5.「恩返し」
青年が鞭を構え、地を叩く。ぴしゃりと叩かれた地面はそれだけで抉れ、破壊された石の破片が空中を舞う。
足元に転がって来たその石を蹴りつけ、シャインは杖を構えた。
「――出来れば現れてほしくなかったよ」
「そうかい、それはこっちもだ」
どういう意味かは知らないが、残念そうにつぶやく青年に皮肉を返す。現れてほしくないのであれば、逃がしてくれても良いだろうに――。
が、彼にとってはこれは仕事だ。自分たちを逃がせばそれなりに処罰とやらがあるのだろう。特に、足止めしたあの女にこっぴどく叱られている所が目に浮かんだ。
それはそれでちょっとばかり可哀想にも思うのだが、情けで殺されてやるつもりはさらさらない。
「――イオン」
ぼそりと、背後の少年の名を呼んだ。びくりと震え、イオンはこちらを見上げる。迷いと憂いがない交ぜになった瞳が、ゆっくりと伏せられ――
そして、小さく言霊が聞こえてくる。
覚悟は、したらしい。
それを確認すると、シャインは鞭を構える青年――マリウスに向けて駆けた。走りっぱなしで疲れてはいるが、それでもここを突破するためには文字どおり死ぬ気で行かなければならない。飛び道具を使う相手の弱点は、懐だ。――彼のコートの下にはいくつもナイフなどの刀剣類が収まっているが、鞭を持っている間にそれを易々と出す事は出来ないだろう。
マリウスが繰り出す鞭を避けながら、シャインは軽い身のこなしで徐々に距離を詰めていく。近くなれば鞭が当たる確率も大きくなるが、そのくらいの負傷は覚悟の上で――
しかし、何故か鞭はシャインをかすりもしない。マリウスが繰り出す攻撃は、どれも間違いなく、シャインが飛びのく事を想定しているような――作為的なものを感じた。
どういうつもりかと相手を見ても、マリウスは無表情で鞭を振るっている。どうやら、彼の表情から思考を読むのは難しいようだ。
「――地の聖霊の数多の手よ!」
背後で、小さく言霊が唱えられた。イオンが発したその言霊は、マリウスが破壊した石畳の隙間という隙間から植物の蔓を生み出し――マリウスの手足に容赦なく絡みつく。
「……!」
手足に絡みついたそれを引きちぎるも、千切れた部分からも蔓が伸び、マリウスに纏わりつく。恐らく、死んでしまうような魔術を使いたくなかったのだろう――蔓の動きは途中から緩慢になり、身動きがとりづらい程度にマリウスの身体に巻きついている。
「ごめんなさい、こうするしかなくて」
申し訳なさそうに呟くイオンに、シャインは上出来だと返す。そして、杖を下して背中のベルトに引っ掛けた。
「――とどめは刺さなくて良いのかい?」
縛られ、磔にされたように身動きの取れない青年が首を傾げた。何かを訴えるような赤い目は――死すらも恐れていないように見えた。
いっそこのまま首でも跳ねてやれば、今後しばらくは安泰なのだろう、しかし――傍らの幼い少年がそれを良しとするはずがないし、シャイン自体にそんな趣味は無い。
「数時間そこで黙っててくれりゃいいさ」
少なくとも、このままここを出て数時間で国境に辿り着く。急げば、国境付近の村くらいまではたどり着けるだろう。
「――イオンって言ったっけ」
通り過ぎようとすれば、マリウスは穏やかに囁いた。赤い瞳が、イオンのほうを見つめる。
それから、恐らく初めて見る事になる笑みを浮かべて言った。
「美味しかったよ、コーンポタージュ」
ざくり、巨大な斧が蔓を切り離す。ドライアドの二人が去ってから効果が薄れたのか、自分が引きちぎった時よりもあっけなく地に落ちる。そして、するすると溶けるかのように消えていった。
「――ったく、これだから魔術なんてもんは面倒なんだ」
自分を蔓から解放した女――シトリーが苛ついた様子で斧を地面に突き立てた。何故だか彼女は、昨日からずっと――いつも以上に不機嫌だ。
とはいえ、マリウスにはシトリーが機嫌の悪い理由が若干解っていた。昨日、国境の前で待ち伏せた代行対象に完膚なきまでに叩きのめされたという――しかも、とどめすら刺さず相手は逃げていったのだとか。
普通なら処罰ものの失態だが、彼女を溺愛している父親――レディエンス国王であるルシオンがそんな事をするはずもない。良くも悪くも「きっちりしている」彼女が、失敗したままで咎められないでいるのは気持ちが悪いのだろう。そして、自分があの二人を逃がしてしまったせいでまた、失敗する――彼女にとって二日も連続で失敗続きでは、屈辱どころの騒ぎではないのだろう。
「……もうちょっと磔になってても良かったんだけどな」
彼らを殺す事に気が向かなかったとはいえ、しっかりと仕事を済ませよう――マリウスがそう思っていたのは事実だった。
思いがけない彼らの反撃に、安心半分、主君への罪悪感半分といったところだ。それ故にの発言だったのだが――
「てめぇ、やっぱり手を抜いただろ」
やはり、シトリーにはそういった心情や言葉の裏に潜ませた思いが伝わるわけがない。そもそもがマリウスとは真逆の彼女と、折り合いがつくのは戦闘の実力のみなのだ。
「――父さんを裏切るつもりじゃないだろうね」
ぎろりと、鋭い瞳が自分を睨みつける。彼女の焦りと怒りは、マリウスにもよく理解できる。しかし、その言葉だけは否定せざるを得ない。
「そんな事は――」
「なら、さっさとあいつらを追いかけて、首取ってこい。あんな商人二人、あんたに代行できないはずがないだろ」
青い目がぎろりと、こちらを睨みつける。
その瞳は、マリウスに対する疑念と僅かな悪意に満ちている。彼女なりの「憂さ晴らし」というわけだろう。
「――わかった」
主であるルシオンの娘にそう言われては、従わないわけにはいかない。頷いて、マリウスは大きな門の外へと歩きはじめる。
「……あんたを育ててくれた、父さんを裏切ったりしたら――」
ただじゃ済まないよ――
背後から聞こえてくる脅しに対し、胸中でそんな事があるものかと言い聞かせる。けれど、何故だか気分がざわついている。こんな事は、もうどれくらいぶりだろうか――。
歩きながらふと顔を上げれば、街道の中央に誰かが立っている。街道で自分を待っているかのように佇んでいたのは、見知った青年だった。
銀色の髪に、シトリーが掛けているものと同じ眼鏡。好戦的な瞳が、その下にあった。