下から表情を覗き込んだ。
「どうしたの?」
「あれが魔獣なら、変だ」
「変って?」
「人を襲う連中が、どうして人のいない山にいつまでも留まっているんだ」
「大抵はそうなの」
「…………?」
「人しか襲わない分、人に警戒もするから不用意には動かないわ」
「でも、何だか」
イグルはそれでも違和感が拭いきれない。
あの魔獣の姿勢に既視感があった。
日頃から見る獣と同じ。
あれは、まるで何かを待っているようだ。獲物が隠れ蓑から飛び出す瞬間まで、己の衝動と戦っている奇妙な緊張感がある。
魔獣からは、それが感じられた。
「イグル」
「む」
「怖い顔してるわ」
「俺は魔獣じゃないぞ」
「ふふ、違うって」
その冗談にヨゾラが笑い出す。
イグルはそれを見て安心した。
「正直、安全な路がない」
「そっか」
「やはり人が整えた道を進む方が――いや、そこも危険なのか」
「多分、待ち構えてるわ」
ヨゾラの敵は魔獣だけではない。
通れる道は限られている。
なお、食事は摂っているがヨゾラの体力の回復は遅々としている。イグルが通れても、彼女の体が堪えられる険しさを見極めなくてはならない。
今のところ、その道は無いにも等しかった。
「明日は雪が降るかも」
「そうなの?」
「風や雲の流れ方から判るんだ」
「凄いのね、イグルは」
「山での常識だ」
胸を張ることもなく、イグルは事も無げに言った。
一見無害そうな少年だが、家に備えられた肉の保存量を見ると狩りの腕が抜群であることは素人のヨゾラですら容易に読み取れた。
山に精通した者としての実力。
山中での危険察知能力はヨゾラよりも格段に高い。
ヨゾラは彼が危険だと判断したなら正しいと信じることにした。
「ところで、ヨゾラ」
「なに」
「いつまでに山を抜けたい?」
「時間が許すならいつでもよ」
「特に期限はないのか」
「ええ」
「ふむ」
「ただ、あなたの負担になる前に出たいわ」
「そうか」
イグルは備蓄の量と照合して考える。
ヨゾラは少食だった。
一人増えても冬の間に不都合は無い。不祥事が無ければ、恙無く二人で冬は越せるだろう。なお、途中で減るのなら売り物として別の生活の足しにできる。
負担といえば負担だが、さして深刻ではない。
ただ。
「ヨゾラがいたいだけいれば良い」
「…………」
「俺は気にしないから」
ヨゾラがまた真顔になる。
視線は、イグルの底を探るように鋭い。
「わたしが心配だから?」
「うん」
「他に、何か思ってることはある?」
「他に?」
ヨゾラの問にイグルは小さく唸る。
「楽しい、とか」
「楽しい?」
「ずっと一人で暮らしていたから、二人というのが新鮮なんだ。この『おかえり』と『ただいま』は必要なのか疑問に思うけれど、誰かと取る食事はとても美味しい」
「…………」
ヨゾラが憮然とする。
イグルの笑顔は、つくづく裏表が無いと思わせるので疑う気すら起きない。
ヨゾラは好意というのが最も嫌いだった。
故国では誰よりも愛でられた。
国の王の娘として溺愛され、その類稀な美貌から人々さえもが至宝のごとく扱う。故国は、いつの間にか自分への盲目的な愛ゆえに歪んでいった。
ヨゾラが望めば、何でも手に入る。
ヨゾラが嫌えば、それは破壊される。
いつしか、ヨゾラの王国となっていた。
自分への愛で全てが狂っていく様に堪えきれず、ヨゾラはこの国の在り方を変え、いつかその歪みを正してくれる存在と会うための旅に出た。
この旅の果てに、その存在がいることは『千里眼』で知っている。
それで自分の人生が報われるかは分からない。
ただ、愛されることに疲れた。
だから、恐ろしい。
この少年すら、ヨゾラによって歪んでしまうことを危惧していた。
そんなヨゾラの昏く重い胸中など、イグルには分からない。
「イグルは…………」
「ん?」
「わたしのこと好き?」
直截的に尋ねる。
イグルはきょとんとした。
「分からない」
「…………」
「好きも嫌いも、無駄なことだから」
「無駄」
「だから、俺には分からない」
彼らしい回答だった。
危惧したことは、無い。
まだ無自覚とも取れる反応だが、少なくともその無垢なイグルの様子に、以前と差異があるようには見えなかった。
ヨゾラはふ、と思わず相好を崩す。
「でも二人になったから無駄じゃないの」
「そうなのか」
「相手ができれば好き嫌いもできる」
「…………二人、か」
「父君とは、どうだったの?」
イグルは小首を傾げる。
イグルが二人だったときなど、父と共にいたときだけだ。たしかに参考にするなら、自然と彼との生活から考えるだろう。
その頃は、どうだったか…………イグルは過去を思い返す。
だんだんと表情が苦悩で歪んでいく。
「父君のことは好きだった?」
「…………」
長い沈黙の中、改めてヨゾラが問う。
イグルの表情が目に見えて沈む。口を噤み、視線は足下へと落とされた。
触れてはならない部分だった。
ヨゾラは相手の奥底に触れたことに気づき、応えたくない彼の意思を読み取って視線を逸らす。
「じゃあ、好きな物」
「好きな物?」
「うん、これから探しましょう」
「必要あるのか?」
「人として必要だよ」
「人として…………」
イグルがまた神妙な顔で固まる。
ヨゾラの手がその頬に触れた。
「イグル?」
「昔…………俺は最低限は人として生活しろと父に言われた」
「……………」
