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おまけ



 これは『掃き溜め』に着く少し前。


 イグルは遂に人界に降り立っていた。

 尤も、単にまだ山を下りて街道に来ただけなのだが、ここまで人通りの多い場所は初めてなのだ。

 周囲を見渡せば、人、人、ヒト。

 馬車を牽く馬と、それに鞭を打つ人間。

 山にはない臭いで噎せ返るような感覚に、イグルは思わず顔を歪める。これが人酔いであると後に知ることになるが、自身の異常を察して街道の路肩で後退る。

 イグルの半身である『人』ではなく、『獣』のしての部分が過剰反応を起こしていた。


「これが人のセカイなのか」


 涼しい顔で道を往来する人々にイグルは畏敬の念を抱いてしまう。

 鼻が曲がりそうな自分とは耐久力が異なる。

 慣れてしまったのか。

 或いは、涼しい顔を装っているだけで表情の裏には苦痛に堪えており、コンジョーというヤツなのかもしれない。

 さっそくイグルは挫けかける。

 厳しいにも程がある。

 これが――人のセカイからの洗礼か!


 実を明かせば、これは単純にイグルの鋭い嗅覚が人にも嗅ぎ取れない臭いを知覚している上に、雑踏の孕む複雑な生活臭に彼が耐性が無かっただけの話である。

 これまで山道で人と物資を交換している。

 人流の少ない場だからこそ、イグルは正常でいられた。

 この人口密度は未体験。

 だからこそイグルの感覚が驚いているのだ。


「ヨゾラ、改めて君に感服するよ」


 人としての師ヨゾラ。

 あの美の権化のごとき少女がより一層その記憶の中でまばゆく輝いた。

 イグルでは五感が厳しいと訴える世界を生き、且つ人に追われながらも生き抜かんとする強さ。

 彼女に言われた通り。

 もし会えたときのために自分は沢山の『好き』を獲得しなくてはならない。

 最初で躓いていては、それも叶わない。

 人になると決めた。

 ならば、ここがイグルが生きる場所なのだ。


 まだ感覚を苛む不快感に堪えて、イグルは前へと進み出す。

 和らいでいた臭いが鋭敏な嗅覚を仮借ない勢いで攻めた。

 目眩すら覚える、激痛に脳が震えた。

 呼吸するだけで嘔気に襲われる。

 そう、ここで――コンジョーを見せなくては!

 イグルはぐ、っと奥歯を噛みしめる。

 拳を握り、踏みしめた足を地面から離さない。

 耐える、堪える、タエル。


「ッ……………!!」


 拒絶反応と戦うことしばし。

 白んでいた視界に少しずつ色が戻る。

 イグルの呼吸が再開された。

 まだ幽かな不快さは覚えつつ、ただ前よりは正確に街道に広がる人の世界を認識できる。

 口元を押さえながら前へ。

 街道の中を気ままに歩く。

 特に意図は無いが、東の方向へと流れる人込みに紛れていた。

 自分のいた住処は、山陰のさらに向こう側の遠くある。流れていく景色の煩雑さは凄まじく、立ち入ったことを半ば後悔させる。

 あそこは、父と自分の領域だった。


「しばらくは戻らないと決めたんだ」


 自己暗示のように呟く。

 それから山ではなく、前を見据える。


「ん?」


 目の前を進んでいた人々が足を止めている。

 蟠った人の壁に阻まれたイグルは、背伸びをして行く先を確かめる。遥か先に小さくだが、頭二つほど突き出た大きな人影が道を塞いでいる。

 先頭付近には、イグルの目にも大きな馬車も停車している。

 イグルは訝しんで自身の前にいた男に尋ねた。


「すまない、一つ尋ねたいんだが」

「あ?」

「なぜみんな止まっているんだ?」

「あー、何でもあの馬車に乗っている貴族のお嬢さんに求婚してる武芸者がいて、ソイツが道を塞いでるんだとよ。お陰で多くの馬車が止められて、後ろの俺らも進めなくて迷惑してるってわけ」

