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人でなし、気まずくなる



 夜が明けてヨゾラは目を覚ました。

 体にかけた黒布を剥いで起き上がる。

 距離を開けて部屋の隅では、イグルが小さくなって眠っていた。音を立てないよう歩いて、小屋を静かに出た。

 ヨゾラの黒髪が月光に照らされて妖しい艶を帯びる。

 夜の山には、風の音ばかり。

 人の営みを感じさせない寂莫とした世界は、無秩序で荒れているように見えて、その実何よりも無垢で完成している。

 人に崩されない領域は、何も無いと同時に何も必要としない。そこにいるだけで、己が自然とその一部であることを実感させられる。

 ヨゾラはほう、と感動に息をついた。

 それから。


「覗き見なんて悪趣味よ」


 やや怒りを含んだ声でヨゾラは呟いた。


「――いひひひひひっ」 


 それから屋根上を見上げる。

 頭上からは、無邪気な笑い声が聞こえた。

 しかし、ヨゾラが感じ取った気配の室はその声に反して、何よりも禍々しい悪意と闇を湛えている。

 屋根上には一つの黒い影が鎮座していた。

 軒先で風に黒外套を靡かせ、ヨゾラを見下ろしている。

 垂れた襤褸の裾は、まるで風で軒先に偶然引っかかった廃棄物のように見えるが、その奥から放たれる赤い眼光がヨゾラを捉えていた。

 笑い声は、ずっと続く。


「道草かぁ、魔女ぅ」

「そういう貴方も」


 ヨゾラは不快げに相手を見つめる。

 外套姿の闇はそれでも笑っていた。


「オレ様ぁ心配で来たんだよ。テメェがこんんなところで油売ってるらしぃからよぅ…………テメェから聞いた予知の話にこんな内容は無かったんだが?」

「…………」


 ヨゾラは黙り込む。

 この外套の言う通り、彼女には『予知』という特殊な力が備わっていた。


 遠い先――これから訪れる事象のことごとくを観測する『千里眼』の能力である。


 この能力に由来し、様々なことがあってヨゾラは故国を追われた。ヨゾラを苦しめ続けた国を、人に『悪いこと』をして、出国まで追手からの護衛としてこの外套と協力した仲だった。

 この外套は『哭く墓(シーパスム)』と呼ばれ、古来より人を襲う快楽殺人鬼。目的は知れず、ただ人を幾百年も狩り続けることから大陸の都市伝説にさえなっている。

 ヨゾラが見た未来を完遂したとき、いつかヨゾラと外套が望む未来がやってくる。

 利害の一致による契約関係。

 夢を叶えるために、ヨゾラは未だ執拗に迫る故国の追手から逃れつつ旅をしていた。


 これまでは予知した通りの道筋。


 だが――イグルという少年は視えなかった。

 今ここにいるのも予見した未来ではない。

 この山に逃れた後、西側を抜けてヨゾラは独りで次の街へと辿り着いているはずだったのだ。思いの外、体力を消費して倒れ込んだものの…………イグルが助けずとも復活し、街へと着いていただろう。

 そもそも、イグルと会う未来すら『見えていなかった』。

 未来視に無い現象。

 視える未来が変わったかと危惧したが、再び予知能力を使っても、以前とその未来に変わりはなかった。

 ヨゾラは短く嘆息する。


「大丈夫よ」

「…………」

「昨晩、改めて視ても未来は変動してなかったわ」

「ふぅん、なら良いがぁ…………」

「なに?」


 軒先の襤褸外套の声が低くなる。


「あの小僧、妙だぜぇ?」

「…………」

「五感じゃ知覚できねぇオレ様の気配によぉ、アイツ気づきやがったぁ」

「魂そのものの貴方を?」


 その問いに応えず、襤褸外套は黒い靄となって消えた。

 取り残されたヨゾラは、風に吹かれた薄霧のように退場した男の言葉について考える。

 あの男はこの世の異端。

 肉体の無い亡者だ。

 出会ったのは偶然だが、最初に見たときからヨゾラがこれまで会った何よりも恐ろしい化け物だと理解した。

 人に対し、絶対的に有害なモノ。

 本能がそう告げていた。


「悪魔との契約、か」


 そんな男と協定関係にあるヨゾラは、自身の状況を皮肉に捉えて笑う。

 もっとも、今は男は護衛ではない。

 契約は、故国を出るまでが期限だった。

 ここへは気紛れに訪ねたのだろう。


「それにしても」


 本来なら男は五感では捉えられない。

 ヨゾラも『千里眼』があって相手を知覚できている。

 あの男は、この世界とは別の次元――物質では干渉できない、魂が存在する別の領域で活動している。ヨゾラなどの生者は肉体に縛られた尋常な魂であり、剥き出しの魂で生きる男の存在そのものを察知することすら不可能だ。

