9.たゆたう想い
はっとして、飛び起きる。
嫌な夢を見た――あんな遠い昔の記憶、もうとっくに思い出せないほどに忘れていたはずなのに。
頭がくらくらして、身体に力が入らない。それでもようやく起き上がれば、腹を覆う白い布が視界に入った。
「――気が、つきましたか」
血の滲む包帯に気を取られていると、真隣から恐る恐る、声がかけられた。この声には聞き覚えがある。
振り返れば、すぐ隣に緑色の瞳。直視してしまって、すぐに後悔した。
「……うなされていました。ずっと」
心配そうに、寂しそうに歪む澄んだ緑の眼。それが一直線に自分を貫くようで、マリウスはそっと視線を逸らした。
「……そう」
どんな言葉をかければいいか全く分からない。少なくとも、手元には武器もなければ、自分は半身に服すら纏っていない。その肩を、イオンがそっと押した。
「まだ、傷が癒えていません。暫くは大人しくしていてください」
起きていては傷口が開くから。その言葉に、促されるままに横たわった。
抵抗する事も、素手で目の前の少女を殺す事も、今の状態で出来ない事はない。けれど、あの眼を見てしまった後にはどうしてもそんな気分にはなれない。
――あのまま放っといてくれれば、確実に死ねたはずなのに。
意識を失う直前、自分が何をしたかを思い出した。そして、死んでいない事実を残念に思う。
おまけに、敵である少女に介抱され――こんな事を知られては、恐らく主の怒りを一身に買うだろう。そうでなくたって、既にのこのこと国へ戻れる環境でもない。
シトリーの命令は、彼女と、その家族――あの旅商人の男を「必ず処分してくる」こと。家族はともかく、目の前にいる少女を殺す自信はとうの昔に消えていた。
命令を完遂することが出来ない時点で、マリウスの未来は絶望的なのだ。
「……大丈夫ですか?」
「……さあね」
おずおずと尋ねる少女から視線を逸らしながら、適当に答える。大丈夫かと言われれば、大丈夫なわけはなかった。今後の事を考えると頭が痛い。手元には何の凶器もなく、今すぐに自ら死ぬ事は出来そうもない。そして、今後も自分が勝手に死ぬ事は許されないのだろう。
「……何故助けたの。私は、死にたかったのに」
溜息と共に問いかければ、イオンはほんの少し俯いて、わからないと呟いた。
「死んでほしくなかった」
最後にそう呟いて、目元を擦る。ほんの少し聞こえる嗚咽が、マリウスの胸をちくちくと刺し貫いた。
「泣くな」
少なくとも、泣かせた原因が自分にあるのは理解した。自分が死のうとしたから少女が泣く、その理由は未だに理解できないが。
慰めるという行動を知らないマリウスには、泣くなと命令することしかできない。そっと頬に触れて涙を拭えば、緑色の澄んだ瞳が視界に入った。
「……ごめん」
口をついて出たのは、謝罪。泣くなと言って泣きやめるものではない、そんな事くらい知っている。けれど、どうすればいいのかも解らない。
ふるふると頭を振り、イオンはそっとマリウスの手を握る。一回り以上小さな手は、とても温かい。
寝ている間にも、傷口の縫合や治癒術などで体力が随分消費されていたのだろう。ほんのり眠気を覚え、マリウスは握られていない方の手で軽く目を擦る。
「……眠りますか?」
握られた手がほんの僅か離れようとする。それを、無意識に掴んで引き留めた。
自分でも、その行動には驚いたのだが。
如何せん、眠い。驚くのは起きた後でも構わないだろう。どうせ、もう彼女を殺す事は出来ないのだ。今くらいは、ほんの少しこの暖かさに甘えていても良いのではないか――
そんな事を思った自分に驚愕しながら、マリウスはそっと目を伏せた。
「おやすみなさい、お兄さん」
そっと、頭を撫でられたのだろう。すぐ傍で聞こえてくるその声が何となく心地良い。そのまま、マリウスはもう一度闇に意識を落とした。