人でなし、少女を拾う
山の奥は静かだった。
そこにいれば、人の声はしない。
厳かに息づく命たちの遣り取りだけが占める自然には、忖度や煩悶などの人が人へ与える苦を受けることも皆無だ。
ずっと、そうなら良かった。
その筈だった。
薪を背負って歩く。
踏みしめる足に重みが伸し掛る。
一歩ごとに鋭く息を吐いた。
冬が厳しくなって触れる大地は冷たく固い。
山は一層そのあり方を険しくしていた。
草木は越冬のために眠り、動物も最小限の備蓄を作って眠るか緑を求めて移動するので、生気に漲っていた夏に比べれば、冬は死したも同然の静けさだけが残る。
彼もまた、その一部だった。
「今年も酷かったな」
冬の有り様に少年は独り言をこぼす。
毎年見て、感じた厳しさ。
脅かす者が少ないので安心できるが、眠り損ねた熊には注意せざるを得ないし、群から逸れて熱り立つ鹿も恐ろしい。
山に潜む以上は敵対もしばしばある。
そこで命を落とすか否か。
あとは、単純に食い繋ぐこと。
夏もまた危険はあるが、冬の闘争は力よりも精神が問われる。
もっとも。
人里離れたここに享楽はない。
他にも余裕も省かれている。
人が生活する上で憩いを求めるが、そんなことすら思考に上がらない。
だからこそ煩わしさとは無関係。
山の厳酷な在り方に愚痴など無い。
ただ。
「あれは、どうにかして欲しい」
少年は疲れ気味に嘆息する。
それは先日のこと。
山の命ではなく、自然の摂理にも含まれない異様な存在が山中を闊歩していた。明らかに熊などの獣とは、根幹から異なると直感に告げさせる生命体だった。
あれは――何と言うのだろう。
初めて見るモノだった。
十数年を山で生きた少年の見識でも解らない。
ならば。
あれは山のモノではないのだ。
ただ、人の手に作られたというのも違う。
その異質さは判別が付かない。
山にとっての異物といえば、他にもある。
たとえば――。
「ん?」
少年はふと獣道を行く足を止めた。
進行方向に転がっている影を認める。
黒く丸い塊は、布の質感があることから長い上着だと推測した。
――接近して確認すべき。
いつになく好奇心が囁く。
山の生活では暮らす中で自然と省かれる、数ある無駄の一つたる欲求が喚起されたことに自身でも驚きながら歩を進める。
同時に、危機感もあった。
動物の中には死を偽装するものもいる。
自身より強い生き物から逃れるべく死骸を演じるという狡猾な生存手段としてや、あるいは死肉であろうと貪るべく近付き油断した弱者を返り討ちにする老獪な捕食方法など。
ただ、衣服をまとう獣。
そんなものを人以外に見たことはない、少年は好奇心の向くままに動く。
がさり。
一歩ずつ、接近する。
影はぴくりともしないが、呼吸音が聞こえた。――まだ生きている。
がさり。
今度は意図的に大きく足音を鳴らす。
まだ反応は無い。
呼吸は穏やかで、眠っているようだった。衣服の下から起こる上下運動に乱れは生じない。
がさり。
遂に、その直近に立つ。
遠くからでは見えなかった正体が露わになった。
そっと覗き込むと。
「これ、は――」
少年は悲鳴とともに息を呑んだ。
そこに、人が眠っている。
少年は幾度か、山に入る自分以外の人を見たことがあるし、時に物々交換も行うのでそれが人間であるという判別は付いていた。
その上で。
目前のそれが人であるかを疑った。
混じりけのない黒い頭髪だった。艶が風が吹くたびに黒い水面のような髪の中を走る。
閉じた瞼で揺れる長い睫毛。
細いは安眠なのか緩やかな弧を描く。
土に汚れた白い頬も、触れることを躊躇われる妖しさがあった。
「……………」
同じ人のカタチとは思えない。