 肉体という衣は守りになる。

 それと同時に他の魂と己を隔てる壁だ。

 だから魂そのものたるあの男を知覚できない。

 ヨゾラのような特殊な手段を持つ者を除いて。


「…………」


 昨日、ヨゾラはイグルを『視た』。

 ヨゾラの瞳はすべてを見透かす。

 この世のすべてに含まれ、力の素とされる魔素。その流れで起こる特別な力…………いわゆる魔力など、さらにはそれとは別の魂という存在、相手の感情、隠れている本性すらも視覚情報として暴いてしまう。

 情報収集において『千里眼』は万能だった。


「でも」


 その力ですら――イグルは見えなかった。


 全身が黒く、感情すら見えない。

 穢れ一つないというより、何にも染まっていない、染められない唯一性と同時に何にもなれない欠点を孕んでいる。

 初めて視る異例だった。


「何者なのかしら」


 黒髪に灰色の瞳の少年。

 体格はよく、一見細身だが粗末な服から覗く筋肉は逞しい。

 無害そうな雰囲気には似つかわしくない。

 鍛えられた筋肉は、だが鎧のようではなく山で暮らす上での必要最低限という、贅を省いて機能美だけを追及したような形である。

 無駄がない。

 少年の言動もその印象があった。

 素朴ながら人の挙動を具に観察している。

 山暮らしながら言語能力は対話が成立するほどには備わっていた。

 考えるほど奇妙な生き物だ。

 それに。


「あの男の気配に気付くなんて」


 ヨゾラは後ろへと振り返る。

 それから。

 ふと体が汚れているのに気づいた。


「そろそろ行水しないと」


 ヨゾラは昨晩、イグルに川の位置を尋ねていた。

 その情報を下に、山の中を歩いていく。





 ※※※





 戸口を出た音でイグルは目覚める。

 起き上がれば日が昇っていた。

 まだ霧の立つ明朝。

 夜明け前には起きる日々を送っていたイグルからすれば寝坊だ。

 二人になって、話し相手ができた。

 それに夢中になったのか、昨日はやや夜更しをしてしまった。

 部屋の中を見渡して、ヨゾラがいないことを確認する。扉の音は彼女のものだと察して、自身も小屋の外へと出る。

 それから屋根上を振り仰ぐ。


「やはり気の所為なのか」


 昨日の違和感は勘違い。

 屋根上に誰かがいたように感じてヨゾラの追手かと危惧したが、杞憂だったようだ。

 イグルは自分をそう納得させて歩き出す。

 桶を片手に川の水を飲みに向かう。

 イグル一人なら二日、三日程度の断水生活であろうと捕えた獣の血などで充分に水分補給が適う。

 それでも水を飲むのは、父の言い付けだ。

 人らしい生活を最低限。

 その指示にどんな意図があったかは知れない。


「あとはヨゾラが困る」


 ヨゾラの唇の乾燥具合。

 それを見てイグルは考えさせられた。

「これも二人ならでは、かな」

 林間から川が見えた。

 イグルはそちらへと早足に向かう。

 そして――。


「あっ」

「うん?」


 川で一糸纏わぬ姿のヨゾラと遭遇した。

 水で体を洗っていた彼女の動きが止まる。

 ヨゾラは男の目に裸体を晒したことへの羞恥を上回る驚愕で、完全に心身硬直していた。

 対して。


「やあ、おはよう」


 イグルは変わらず呑気に挨拶をする。

 ただ、その視線はヨゾラへ向いていない。

 直視しようとすると、胸の奥がむず痒くなる。見てはいけないと反射的に目を逸らすが、どこかで強く興味を引かれていることも否めない。

 ――これは、また初めてのことだ。

 また正体の分からない感情が湧いてくる。

 イグルは努めて平静を装って、川に近づいた。

 彼が常識を心得ていたなら、本来は早々に退散すべきなのだが……………。


「驚いた、ヨゾラは早起きなんだね」

「…………おはよう」

「ヨゾラは何してるの?」

「沐浴」

「水浴びか。俺は水汲みだよ」

「そっか」


 それだけ言ってヨゾラは水浴みを再開する。

 ヨゾラは何だか癪で、意地になってそのまま沐浴を続行する。

 たしかにまじまじと見られても困るが、無反応なのも複雑だ。


「……………」


 一方で、イグルも煩悶としていた。

 その姿に何故か目が惹きつけられる。

 理由が分からない好奇心の誘惑に、だがこれに抗おうとする正体不明の理性の働きによる葛藤でイグルは困惑しつつ水を汲む。

 妙な緊張感に喉が渇く。

 イグルは桶の水を一口だけ飲んだ。


 それからは言わずもがな。

 その日の朝の食卓に、イグルとヨゾラの会話は無かった。







 ※ ※ ※







 イグルは黙って家を出た。

 どこか重々しい空気の漂う小屋の中は、初めて居たたまれない、というものを感じさせた。

 あれからヨゾラは終始無言を貫く。

 明らかに怒気を滲ませる態度に、悪いことをしたなら謝罪したいが原因が分からない。理由を問い質そうにも、気軽に話しかけられる空気感ではなかった。

 イグルは無力感に嘆く。

 相手が獣ならない屈託だった。

 昨晩に決めた刑罰は取り止めて、今日は美味しいお肉を用意しよう。

 具体的に。


「今日は奮発して熊肉だ」


 イグルは覚悟を決めた。

 ヨゾラへの贖罪として熊肉を献上する行為自体は、平生のイグルにとっては『無駄』なこと。

 二人になった途端に判断基準が変わる。

 明確な差異は、まだイグルにも分からない。

 相手のことを考える――二人となったことで生まれた新たな常識を守るために考えた末の結論だった。

 …………だとしても。


「熊は危険だ」


 今の時期、大体の熊は冬眠中だ。

 起きている個体がいるとすれば、それはいつにも増して気が立っている危険な類の興奮状態で、相手にするよりはすぐに逃げるのが懸命である。

 逆に自ら探すのは愚の骨頂なのだ。

 本来なら恐ろしくて考えもしない。

 勿論、イグルも危険と承知しているが。


「でも頑張れば大丈夫」


 危機感が低いだけ。

 イグルは意気揚々と険しい山道を歩いていく。

 山行に慣れた旅人でも苦労する斜面を、およそ飛ぶように軽々と移動した。今の彼を見れば、岸壁を駆け上がる羚羊のようと称するだろう身のこなしである。

 高所に登って、麓の森を眺め回す。

 荘厳な自然の景観の中、蠢く影はすぐ見つかった。

 見つかった…………のだが。


「熊、じゃない」


 一瞬だけ輝いた顔が、すぐ消沈した。

 イグルの視線の先にはたしかに動く影がある。

 ただ、目的の熊ではない。

 どちらかと言えば、自分たちに似た姿形――黒い服の男が歩いている。

 何かを探すように、歩き回っていた。


 ――迷子かな?


