1.夢もまた現(うつつ)
黄昏時、悪夢は唐突にやってくるのだ。
「レディエンスが攻めてきたぞ!」
怒号にも似た兵士の声で、店先で転寝をしていた青年ははっと目を覚ます。そして、目の前を走り逃げ惑う街の人々。
走馬灯のように早回りで、目の前で孔雀の紋章を掲げた兵士たちが殺戮の限りを尽くしていく――その光景を何度、見ただろう。
――やめろよ。
もうこんなもの、見たくない――やめてくれ。
必死に目を閉じ、青年は頭を抱える。
これが夢なんてこと、最初からわかっている。
けれど、これが現実「だった」ことも、やはり最初から解っている。
記憶にある限り、現実も夢も結局は同じものだ。くり返しくり返し、傷をえぐるように心を蝕む。悪夢といって間違いはない――。
そして、最後には結局夢であるのを知りつつ叫ぶのだ。
――みんな逃げろ、と。
悪夢のせいで飛び起きて、まだ深夜である事を知る。夢も最悪なら、汗だくで起きなければならない目覚めも最悪なものだった。それに、まだ数時間跳ねる事が出来るのではないかというほど外は真っ暗で。
しかしながら、あの夢の続きを見てしまうのは心底嫌だった。何度見ても同じ結末で、何度見てもハッピーエンドにはならないあの悪夢。けだるい身体をくの字に折り曲げ、青年は頬に張り付いた長い髪をかき分ける。
かき分けた瞬間に視界をかすめる緑に、溜息が洩れた。この緑の髪を見る者は全員、綺麗だとか珍しいだとか褒めたたえるが――青年にとってはあまりいい思い出がある色ではなかった。
やや汗がひいてきたあと、青年は隣で静かに寝息を立てる「家族」を横目で見やる。自分よりも随分小さな体躯の彼は、今もベッドで夢の中――どうやらあちらは悪夢など見ていない様子で、それならばとそっとベッドを抜け出した。
目指すは階下の酒場。こんな日は、ちょっとくらい酒を飲んだって構わないだろうと思う。あまり酔うという事は無いが、それでも随分と気が休まるのが唯一、酒だった。
降りてみると、眠れない人間はいつでもいるもので――独特の雰囲気の酒場には複数の人間がいた。
宿屋の一階で、昼間は食堂を兼ねているそこは、二十四時間営業しているらしい。深夜から朝方にかけては、大人の世界だ――なんて、宿の店主が言っていた。
「――シャインさん、眠れないのかい?んで、何か飲むかね」
酒場のマスター――というより宿屋の店主が、カウンターに座った途端に親しげに話しかけてくる。数度宿を世話になっているだけだが、このマスターはもの覚えが良いらしい。何度か来た事がある客なら必ず名前を覚えていた。
「……出来るだけ強いの、ロックで」
「ん?やけ酒か?」
普通に考えれば、シャインのその要求は当然ながら自棄になって酒を飲みに来たようにしか見えないものだ。それ以上何もいわないでいると、マスターは何やら甘い香りの――だが、少し酒に詳しければ相当強いであろうとわかる酒を出してくれる。懐から少々上乗せした小銭を出すと、出された酒に口をつける。
小さな街の小さな宿だ、出される酒も妥当な品質だが、悪くは無い。
しばらく静かに酒を味わっていると、不意に――柔らかい何かがしなだれかかって来た。噎せるような香水の匂いと、腕に当たる感触――それで何かわからない者はいない。
「――ね、お兄さん。遊びましょ」
なるほど、大人の世界である。飲んでいた酒を置いて振り返れば、胸の大きく空いたきわどいドレスの――恐らく娼婦だろう、まだ若い、白い肌の女がいた。
「おー、色男はもてるね」
何も考えていないのだろう、マスターの茶化す声に、シャインは小さく笑って目を伏せた。
色男というのは間違っていない、この酒場を見渡しても、シャイン以上に目を引くような容姿のものは残念ながらいなかった。若干白めの肌と、艶のある長髪。それすらも引き立て役でしかない、整った顔立ち。若干鋭い作りの目は、黙っていればクールな美青年だった。
「残念だが、連れがいるんでね」
普段ならちょっとくらい遊んでやろうかとも思うのだが、少々機嫌が悪くなる要素が女にはあった。軽く睨みつければ、女は怖気ついたかのように目を見開き、仕方ないわね――と言って去ろうとする。
その枝のように細い手を、シャインの手がやんわり掴んだ。
「――手癖が悪いな。残念だが、俺には通用しない」
シャインが酔っているとでも思って近寄ったのだろう、後ろに回されていた女の手から、掠め取られていた自分の財布を取り上げる。娼婦のふりをして男から金品を巻き上げる――こんなものは良くある手口だ。
「な、何よ!気がすんだら話しなさいよね!」
「おー、乱暴なこった。女ってのは皆こうなのかね、マスター」
暴れ出す女の手をぱっと離せば、彼女は急に解放された反動でたたらを踏み、そのまま憤慨して帰っていく。これが世にいう逆ギレというものか――なんて思いながら、シャインはまた、グラスの残りに口をつけた。