10.音が消える夜
そっとドアの隙間から目を離し、クレアは静かにドアを閉じる。
振り返れば、そこには茶色いローブを着た青年と、銀の髪を三つ編みに結った青年がテーブルで睨みあいをしている。手元を見れば、チェス――銀色はどうやら戦況が芳しくないようだ。
「シャインさん、ちょっとは手加減して差し上げたらどうです?」
ライトグリーンの髪をクレアと同じくらい伸ばした青年に、苦笑して問いかける。が、シャインと呼ばれた彼は「そうしてやりたいが」と呟いて相手をちらりと見る。
先程から銀髪の青年――ガーランドと名乗った彼は、一度も勝つことが出来ていない。そもそもあまり頭を使う事は好きではないらしいが、それはそれは見事な負けっぷりである。
「はい、チェックメイト――」
どうやらシャインはこれでも十分に手加減しているらしい。ほんの少しつまらなそうに黒のクイーンを取り、また一つガーランドに負け星がつく。
そろそろガーランドのほうもあきらめがついたらしい、机に突っ伏して湯気でも出しそうな勢いで溜息を吐く。知恵熱が出そうだなどと呟いている彼に、シャインが少し呆れたように笑う。
あれから二日――。
本来ならそろそろ、クライストに戻っていても良い頃なのだが、未だにレディエンスとの国境付近だ。
見切りをつけて帰ろうと思えばそれでも良いのだが、倒れたアンドロマリウスをそのままにしておくわけにもいかない。代行者としての彼の処遇を、クライストでしっかりと定めなければならないのだ。
しかし、自害を果たそうとしたマリウスの傷は深く――治療のため、こうしてヴィントの村に留まっている。生憎この村の宿には空きがなく、滞在中に怪我の治療で縁のあった老夫婦の家に居させてもらっているのだが。
不在だという彼らの息子の部屋には、意識を失ったアンドロマリウスと、それをずっと診続けている幼い少年――イオンがいた。
先程、目を覚ました所は確認したが――果たしてあの青年は、完治した後どうするのだろうか。
腐っても代行者、今はただ武器もなければ、腹に傷を負っているから何もしないのかもしれない。イオンがどうしてもとアンドロマリウスから離れない事には困ったが、何かあればすぐ解る隣の部屋。自分さえ気を使っていれば大丈夫だろうと判断した結果、クレアの睡眠時間は極端に少なかった。
「――眠らなくて良いのですかねぇ」
遠めのソファで新聞を開いていた青年――サンジェルマンが、小首をかしげる。亜麻色の髪で目元を覆った青年は、何故かいつも薄ら笑いを浮かべている。何も知らない人間が見たら薄気味悪いと思うかもしれないが、クレアは特に気にしてはいない。
その彼が珍しく、――というか、初めて笑顔ではなくなっている。どうやら、彼なりに心配しているらしい。
「大丈夫ですよ。なにせ、城では三日三晩徹夜で仕事したりしてますから」
くすくす笑いながら椅子に座る。暇そうにチェス盤を弄っていたシャインが、ほんの僅か眉を潜めた。
「――イオンが心配なら、俺が見てる。そこのモヤシの言う通り、少し眠ったらどうだ」
「なっ、モヤシ……!?」
クレアが返事をするより前に、珍しくサンジェルマンが悲鳴のような声を上げて反応する。どうやら、シャインの台詞は彼のコンプレックスに触れてしまったらしい。
「失礼じゃないですか、ちょっと」
「あ?どっからどう見ても間違ってないだろ。それにお前、名前が長いんだよ。サンジェル何とかって、言うたび噛むだろ」
いきなり険悪な――というより、シャインは至極どうでも良さそうに一人チェスをし始めている。食ってかかるサンジェルマンはというと、その態度に思う所があるのか――
腰の剣に手をかける。
「ちょ、ちょっと待ってください、喧嘩は良くありませんって……」