 イグルは純粋にその身を案じる。

 ヨゾラのように獣道で倒れるのもまた危険だが、山の中を不用意に歩き回るのは感心しない。如何に慣れた者でも、一歩踏み外せばそこかしこに落命の罠が待ち構えている。

 山の民たるイグル自身がそれを痛感していた。

 もし彷徨しているのなら、助けるのが親切心である。

 無論、ずっと一人だった彼が親切心などというものを働かせたのは、つい昨日が初めてではあるが。


「よっ、ほっ、と――」


 急斜面を踊るように降りていく。

 途中からは半身だけを前に、前後に足を開いて少し腰を下とした姿勢で滑っていく。裸足が硬い砂との激しい摩擦に苛まれても、イグルは痛痒もない。

 人影へと迷いなく近付いていく。

 斜面の終わりと同時に、勢いを殺さず駆けた。

 風のように走るイグルの気配を察知したのか、黒い服の男が振り返って、腰から鋭い物――短剣を取り出した。

 イグルはぴたり、と立ち止まる。


「貴様、何者だ」


 男の低く険しい声がイグルの素性を質す。

 向けられる強い敵意に、イグルは緊張した。


「この近くに住んでるんだ」

「…………こんな深山に?」

「うん」

「…………名は?」

「イグル」


 昨日得たばかりの名を誇らしげに告げる。

 そんなイグルの表情は、宝物を見せびらかす子供のように嬉しそうな笑顔だった。

 こんな状況に似つかわしくない反応をされて、不思議にも黒服の男は毒気を抜かれて、我知らず短剣を持つ手が下ろされる。


「住んでいる、と言ったな?」

「ああ」

「ならば問おう。この近くに美しい娘が来なかったか」

「美しい娘」

「見た者を虜にするような悪魔だ」


 やや敵意と怒りを感じさせる表現だった。

 イグルは少し考えて。


「いや、来なかったよ」

「それは真か」

「そのアクマ?とトリコとやらが何なのかは知らないが、危険なヤツというのは分かる。でも、山の中ではそんなのは見たことがない」

「…………そうか」


 純朴な少年の返答に男は引き下がる。

 自身でも呆気ないと思うほどに、彼はイグルへ警戒せず、追及もしなかった。

 それは偏に、この嘘も付けなさそうな少年への好感かもしれないし、あるいは悪魔や虜という単語の意味すら知らない無知な少年が大した情報源にすらなり得ないという諦念かもしれない。