「キゾク、キューコン、ブゲーシャ…………?」

「……………」

「ともかく、あの先頭にいる大きな男が道を塞いでいるせいで進めないんだな?」

「ああ」

「よし、なら俺が止めてこよう」

「は?」


 イグルが意気揚々と人を掻き分けて前に出ていく。

 後方からずいずいと押し出てくる青年に皆が怪訝な顔をするが、本人は意に介さず、穏やかな笑顔のままで混雑する人込みの前へ移動する。

 先頭に近づくにつれて、大男の物と思しき大声も聞こえた。

 先頭の馬車の周囲を固める者たちは、その大男に怯え、中には果敢に立ち向かって弾き飛ばされる者もいた。


「いいから早く出せよ!」

「や、やめろ!それ以上、この馬車に近づくな無礼者!」

「黙れ!この『雷鳴』のディアドーレ様に向かってそんな口聞けるなら、俺に勝てるくらい強いってことだよな!?」

「ぐわっ!」


 また一人が拳に打たれて宙を舞う。

 やっと人込みの先頭に抜けたイグルが丁度良くそれを受け止める。


「やあ、そこの君」

「ああん?」


 イグルは腕の中の人を地面に横たえて大男に話しかけた。

 振り向いた顔は厳つく、大きな傷跡の刻まれた迫力のある面差しである。眼光鋭く、イグルを威圧するように睨めつけた。

 背中に交差させて帯びた大剣と巨大な戦斧は、身にしているだけで周囲を萎縮させる大男の迫力をさらに増強させている。

 だが。

 まるで歩く春のような青年は笑顔のまま大男へと歩み寄っていく。

 大男から馬車を守るべく立ちはだかる者たちも、その場違い感の凄まじい部外者の闖入に言葉すら出ない様子だった。


「悪いが、みんなが迷惑している。良ければ退いてくれないか」

「――――は?」

「む、君が道を塞いでいるからここは人が通れていないと聞いたのだが」


 イグルは背後へと振り返る。

 もしかして、間違えたかな?などと呑気に情報の真偽を今さら考え始めていた。

 対する大男は、自身に臆することなく退けと言ってくる青年に一瞬だけ呆けて、しかし沸々と静かな怒りが湧き始める。


「おい、小僧…………俺様が誰かと知っててその口の聞き方か?」

「ん?いや、知らない」

「はっ、なら聞いて驚け!