まるで、完成品。
山には無いが、これも人の手で作り出せる物ではない。
自然界がふと垣間見せる奇跡、山陰から現れた曙光が一瞬見せる閃き、刹那の内にしか存在できないモノを永久に形へ留めた結晶のような……………と、途方もなく終わらない表現を探して少年は当惑する。
「うん、柄じゃない」
間もなく思考を打ち切った。
これも無駄なこと。
「それより」
少年はうん、と唸る。
「命知らずか」
獣道で眠るなど言語道断。
山で生きるなら愚の骨頂だ。
「危ないし」
少年は薪に加えて『それ』を両腕で抱える。
もし獣に遭遇したら、最悪は薪を捨てて走ればいい。
背負子の肩紐を少しだけ緩めて、少年は獣道の落とし物を抱えて自身の住処へ向かって再び歩き出した。
「…………やっぱ怖いな」
噛みつかれるかも。
起きた後のことに不安が過る。
この未知の生物が危険かもと何度か迷いながら、少年は起こさないよう進んだ。
※※※
住処となる山小屋は山腹にある。
山というよりは丘であり、地滑りが起きにくい。
乱立する木々が風を削ぎ、緩やかな傾斜が続いている。小屋の周囲は完全に闇に紛れるし、稠密な木々の裏では火を炊いても遠くからは見えない。
まさしく住むには好適な環境だ。
「よく見つけたよなぁ」
感心して呟く。
それはこの小屋を建てた父に向けてである。
少年の父がここに居を構えたのは、少年が四つになる頃だった。
山に詳しい父の言葉通り、大きな災害は無い。
父は少年より深く山の理を弁えている。
狩猟の術理。
物の価値。
天候の変化。
生きる上で必要な知識は父から授かった。
今の生活の基盤の大体もそれが占めている。食料を求める獣に幾度か襲われはしたが、それは山で暮らす上で当然のこと。
奪う側と、奪われる側。
単純で最も危険な関係しか山にはない。
いつ何処で眠りにつこうと、明日を保証する物は無い。
ただ、獣の襲撃という状況を除けば小屋の安全性が損なわれたことはない。
少年はそこまで倦まず弛まず歩を進めた。
「ううん、それにしても」
軽いな、という感想を呑む。
起こさないよう慎重を期していた。
足音は小さく、呼吸もやや細くゆっくり。
たまに鎌首をもたげる好奇心につられて、少年は改めて腕の中のものを観察する。
弱々しくも確かに息づく命。
温もりは自分と同じだ。
ただ、掌に伝わる温度に震えてしまう。
大概の獲物は仕留めた後なので、もはや手にして帰るときには冷たく強張っている。
初めて。
帰り道に別の温もりを感じていた。
獣の伝える生気とは違う。
今にも消えそうな儚さは、手の中で仕留めた獲物が息絶えるまでの手応えで知っている。
帰り道に、それも命を繋ぐようにするのは初めてだ。
つくづく奇妙な現状に困惑する。
「よし、着いた」
道中に獣の気配は無し。
少年は扉を開けて小屋へと入っていく。
「よい、しょっと」
帰宅の挨拶をする慣習も無い。
我が家に帰った少年は腕の中のモノを下ろす。
床上に安置し、少し遠く離れた部屋の隅に移動してから背負子も下ろした。
物音を立てないよう近づく。
改めて顔を見つめた。
やはり、人だ。
これは稀に目にする、異性というものではないか。
外見から齢の判断が付かない。
異性は体の形などまでもが異なっているということは了解した。抱き上げたときの感触でも実感している。
少年の中は判断材料に乏しい。
山への知識は深くとも、人には疎い。
見ようによっては十にも見えるという浅い見識で適当な予測をつけた少年は、起きた後の相手に対する対応の仕方を思案した。
仕留めた獣肉を質に物々交換をしたりと、その際に多少なりとも人との対話における留意すべき点などは心得ている。