 だが、悲しいことか。

 男の単なる勘違いでしかない。

 比喩を用いるほど、単純なイグルは鵜呑みにするので通用せず、却って違う方向に想像を働かせてしまう。

 美しい娘、ならばヨゾラに辿り着けた思考が『悪魔』や『虜』という知らない言葉による表現で混乱していた。

 取り敢えず、危険なモノ。

 ともなれば魔獣しかいない。


「ああ、でも」

「何だ?」

「この近くにはマジュウっていうのが最近出始めているんだ。黒くて角の生えた野犬でね、森の中を歩くなら気をつけた方が良い」

「…………ほう」

「最近は日も短いから、夜は特に気をつけるんだ」


 真剣な表情でイグルは忠告する。

 黒服の男は、顔を覆う黒い布の下で小さく噴き出した。

 真面目なのだろうが、その顔が似合わない。


「忠告、感謝する」

「うん」

「私の他にも何人かいる、もし先刻の悪魔についての情報があれば仲間にも伝えてくれ。私と同じような格好をしている」

「みんなで同じ格好を?…………山の外では、皆が同じ服を着るのか」

「そういうところもある」

「なるほど」


 イグルは黒装束を眺めて頷く。

 逆に、男もイグルの格好を観察していた。

 膝下まである脚衣と、裾が破れた短い袖の上着は適度な洗濯が行われているのだろうが、何年同じ物を着ているのか分からないほど汚れなどで色褪せている。

 男は嘆息して、自身の口元を隠していた黒い襟巻きを外してイグルに投げ渡す。

 受け取ったイグルは小首を傾げた。


「冬はこれから更に厳しくなる」

「うん」

「これでも着ておけ」

「む」


 イグルが眉根を寄せる。

 それは嫌だ、とか拒絶の意味ではない。


「それはいけない」

「何故だ」

「俺にはあなたに返せる物がないし、冬はいつもこれで過ごしているから大丈夫だぞ。それに、そんなに着込んでいるなら、むしろあなたは寒がりなんだろう?」


 自分に使いなさい、と。

 イグルは男の気紛れな厚意を真摯に断った。

 本来なら気を悪くするところだが、理由が自分を労る物でもあるので、男はふと笑った。


「いいや、それはやる」

「でも」

「質問に応えてくれた礼だ。おまえには受け取る権利がある」

「質問されたら応えるのは良いことなのか」

「山の外の連中では、それをしないと悪いヤツだからな」

「なんと!」


 質問にしっかり答えるのは良いこと。

 そんな的外れな知識を得たイグルの反応に、男は和やかな気分になった。


「売るなり何なり、好きに使え」

「…………ええと」

「ん?」

「こういうときに、ありがとうって言うんだったかな」

「…………ああ、どういたしまして」

「おお。知ってはいたけど、まさか自分がありがとうとどういたしましてのやり取りをすることになるなんて」


 イグルは感動して笑顔だった。

 男はそれから、イグルに軽く手を振ってから背を向けて歩き出す。

 彼の後ろ姿を見送って、イグルは襟巻きを自身の首へと巻いた。


「こう使うのかな?――さて」


 イグルは再び、自身の目的を再確認する。


「今日は大きな熊を仕留めるぞ!」


 張り切って、目的達成に向けて再始動する。



 このときのイグルには分からなかった。

 さっきまで自分がどれだけ危険な状況にいたのか。

 それを痛いほど理解するのは、少し先の話である。




 ※ ※ ※




 ヨゾラは小屋で罪悪感に沈んでいた。

 理由は水浴びの出来事から続く気まずい空気についてだった。あの素直なイグルが必要以上に気を使い、小屋を出るときの表情はぎこちなかったのだ。

 常識のないイグルの性格から概ね分かる。

 女性の沐浴を目撃したことが悪いとは思っていないが、ヨゾラに対して悪いことをしたとは漠然と察しているのだろう。

 最初はヨゾラも怒ってはいた。