 俺様は大陸でも有名な戦士、ここらじゃ『雷鳴』って呼ばれてる男だ!」

「おお、なるほど」


 大男の自己紹介にイグルがぽん、と手を叩く。



「たしかに、声の大きさが凄まじい。雷のようにとは…………なるほど、的を射ているね」


 得新顔、それも「そういうことなんだ!」とどこか嬉しそうなイグルの表情に、封鎖された街道に立つ人々が戦慄する。

 声が聞こえなかっまた者も、急激に空気が冷たく緊張していくのを感じ取っていた。

 真正面から暴言紛いの気付きを告げるイグルに、雷鳴を名乗った大男は今度こそ怒りが沸点を超える。


「おい、バカにしてるのか?」

「いや、良い名だと思う」

「世間知らずなのかテメェ。要は俺に逆らうとぶっ殺すって意味なんだぜ?」

「俺たちはただ道を通して欲しいだけなんだが……………君はどうしたら退いてくれるんだ?」

「通りたきゃ俺様を倒しな」

「それ以外で頼む」

「無理だっつってんだろ!!」


 大男が戦斧を持ち上げる。

 刃渡りだけでイグルの半身はありそうな鉄塊じみた凶器に、人々は凍りついた。

 あんな物で攻撃されたらひとたまりもない。

 雷鳴のディアドーレ。

 この地域一帯で幅を利かせる傭兵団の長である。

 戦歴は勿論、商人などを複数抱え込んだ勢力の大きさもあって下手な貴族にも権力的に勝る。

 そんな相手に対して。


「凄いじゃないか、君は力持ちなんだね」


 ――と、イグルはのほほんとしている。

 戦斧が宙で閃く。

 唸りを上げて、鈍く首を断つ刃はイグルの首めがけて走った。

 皆が死の瞬間を予感し、目を瞑る。

 あとは耳障りな血飛沫の音か、地面を転がる頭の鈍い音が届くだけ。


 けれど。


 自らで閉ざした瞼の裏で、人々がその不快な音の到来に堪える心構えを作る最中、鳴り響いたのは別の音だった。

 ごん、と鈍く重い音。

 驚いた一人が思わず目を見開く。

 そこには。








「な…………!?」

「む、そういつのを人に振るうのはいけないぞ。怪我をするじゃないか」


 首に斧を受け止め、細やかな怒り顔で大男を窘めるイグルがいた。

 斧は皮膚を押すだけで切れもしない。

 不可解な結果は、大男の困惑した表情が何よりも克明に伝えている。

 やがて、イグルは嘆息した。


「ヒトというのは、なぜこういう鋭い物を人へ簡単に向けるんだ…………彼ら(・・)といい、俗世って大変だな」

「何で切れねえ!?」

「ともかく、こういう危ないのを振り回すのは誰もいないところでしてくれ。みんなが安心して通れないじゃないか」


 イグルが首に触れる戦斧に手を触れた。

 ぐ、と指が鋼に食い込み、蜘蛛の巣状に亀裂が全体へと走る。大男はその現象に驚き、斧を引いて後退りした。

 あ、とイグルも目を丸くする。

 斧を見た後、自身の手を凝視した。


「すまない、壊してしまっただろうか」

「は?」

「いや、押し返すだけだと手加減したつもりだったのだが、ちょっと力んだかもしれない」

「ッ……やるじゃねえか」

「うん?何がだ」

「だがな―――これで死ね!!」


 大男が次の手と大剣を抜き放った。

 背中の剣帯から解き放ちつつ、大上段からイグルへと振り下ろす。

 その攻撃にイグルの顔が険しくなる。


「それは危ないと言ったじゃないか!」


 イグルが落ちてくる大剣を払うように手を振る。

 瞬間――手の甲に触れた鋼が破片となって砕け散り、手を払った方向へと轟風が駆け抜ける。剣の残骸とともに、正面から叩きつけられた凄まじい風圧に大男が吹き飛ぶ。

 地面を跳ねて、対岸で立ち止まっている人々の足元まで転がる。

 仰臥したまま、大男は沈黙した。

 気絶、している。


「まったく」


 イグルは呆れるように深い息を吐く。

 それから大男へと歩み寄ると、彼の体を調べて状態を調べた後、路肩までその巨体を担いで運び、そっと草の上に安置した。


「よし。これで進めるよ、みんな」


 呼びかけるようにイグルは声を張る。

 唖然とする一同の前で、歩み出す青年を止められる者はいなかった。



「待って、そこの貴方!」



 ――彼女を除いて。





 ※  ※  ※






 堰き止められて対岸に壁を作っていた人込みへ入ろうとするイグルを呼び止める声が響く。

 小首を傾げて彼は後ろへ振り返った。

 馬車の扉が開き、中からドレスの少女が現れる。

 その姿に誰もが息を呑む。


 それはお忍びで移動をしていた、大陸でも美姫と名高い人物だった。

 子爵家に生まれながら、その美貌だけで王には称号を、あらゆる貴族たちから優遇を受けている。

 オーリエ・エル・アトエレード。

 薔薇のような深みのある真紅の長髪、青色の瞳は見取る者を心の底まで陶然とさせるような魔性の力を秘めている。