ただ、相手は未知の異性。
慎重に対応しなくては。
「ん――」
「おっと」
眠りの相がわずかに歪む。
起床の予兆と見て少年は身を引いた。
体三つ分の間隔を空けて、正座する。
黒布の下の矮躯がごそりと蠢いて、更に硬い床に小さくうずくまった。山の土だって冬は固く冷たいが、底冷えした小屋の床板では不快だったかもしれない。
少年は申し訳なく思って独り嘆息する。
「毛布があればなぁ」
この部屋に無駄は無い。
少年は寒くても毛布無しで眠れた。
安心できる寝床があればそれで良し。多少は固くとも、雨風が凌げて獣さえ寄り付かなければ岩洞で眠れたこともある。
だが、己の尺度で人を容易に測れないというのを理解していた。
少女には、厳しかったらしい。
「ん、ぅう?」
「あ――やあ、気分はどうかな」
微かに瞳が開いた。
漆黒の視線がぼんやりと少年を捉える。
片手を挙げて、内心の緊張を隠しつつ穏やかに挨拶をした相手を茫洋と見ていた。起き抜けでまだ意識が覚醒しきっていないのだ。
少年は相手の言葉を待つ。
不用意に言葉をかけるべきではないというよりも、単純にこれ以上の対応が思いつかなかったから少女に委ねていた。
ただ笑顔で視線を合わせる。
「おはよう」
「あ、おはよう」
「ここは――おかしい、こんな未来は視えなかったのに」
「ええと?」
少女が頭を押さえて呻く。
少年は小さくこぼされた言葉に小首を傾げた。
「気分は、どう?」
再度、質問を投げかける。
少女は頭を振って微笑んだ。
「あなたが介抱してくれたのね」
「獣道で眠るのは危険だと思ったから。俺が住んでる山小屋だ」
「山小屋」
少女は体の凝りを解す。
伸びた腕は細く、白い。
まるで穢れを知らないような白皙の肌に、少年は密かに息を呑む。つくづく同じ生物だという実感が湧かない。
黒布――後に外套だと知る――を脱いだ中からは、黒い短衣と裾の長い裳裾が覗いた。
少年はさり気なく視線を逸らす。
――また、初めての経験だ。
どこか、直視していると心臓に悪い。
「あなたは山で暮らしてるのね」
「うん、人里離れた山中だ」
「へえ」
「何か訊きたいことはあるかな」
「…………」
少女は少し考える素振りをして。
「あなたの名前は?」
「ん?」
「ああ、ごめんなさい。人に名を尋ねるならまず自分が名告るのが常識よね」
黒絹の髪を揺らして小さな頭が下げられる。
「わたしはヨゾラ」
「ヨゾラ?」
「改めて、あなたの名を聞かせて」
「うん、と」
ヨゾラと名告る少女。
その質問に少年がとうとう困り果てた。
訝る彼女を真っ直ぐ見る。
「すまない」
「なに?」
「俺には名が無いんだ。だから君に返せる物が無い」
「………………」
「困ったな」
少年は腕を組んで考える。
「両親から名付けられなかった?」
「あったらしいんだが、物心が付く頃には山に入ってて…………父は『山で暮らすなら不要だ』って」
「…………厳しいのね」
「父にも名で呼ばれたことがないから」
「なら、本当に」
「うん、名前が無いというか」
ヨゾラがおとがいに指を当てて考える。
その仕草すら異様に艶めかしい。
どうして不自然な動悸がするのか理解できず、少年はまた目をそらした。
「なら、わたしが付けるわ」
「うん、でも山では無駄なんだ」
「それは、あなた一人の世界だからよ」
「俺一人だから?」
ヨゾラが小さくうなずく。
「他人がいないところじゃ名は必要ない」
「…………」
「だから、あなたの父上は無駄だと言ったの」
「そう、なのか」
「でも、残念ながらわたしがいます」
「うん」
「これは無駄ではなく、二人になったからこそ必要な常識です」