やっぱりこれじゃあ寝るわけにもいかない。シャインの好意に甘えようかと一瞬思ったクレアだが、自分がいなくなったら最後、この二人が決闘でもはじめかねない。
例の如くガーランドは机に突っ伏したまま。よくよく見れば、そのまま寝てしまっているのだが――
慌てて止めに入るものの、サンジェルマンは今にも剣を抜いて斬りかかりそうな殺気を放っている。が、当の相手であるシャインは――やはり、暇そうにチェスの続きをはじめていた。
「……騒がしい、ね」
不意に呟かれた声に、イオンは肩を震わせた。静かに寝息を立てていたはずのマリウスは、先程から始まったらしい外の口論――といっても、一人の声しか聞こえないが――ですぐに目が覚めてしまったらしい。
起こしたのは自分ではないけれど、少々申し訳なく思う。俯いてマリウスの手を握れば、そっと頭に何かが触れる。
空いている方の手で優しく撫でられ、赤い瞳がこちらを見る。ほんの少し微笑んでいるような表情で、マリウスはゆっくりと起き上がった。
「あ、傷が……」
「平気、治りは早いから」
回復魔法でも癒しきれない傷を負っている彼を、起こすわけにはいかなかった。しかし、押さえようとする自分の手を、マリウスは易々と掴み取る。
「どうせあんな殺気を放たれてちゃ、眠れるものも眠れない」
軽く前髪をかき分け、マリウスは部屋の外に通じるドアを見た。
イオンの記憶では、部屋の外には兄と他の三名が居るはずだ。民家を借りているため、この部屋以外に寝る場所はない。あと数時間もすれば皆、リビングで適当に眠っているのだろうが。
殺気というか、ピリピリした気配は確かに部屋の外、リビングからだ。自分達に向けられたものではないが、確かにこれでは寝苦しくもなる。
「多分、サンジェルマン伯爵だね。彼は意外と逆上しやすい」
耳慣れない名前が出てきて、イオンは外にいる名も知らない三名のうちの一人だろうと推測する。誰の事かと思案したのが解ったのか、マリウスが「あの前髪の長い人」と付け加えた。
流石に、二日も同じ屋根の下にいる相手を知らないだなんて恥ずかしくなる。マリウスの安否ばかりが心配で、兄が食事を持ってくるとき以外他の人間と会話すらしていなかったのだ。
「私と一緒にいた銀髪のは、ガーランド。代行者だけど、ただの雇われだよ」
どうやら察しが良いらしいマリウスは、連れていた青年の事も教えてくれる。そんな姿を見ていると、とても彼が代行者だなどと思う事が出来ない。
改めてみれば、マリウスはとても整った容姿をしている。流れるような紫の髪も、あまり手入れはされていないようだが艶があって美しい。顔立ちはどことなく、シャープな赤い眼のせいか蛇を思わせる。
その赤い瞳がこちらを見て、不意に微笑んだ。一瞬どきりとして見上げると優しく頭を撫でられる。
「……私は、どうするべきだろうね。多分、もうレディエンスには帰れない」
「……それは、どうしてですか?」
マリウスが目覚めたら、レディエンスに帰りたがるのではないか――そう思っていたイオンは、何よりもまず不思議に思う。思った瞬間に、問いかけとして言葉になっていた。
「私が、負けたから。……おまけに、敵だった人間に介抱までされているから――主様は、それは酷く怒るだろうね」
主様――おそらく、彼の上司に当たる人物だろう。呼び方からして、レディエンスの国王やそれに近しい立場の人間ではあるのだろうが。その主が酷く怒る、それがどんなことかイオンには想像もつかない。けれど、恐らくマリウスにとっても恐ろしいと思える事なのだろう。
かといって、クライストで神の代行を行ったマリウスがこの国に留まり続ける事は、そのものが死を意味する。イオンには、それをどうにか阻止する方法すら思いつく事が出来ない。
俯いて黙っていると、不意に家の内外から「音」が消えた――。