3.コーンポタージュ
差し出されたマグカップに、赤い目をした青年がはっとした様子で後退する。――恐らく、無意識のうちにここにやって来たのだろう。鍵はかけたはずだが、いかんせん安宿なだけに開けようはいくらでもある。青年の赤いロングコートの裏に垣間見えたナイフ類に、シャインはただならぬものを感じた。
とはいえ、傍らではイオンが、事もあろうにその彼にマグカップを差し出している。青年の視線がコーンポタージュに釘付けだった事には、シャインも気付いてはいたのだが。
「……飲まないんですか?」
イオンは鋭いのか鈍いのか時々解らない。青年が何のために来たのか、なんて事は気にもせず、コーンポタージュを見ていた事だけを汲み取ったらしい。不思議そうに首をかしげる姿に、シャインは頭を抱えそうになる。
こんな場所にいきなりやってくる相手に碌な人間はいない。が、青年に今のところ殺気は感じられない――対応には実際困るところだった。
「……いいの?」
ぼんやりとした青年の声に、イオンが微笑みながらもう一度カップを差し出す。
そこで初めて、青年はカップを受け取った。
まっすぐに伸ばされた、紫の長い髪。蛇を思わせる赤く切れ長の目。クールそうな外見の彼がぼんやりとポタージュに口をつける姿は、一種独特な何かがある。
黙々とスプーンでコーンを掬って口に含むと、青年は「美味しい」と零した。
「良かった。えーっと……」
「アンドロマリウス」
唐突に告げられた単語が、耳にはあまり馴染まなかった。一瞬思考が止まったのか、イオンが瞬きを繰り返す。
「名前。……長いから、マリウスで良い……」
ぼそぼそと呟くように囁かれ、イオンはようやく納得したようだ。じゃあマリウスさんって呼びますね、なんて言いながら、自己紹介なんかはじめだす。
流石にそろそろ、様子見をしていたシャインも頭が痛くなってきた。
――どう見ても普通の人間じゃねーだろ、こいつ。
ちらりと、マリウスを観察する。おおよそシャインからすると趣味が良いといえない赤いコートの下には、何かいろいろなものが仕込まれていることが推察できる。先程垣間見えたナイフ、そしてコートの表面に若干見える紐の集合体のような盛り上がりは、まず間違いなく鞭だろう。
「――で、だ。お前さん、何処から来た。一応、鍵はかけてたんだが」
いい加減、ほのぼのとも言い切れない状況に突っ込みを入れる。マリウスは矢張りぼんやりとしながら、シャインを見て「あれ?」と呟いた。
「……匂いにつられて……気付いたら」
返せる言葉がないというか、この場にイオンがいなければ真っ先に怒鳴っていた。アホか、と。
無意識に侵入されたらこっちはたまったものじゃない。コーンポタージュくらいですんでいるうちに早くお帰りになってもらわなければと心の底から思った。これが丸腰の相手なら多少警戒も少なかったろうが、あからさまに武器を所持している相手をずっと部屋に居させるわけにもいかない。
「まだいっぱいありますけど、お代わりしますか?」
タイミング悪く、イオンがにこにこしながらいらぬ気遣いをする。
――久々に他人と会話したからってそんなに喜ぶな、バカ!
内心舌打ちしつつ、シャインはもう無理にでもマリウスを帰らせようと立ちあがった。
「こら紫!てめぇ、なぁーに敵さんと仲良くしてんだ!」
その瞬間、背後から風でも吹いたかのような罵声が轟いた。
弾かれるようにそちらを振り返れば、いつのまにか開いていた――というよりはマリウスが開けていたドアの前に、金髪の女が仁王立ちしている。その片腕には、彼女の細腕で持ちあげられるようには到底見えない巨大な斧。
が、彼女は軽々とそれを肩に引っ掛ける。ずかずかとマリウスに詰めよる彼女に対し、マリウスは慌てて椅子から立った。
「――どう見ても不老種族だろうが、こいつらは!てめーの目は節穴か!?」
マリウスに詰め寄る女の剣幕に、イオンだけでなくシャインも一瞬唖然とする。が、不老種族――その言葉で、シャインの若干の予想はいきなり確定的になった。
不老種族を敵とみなす者、レディエンスだけでなく世界中でもそんな人種はお目にかからない。代行者以外には。
緑の髪、緑の目――例外さえなければその色は、十数年前に陥落したロズヴェルトの民「ドライアド」である。
一定以上の年齢に達すると成長が止まってしまう不思議な種族で、千年以上を生きる者もいたと聞く。――それも、殆どを神の代行によって殺害されたのだが。
ロズヴェルトという街自体を知るものが少ないうえ、ほぼ絶滅種なためにあまり知る者はいなかったのだが――この代行者達はそれなりの知識を有しているのだろう。
「――イオン」
まだ唖然としたままの少年の手を引いて、シャインはゆっくりと身を引いた。すぐ傍のベッドに置いてあるザックをさっと背負い、代行者二人が口論――というよりも喋っているのは女だけなんだが――している間に逃げようと試みる。
が、そうそううまくいくわけがない事は解っていた。音を立てずに後退しつつも、苦手な言霊を小さく詠唱する。この状況で対応しきれるのは、自分しかいない。保護者というのは随分と損な役回りである。
「てめぇら、逃げんなよ!?」
思ったより早く、女の方がこちらに気付く。その剣幕に、イオンがびくりと震えたのが解った。
「……どう、して?」
仕方なくという面持ちで鞭を構えるマリウスを見て、イオンは泣きそうな声で呟く。友達もいない年頃の彼にとって、ひと時でも仲良くしていた相手が武器を手にしているなんて状況は簡単には理解できないのだろう。赤い瞳が小さく細められ、そしてほんの僅か聞こえる声で「ごめんね」と囁かれた。
「――明かりよ!」
その一瞬の間を狙い、シャインは用意していた言霊――誰でも使えるが、威力さえ上げれば目くらましには持ってこいのそれを開放する。イオンの目を手でふさぎ、自分は顔を逸らし。
その行動は予想外だったようだ、代行者二人の驚愕の声が上がる。それを確認する間もなく、シャインはイオンの手を引いて宿から飛び出した。
逃げるが勝ち――最初から、シャインには戦うつもりは無いのだ。