 常識が無いにも程がある!…………という忘れていた羞恥心が再燃し、怒りへと今さらながら転換したのである。

 ただ、今はイグルに申し訳ない。


「きっと、気遣わせたね」


 他人への気遣いがイグルには初めてのことだ。

 まだ人との交流に疎い彼に、最初から逆立ちで霊峰の山頂から麓まで往復しろと注文しているようなもの。

 さすがに大人げないと自省する。


「帰ったら謝らないと」


 その上で常識を説く。

 イグルのことだから厄介なことにはならない。

 そう確信して、彼の帰りを待った。

 そして、その晩。


「ヨゾラ、いる?」

「ええ」


 がたり、と扉が開く。

 イグルが帰ってきたとわかり、ヨゾラは振り返って――その目を見開いた。

 出発前まで表情の晴れない彼が、今や快活な笑顔で戸口に立っている。

 外で何かあったのだろう。

 首には黒い襟巻きをしていた。


「ど、どうしたの?」

「聞いてくれ、ヨゾラ」

「なに?」

「君には朝、申し訳ないことをした…………理由までは未熟ながら思い至ってないけれど、きっと俺が悪かったに違いない」

「…………イグル」


 猛省する姿勢を示すイグル。

 ヨゾラは感心して口を手で覆った。

 そして。





「だから詫びとして――今日は熊を仕留めてきたぞ」


 イグルは嬉々として告げる。


「はっ?」


 ヨゾラは理解できずに変な声を上げた。

 イグルが小屋の外を指差すので、ヨゾラも戸口に立って屋外を見る。

 すると――。


「…………く、熊ね」


 ヨゾラは驚愕でそんな言葉しか出ない。

 小屋の外には大きな熊が倒れていた。

 イグルの背丈を一回りも二回りも超える巨躯が、地面に草臥れている。

 ヨゾラはイグルを見やる。


「死んでいるから噛んだりしないよ」

「そ、そうなのね」


 ヨゾラは近付いてまじまじと見詰める。

 ――おかしい。

 それが第一の感想だった。

 たしかに熊は動かない、絶命している。体が思いの外萎んでいるのは、血抜きや内臓が処理された後だからなのだろう。熊の横に置かれた大きな麻袋の膨らみが、処理後のそれらなのは言わずとも分かること。

 だからこそ、怪しい。


「イグル」

「ん?」

「一体何で仕留めたの?」

「…………?」


 イグルが小首を傾げた。


「道具は、何か使わなかった?」


 ヨゾラは知っていた。

 小屋には道具を保管するところが殆ど無い。

 最低限の食器などに使われる土器は部屋の隅にあるし、肉や山菜を納めている保管庫らしき小さな納戸が外に併設されている程度だ。

 だが、そこにも狩りの道具らしき物は見当たらなかった。


「道具」

「そう、道具」


 イグルはきょとんとした顔で。


「狩りに道具が必要なのか?」

「…………何で仕留めたの?」

「それは――」


 言いかけて、ふとイグルは止まった。

 すると、襟巻きを外してヨゾラへと渡す。


「はい、これも」

「………?」

「途中で人に会って、親切にくれたんだ。俺は寒くないから、良ければ君に」

「でも、あなたの貰い物よ」

「売るなり何なり好きにしろ、だって。だから君に渡しても問題は無いと思うな」


 イグルは穏やかな笑顔で言った。

 ヨゾラは答えられていない質問への追及や、襟巻きについてなど色々と尋ねたいこともあったが、イグルの笑顔に押し止められる。

 黙って襟巻きを受け取った。


「ありがとう、イグル」

「あ!――うん、どういたしまして」

「…………?」

「凄いな。今日で二回目だ」


 イグルは一人感動して呟く。

 ヨゾラには、その真意が分からなかった。

 その後、二人は熊肉を煮てほぐした物を腹に収めて、久しい満腹感がもたらす幸福の中で眠りについた。





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