彼女が草を刈る理由
少しずつ、意識が戻る。まぶた越しの景色が青い。涼しい風が、生い茂る草に形を借りて、むき出しの肌をさわさわとする。空と、草の、青い匂いに、もう少し微睡んでいたくなる。んん、と身体をよじって、言葉が詰まる。喉が、声の出しかたを忘れたようだ。
風向きが変わる。いっそう濃くなる草の匂いに、排気ガスのそれが混じる。なぜ排気ガス、と考えるより早く、けたたましい音が答えを告げる。
ぞばばばば! ぞばばばばばば!!
その轟音は、近づいている。それが意味するものは、半覚醒の頭でも、容易に答えを導き出した。神経系を強引に接続して、上半身を跳ね起こす。かくして開いた目の前で、金属の刃が回転していた。
「うお!?」
「あら、こんにちは」
幼い声が降ってくる。逆光で顔は伺えないが、一○歳に満たない少女のようだ。草刈り機が、唸りを止めて着地する。額へずらされたゴーグルは、きらりと陽光を反射した。
「こ、こんにちは」
「お兄さん、ここでお昼寝?」
「と言うか、ここは、何処だ?」
自分の間抜けな質問に、白いTシャツから伸びる左手が、オーバーオールの腰を持つ。持ち上げられた金属の刃が、所在なさげに鈍く光った。
「ああ、迷子さんね」
「いや、違うが?」
迷子だなんて子供じゃあるまいし。しかも相手は少女とあって、反射神経でそう言った。だが、少女には、ばれているようだった。だからこそ、彼女は先の疑問に答えてくれた。
「ここは、お墓だよ」
「お墓」
「そ」
何で墓場で昼寝なんか、と思ったが、それを口にするのは迷子と認めるようで気が引けた。それに、少なくとも彼女には、自分がここにいることを疑問に思っている様子は無い。
「じゃ、行きましょ?」
「ここはお墓で、じゃあ、きみは」
「お墓の掃除をしてるのよ」
草刈り機を肩に担いで、彼女は右手を差し出した。一瞬だけ迷ったが、どのみち行くあても無い。握った手は、ひやりとして、小さくて、華奢で、そして、なぜか暖かかった。黒くて大きな目が、満足そうな光を帯びている。つんとした鼻は少し生意気そうで、よく動く口からは、白い歯が見えた。
得意気に身を翻せば、一つに結んだ長い黒髪が弧を描く。もちろん、担がれている円い刃も一緒に踊る。
「あぶねえ」
「あら、失礼」
気も無い調子でそう言うと、草刈り機の始動紐を引っ張った。何度目かの試みで、エンジンが力強く咆哮する。ぐおん、ぐおん。草刈り機氏は、俄然やる気という調子で、自慢の刃を閃かせ、雑草どもを斬り据えていく。それに彼女が続くので、小さな背中の後を追う。
「すげー草だな」
独り言のように、だが少女に聞こえるように、少し声を張って言う。何せ草刈り機氏が元気なもので、独り言だと本当に独り言になってしまう。
「ほんとにね。ちょっと目を離すと、すぐに伸びちゃう」
少女も大きめの声で応える。肩から吊った草刈り機が、小さな身体に大きく見える。それが軽々と振り回されて、草と排気ガスの匂いを撒き散らす。そのたび道が斬り開かれて、二人は歩を進められる。
「いつも草刈りしてんのか?」
「うん、まあね」
「へえ」
見渡す限り、草の海が続いている。時おり吹く風が、青々とした波を呼ぶ。波は、生まれたり、無くなったり、合わさったり、分かれたりしながら、二人のところにも押し寄せた。草と排気ガスの匂いを洗い流すと、少女の匂いが、一瞬、香る。
「何よ、それ」
気の無い返事に、他意を汲み取った少女が、ぴくりと眉を動かした。本当に他意は無かったのだが、それは今さら問題ではない。相手は凶器を持っている――その焦りから、果たして出てきた雑な言葉は、さらに少女の不信を買った。
「いや、別に」
「何か言いたいんなら仰って?」
にこりと笑い、少女は身体ごと振り向いた。凶刃一閃、数本の前髪が風の波へと溶けていく。勢いで、無様に尻餅など衝いてしまう。
「あぶねえ!」
「あら、失礼」
「今のはわざとだよな?」
「うふふ」
悪戯っぽく少女は笑い、再び草を刈りながら歩き始めた。
やれやれと立ち上がるべく、地面に手を着くと、大きめの石に触れた。それは黒っぽい石、もしくは石のようなものだった。何が書いてあるでも、彫ってあるでもないが、それが「墓」なのだと直感した。そうやって見てみれば、彼女と草刈り機の足跡は、大小色々の「墓」を辿るものだった。今の彼らの頭上には、涼やかな風が通り抜けていく。
なるほど。何となく理解した気持ちで、身体を起こす。だとすると気になることがあるし、確かめたいこともある。小さな背中の後を追う。
「なあ。いったい、いつから草刈りしてるんだ?」
「レディに年齢を訊くのは失礼なのよ?」
「別に年齢を訊いてるわけじゃないんだが……」
「まあ、特別に教えてあげるけど、わたしは、ずーっとやってるよ」
「そうか。まあ、この墓、広そうだもんな」
「あら?」
何かに気付いたのか、彼女が軽く振り向いた。目が合ったので、そのまま軽く肯いた。彼女は視線を前に戻して、足を進めながら口を開いた。
「お墓の草って、何で伸びるか知ってる?」
「さあな。墓守がサボってるからか?」
「スキンヘッドがお望みかしら?」
「失礼しました」
「分かればよろしい。――で、昇ってくはずの魂を、繋ぎ止めてるからなんだって」
「ふうん」
「だから、昇ってったはずの魂も、草が伸びてると降りてきちゃうの」
「おれみたいにか?」
「そういうこと。もう降りてきちゃ駄目よ?」
「墓守がサボらなきゃ降りてこねえよ」
ざくりと彼女が刈り払う、その足元に、石があった。あれが恐らく、おれの「墓」なのだろう。神経の接続が急速に解かれていく。それは微睡みにも似て、心地よく、幸福で、少し寂しかった。
少女が手を振る。
「じゃあね」
「ああ、またな」
「または駄目って言ってるのに」
ありがとう。最後の言葉は、声になってはいなかった。それでも彼女は笑ってくれた。
ひときわ強い風が吹き、緑の波は、ぐるりと星を一周りした。そうして風が収まったとき、少女の頬を、雨が濡らした。
◆ ◆ ◆
彼女は草を刈っている。いつからだかは覚えがないが、少なくとも、終わる気配は全く無かった。だから、今日も草を刈る。相棒にガソリンを飲ませてあげて、今日の作業現場へ向かう。始動紐を引っ張ると、エンジンが高らかに声を上げる。うん、今日もいい感じ。
自分の背丈くらいもあるような、高い雑草を、ぞばぞばと刈る。調子が出てくると楽しくて、楽しくなると調子も出てくる。
そんなときだった。ひとかたまりの草の束を斬り伏せると、その向こうから声がした。
「うお!?」
「あら……って、もう!!」
◆ ◆ ◆
彼女が草を刈る理由
―了―