「それ以上は望むな、とも」
「なぜ」
ヨゾラの声に曖昧な視線だけ返してイグルは部屋の中央へ向かう。
囲炉裏には土器が一つ据えられている。
その中で煮て解した肉の具合を見た。
「ヨゾラが作ったのかい?」
「ええ」
「じゃあ、二人で食べよう」
イグルの声にヨゾラは頷く。
問うた声に返答は無いまま、だが食卓は二人だけでも賑々しかった。
寒空の下の小屋に二つの声が響く。
部屋の中央の囲炉裏で炊いた火が揺れるたび、壁に映し出された一つだけの影が大きく踊った。
※ ※ ※
ヨゾラが就寝した夜、イグルはその寝顔を見てから小屋を出た。
月明かりもない中、雪が降っている。
「明日は積もるかもな」
「そうかもなぁ」
「…………」
屋根上を見上げる。
軒先に佇む黒い襤褸外套を認めて、顔を険しくさせた。
ヨゾラと出会った夜も、今日の食事中も屋根上に気配を感じていた。小屋を襲う熊や鹿などもいるので、他の獣の気配には人一倍敏感だという自負がイグルにはあった。
読み通り、屋根上には襤褸外套がいる。
「あなたはヨゾラの追手か」
「オレ様がぁ?」
「うん」
「もし、そうだと言ったら?」
「…………」
くつくつと襤褸外套が嗤う。
片手には大鉈をゆらゆらと提げていた。
手慰みか刃先で軒の木を悪戯に削っている。その音が、膚を刺すような寒気をより研ぎ澄ましていくかのように緊張感で辺りの空気を飽和させる。
イグルの直観が告げる。
魔獣とも人とも獣とも異なる危険。
正真正銘の化け物だ。
言葉としては識っていた『化け物』という存在を初めて目の当たりにしたが、その胸中に感慨など微塵たりとて無い。
あるのは推し量る心構え。
相手の一挙手一投足に気を配る。
「そうなったら」
「――へぇへへ?」
半笑いで、襤褸外套は感心する。
イグルは身構えなかった。
ただ、何故かそこに一分たりとも隙が無い。
そも、魂だけで存立している襤褸外套は亡霊そのもの。
形而上の存在である自分を認識していること自体が少年の異質さを証明している。肉体を持ち、五識に縛られた現世の住人では決して交われない。
仮にあるとすれば…………同じ死者か、同じ化け物だけだ。
二色の眼差しが火花を散らす。
襤褸外套がくつくつと笑った。
「テメェ、死人か」
「む、失礼だな」
「…………?」
「俺は生きている。生きているから、こうして君と話しているだろう」
「ほほう?」
それから二人は無言で睨み合う。
互いに、どこか親近感を抱いて――同時に、決定的に相手とは同類ではないということを悟る。
有り様は似ているかもしれない。
ただ、在り方が違う。
「追手は来てるぜ」
「…………」
「このままだと追いつかれる」
イグルの眉尻がひくりと動く。
その瞬間、風が吹いて雪が乱れ舞う。
イグルから逃げるように弾けた粉雪たちが礫となって辺りに飛び散った。
襤褸外套がひょう、と息を吹く。
「やっぱり」
「気付いてたのか?」
「…………」
イグルは答えない。
ただその沈黙が痛いほど肯定を示していた。
安全な経路の確保のための確認に赴いて、ヨゾラには黙秘している事実である。
実際に相手の目を確認したわけではないが、ヨゾラから聞き及んだ魔獣の人を襲う特性と異様な待機姿勢から概ねを推察できた。
追手がヨゾラが動くのを待ち侘びている。森の何処かに潜んで所在は分からずとも包囲網を敷いているのだ。
魔獣は、そんな彼らを狙っている。
三つ巴の戦況は、だがしかしヨゾラとイグルが圧倒的に劣勢だ。
ここにいられる時間は長くはない。
「君はヨゾラの味方か?」
「いや?」
「そうか」
イグルは襤褸外套から視線を外す。
「あなたは知ってるのか」
「あん?」
「ヨゾラがした、悪いこと」
「おうよ」
「……………追手は、ヨゾラをどうする?」
「殺す、勿論関わったテメェも。アイツの国は目撃者も殺すからな」
簡潔に返された内容にイグルが目を閉じる。
痛みに堪えるような表情は、残酷な現実に対してではなく、予想していたことへ予て用意していた手段についての反応だった。
用意した手段はイグルが厭うもの。
「彼らがどこにいるかは分かるか?」
「知ってどうするんだ?」
「ヨゾラを逃がす」
「あらま」
「うん、生半可なことでは実現できないと知っている。――それでも、やらなきゃ二人が死ぬなら仕方がない」
「ふううん?」
「例え、人としての最低限を損なうとしても」
イグルは小屋へと踵を返す。
襤褸外套をそのままに屋内へと戻った。
ヨゾラは変わらず眠っている。少し離れた壁際に座り、その様子を眺めていた。
どんな罪を犯したかは知らない。
襤褸外套の言う通り、自身もまた関係者として狙われているのだとすれば、自衛しなくてはならない状況だ。
ヨゾラだけでなく、己の身の安全も考える必要がある。
『人として最低限に暮らせ、それ以上は望むな』
最期に父は笑顔と共にその言葉を残した。
これからすることは。
きっと人としての『最低限』すら守れない。
イグルにとっては戒律のような掟。
ヨゾラより重要なこと――のはず。
「好きな物、か」
二人になって、ヨゾラは好きな物ができると言った。
この新たな生活の中で、果たしてイグルがこれまで『無駄』と断じて排除してきた物は、不必要なままなのか。
環境は変わりつつある。
「………俺は」
眠るヨゾラを前に、イグルは一晩その葛藤に苦しんだ。