 整った顔立ちが職人の業とすら思わせるほどに美しさを宿し、わずかな表情の変化にすら目を奪われる。

 そんな彼女の視線が、いまイグルに注がれていた。


「俺?」

「ええ。呼び止めてしまい申し訳ありません、助けて頂いたお礼を言いたくて」

「いや、気にしなくていい。俺も通れなくて困っていたんだ」


 朗らかにイグルは答える。

 それに対し、馬車を囲っていた護衛の内の一人がかっと目を見開く。


「無礼者!この方を誰と心得るか!?」

「む、もしかして知らないとダメな人なのか」

「当たり前だ!」


 イグルは申し訳無さそうに眉を下げる。

 美しい少女は、なるほどたしかに人目をよく惹く。そうなれば有名にもなるのだろう、だとすれば無知な自分の態度は非常識そのもの。

 …………正直な話、イグルの主観ではヨゾラはさらに美人だから意外と知らない者はいないくらいの知名度なのではないのだろうか、などと考え始める。


「すまない、つい昨日まで深山に住んでいたから俗世には疎くて」

「山……ああ、たしかに見窄らしい格好だな」


 イグルの格好を護衛が嘲笑する。

 ただ恥じることなくイグルは肯いた。


「すまない、これしかなくて」

「ふん、そんな奴が我らの姫のお目汚しを――」

「黙りなさい、貴方こそ恩人に失礼です!」


 少女――オーリエが声を上げる。

 護衛たちが竦み上がり、すぐに口を噤む。


「ごめんなさい」

「いや、事実だから。それより…………君は慕われているんだね、そんなに人が周りを固めて守ってくれているなんて」

「そういうわけではないのですが」


 オーリエが苦笑する。

 イグルには階級制度など微塵も知らない物であり、貴い身分の者は総じてその体だけで一家の財産とも呼べる価値があり、常に周囲に防備を張るのは当然の義務なのだ。

 その辺りの世情も、山育ちには知る由もない。

 イグルの露見した世間知らずぶりも、だがオーリエは嗤わずに一礼する。


「わたくしはオーリエと申します」

「俺はイグル」

「貴方、とてもお強いのですね」

「強いかどうかはわからないけど…………うん、狩りは得意だよ」


 イグルは謙遜も誇張もしない。

 荒事における問題処理能力の力量について問われているのに的外れな回答だが、それだけでオーリエには彼の強さが充分に理解できた。

 大男のことはまったく脅威に思っていないのだ。

 あの『雷鳴』が抱えた商人からの情報でオーリエの動向を掴み、秘密裏に動いていたにも関わらずここで待ち伏せを受けてしまった。

 結婚を迫られ、護衛ですら刃が立たない状態を颯爽と片付けたイグルな力は本物である。


「貴方はこれからどちらへ?」

「とりあえず東かな」

「東?」

「特に目的は無いけど、人の生活がどんな物かを見て回りたいんだ」

「そうですか」


 オーリエの目が光る。


「もしよろしければ、ご一緒しませんか?」

「え?」

「我々はこの先にある大きな街に用があるのです」

「この先に街があるのか」

「本来なら貴方を巻き込むべきではないのですが、我々では先刻のような状況では人員も心許ないのです」

「さっきの彼は、君にキューコンだかブゲーシャやらをしていたと聞いた」

「そうです、武芸者の彼に強引な求婚を受けていました」

「む、ブゲーシャとは職なのか」


 イグルはようやく己の誤った認識に気づいて恥じ入るようにうつむく。

 くすり、とオーリエは笑った。


「でも、貴方のような強いお方がいてくれたら我々も安心して行けます」

「む?でも――」

「街には人が沢山いますし、良ければわたくしが人の生活についてお教えしましょう」

「お、オーリエ様!?」


 信じがたい提案に思わず驚愕する護衛たちを、オーリエは視線だけで沈黙させた。

 提案を受けたイグルは、目を点にしていた。


「教えてくれるのか」

「ええ」

「凄いな、それは助かる。……でも、俺は人を守る仕事をあまりした経験が無いから、頼りないと思う」

「いえ、大丈夫です」

「本当に?」

「はい。――して、返答は如何に?」


 オーリエの再質問に、イグルは頷く。


「なら、一緒に行こう。皆さんも、どうぞよろしく」


 笑いかけるイグルに、護衛たちは複雑な心境となる。

 たしかに『雷鳴』を一蹴した存在だが、果たして大丈夫なのかと不安になる程度には、この青年は気が緩んでいる。

 オーリエの沙汰にも疑念が尽きない。

 イグルを一団に加えて、オーリエたちは再び進み出す。

 止まっていた人々は、倒れる大男を尻目に再び流れ出した。



 こうして。

 束の間の美姫と野獣の旅が始まる。

 その後、この美姫と友情を育み、常識外れな野獣がまた災難に見舞われるのだが、それはまた別のお話。







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