「ふむ…………よく分からないが、君は賢いんだな」
「ふふ」
ヨゾラは微笑んでから少年へと近寄る。
警戒心の無い接近に少年もぎょっとした。
そも、起き抜けで目にした相手と小屋で二人きりならば、まず敵か味方かを判別すべく、相手を牽制しつつ様子を見るのが定石だ。
実際に少年もヨゾラと距離を取った意図も、それが大部分である。
なのに。
ヨゾラは最初から警戒心が見えない。
手を伸ばせば、躊躇いなく触れそうなほど。
「なら――」
ヨゾラが目を見開いた。
黒瞳が一片の曇りも無い銀色へと変わる。
相手の芯まで見透かす、包むようで奥を貫くような強さのある視線を放つ。
刮目するヨゾラの眼差しに少年の隠していた緊張が面に表れる。
初めて見る現象だった。
夜の獣は目が光る、だがそれと少し違う特別な力強さを感じる。
特殊な重みのある視線。
ヨゾラが内包する別の美が輝いていた。
山では見たことがない。
光る瞳は鏡のようで、けれど奥深い。
これは、そう――凪いだ湖面だ。
動揺する少年のありのままの姿を映す。
暴いて欲しくない奥底でもが露見しそうで恐怖を感じる不思議な瞳は、だが逃れられない絶対さを秘めている。
少年は固まって動けない。
少しして。
ヨゾラがそっと瞼を閉じた。
「あなたの名は――イグル」
「イグル」
「北の古い言葉で純真を意味するの」
「俺が純真?」
「ええ」
その名をつけた理由は教えてくれない。
ただ笑顔のヨゾラに――イグルと名付けられた山の少年は、自分に刻むことにした。
本来あった名はともかく。
少女がそう呼ぶならそれでいい。
彼女と二人だけの世界で必要とする名だ。
「じゃあ、俺はイグル」
「ええ」
自己紹介も済んだ。
互いに名があると相手を呼びやすくなる。
その利便性に気づいたとき、ふと名があることで湧き起こる新たな好奇心が胸を衝く。
己を示す記号があると、相手との情報交換がより円滑になる。
名という窓を通して、人の会話は互いが内包する未知を開拓する新たな力に目覚めるのだ。
――という人間の性を、イグルは知らない。
ただ気の赴くままに尋ねる。
「ところでヨゾラはどうして山に?」
第一の質問内容。
それは、この山に入る経緯だった。
当然といえば当然の疑問。
普段は人も寄り付かない山間部に、それも見目麗しい少女が倒れているとなれば人目に怪しく映るのは必然だ。
もっとも、イグルにそんな人情は知らない。
単純に気になっただけである。
読み取りやすく、だがあまりにも素直で却って勘違いしそうなイグルの内面を察して、ヨゾラはどう答えるべきか悩む。
「ううん、ここら辺には凶悪な山のヌシがいて人が寄り付かないと言うから…………」
「なんと、そんなことを言われてるのか。…………でも、尚更どうしてそんな危険な地に?」
「……………」
「もしかして、話しにくい?」
「それもあるわ。でも――」
ヨゾラが苦しげに柳眉を歪める。
すると。
間の抜けた音が小屋の中にした。
異様なほど大きく聞こえたそれは、空腹を知らせる音であると察知したイグルは微笑んだ。
「お腹が空いているのかい?」
「ここ最近、水と木の実だけで」
「そうか」
イグルは立ち上がって小屋の扉を開ける。
それから戸口でヨゾラに振り返った。
「まずはご飯にしよう」
「いいの?」
「お互いを知るのは、落ち着いてからが良いだろうしね」
「…………なら、お言葉に甘えるわね」
ヨゾラの微笑みにイグルはうなずいた。
ぱたりと戸が閉められる。
独りになった小屋で、ヨゾラはその微笑を消して考え込んだ。
「…………視えてなかった、でもまだ視える未来は変わってない…………大丈夫」