31話 統べるもの
「――当て馬を演じた気分はどう?」
「さあね。あんたが望む結果になったのなら、俺はそれで構わんさ」
紅茶が残ったままのカップに、ルイジーノが問答無用でワインを注ぎ入れる。
ライツは心底迷惑そうな顔をしたが、肩を竦めただけで文句は言わなかった。
「それにしても、曲がり形にも国軍大将が僻地の領主夫婦のご機嫌取りとは、随分とご苦労なことだね」
「白々しいことを言うな。あんた、全部分かっているんだろう?」
「さて? 何かなぁ?」
「陛下が一番機嫌を取りたがったのは、あんただ――〝ヌシ〟よ」
とたんにすっと目を細めたルイジーノに、ライツはテーブルの上に身を乗り出して畳み掛ける。
「この国ができる以前――それこそ人間などまだ存在しなかった太古の時代から、今現在アレニウス王国がある一帯を支配してきたのはオルコットの竜だった。そうして、やがて彼らが滅びると新たな竜がヌシとなった――それがルイジーノ、あんただろう」
それを聞いたルイジーノは、感心したみたいな顔になった。
「へえ……おまえ、よくそんな昔のことを知っているねぇ。先代も先々代も――ううん、もうずっと何代もの王が、ぼくの存在に気付かないままだったのに」
「半年前、兄が即位したのと同時期に、東部にある琥珀の森の所有権がオルコット家から王家に移った。とたんに出てきたよ、巨大な琥珀の塊が。年々採掘量が減っていたというのにな」
「ふうん、よかったじゃないか。琥珀は、オルコットの竜の血液が石化したものだ。それにこびり付いていた思念がおまえの兄を正式な所有者と認めた証拠だろうよ」
「ああ、琥珀は兄にこの世界の理について様々なことを教えてくれたよ。夢という形でな。おかげで、兄は連日寝不足さ」
アレニウス王国がある土地は、ずっと太古の昔から竜の縄張りだった。
そこに住む人間達は知らず知らず、ヌシたる竜の恩恵を受けて泰平を謳歌してきたのだ。
そうして今現在のヌシは、ライツが言う通り、メテオリット家の始祖の父親であるルイジーノ。
竜となった姿こそちんちくりんの子竜だが、彼がアレニウス王国のある土地を縄張りとしているからこそ、避けられている脅威もあるのだ。
それなのに――
「あんた――パトリシアと会っていなければ、マーティナ・サルヴェールとともにハサッドに行くつもりだっただろう?」
これこそが、国王ハリスがパトリシアをどうしてもサルヴェール家に向かわせたかった最大の理由である。
マーティナ・サルヴェール、次官の隠し財産、アレニウス王国の内部情報――どれも、隣国ハサッドに渡ろうとてさほど損害はなかった。
けれども、ルイジーノは違う。彼がアレニウス王国を出ていってしまえば、取り返しのつかないことになる。
ヌシが見捨てた地は、新たなヌシを据えない限り滅びるしかないのだから。
作り物めいた美しい顔に笑みを乗せたまま、肯定も否定もしないルイジーノに、ライツは苦虫を噛み潰したような顔をして続ける。
「分かっている。悪いのは人間――俺達王家だ。ヌシたるあんたの存在を忘れ、あんたの番の遺骨があるあの土地を、安易に他の人間に下げ渡した」
マーティナの逮捕によってサルヴェール家は断絶、土地も屋敷も全て王家に接収された。
ルイジーノの妻であり初代アレニウス国王の末王子を育てた雌竜の遺骨も、改めて王家の管理下に置かれることとなる。
国王ハリスがルイジーノを王都に留めたがったのは、ヌシである彼を目の届く場所に置いておきたかったからだが、それは本人に拒否されてしまった。
しかしながら、今すぐにアレニウス王国を見捨てるつもりはもうないようだ。
ルイジーノが小さく肩を竦めて言う。
「おまえ達の差し金とはいえ、自分そっくりの可愛い孫と出会っちゃったからね。パティの行く末は気になるし、シャルロがあの子を幸せにできるかどうか見届けるって約束したし、もうしばらくはここでヌシを続けてもいいよ」
「恩に着る」
ほっとしたようにため息を吐くライツに、しかしルイジーノは、ただし、と畳み掛けた。
「ぼくはね、妻とは違って人間なんてどうでもいいんだ。今回はパティのために思い留まったけれど、またいつ気が変わるかも分からないからね。おまえの兄さんにはよくよく伝えておきなよ。ぼくの機嫌を損ねないようにしっかりお務め、ってね」
「……承知した。肝に命じておこう」
底の見えない人ならぬものの目に見つめられ、さしものライツもゴクリと唾を呑み込む。
それに満足そうな顔をしたルイジーノが、自分のグラスにもう何杯目かも分からぬワインを注ぎ入れた。
彼の視線が逸れたことに小さく息を吐いたライツが、気を取り直して続ける。
「それで? 率直に言って、シャルベリの竜神はどうなんだ。あんたの後継者となり得るのか?」
そう問うライツの目は、テーブルの真ん中に乗せられた子竜のぬいぐるみを見つめていた。
ひどく居心地が悪そうな顔をしながらも小竜神がその場に留まっているのは、綿が詰まったピンク色の尻尾をワインボトルの底で押さえられているからだ。
すると、それまでルイジーノの膝の上に行儀良く座ってお菓子を食べていたシャルロッテがため息とともに立ち上がり、ワインボトルを持つ彼の手をペチンと叩いた。
『こんなおチビちゃん相手に、あまり意地悪をするものではありませんわ』
『そうよそうよ。大人げないったらありゃしない』
『あなた、うんと年取ってるんだから、ちょっとくらい寛大さを身につけなさいよ』
パトリシアの膝から下ろされてテーブルに乗っていたシャルロッタも、ライツの膝の上に陣取ったシャルロットも加わって、口々にルイジーノを糾弾する。
ルイジーノはそれに肩を竦めると、シャルロッタによってワインボトルの下から助け出された小竜神をじとりと睨んだ。
「あーあ、どうしてくれるの、ケダモノ。お前のせいで女の子達に怒られちゃったじゃないのさぁ」
『わ、我は……』
『『『ルイジーノ、おだまり』』』
「え、こわ……何、おまえ達のその言い方。ぼくの奥さん、そっくり……」
「ほう、ヌシにも弱点があるのか」
ルイジーノと人形達とやりとりを生温かい目で眺めていたライツが面白そうな顔をする。
「聞くところによると、あんたは初代アレニウス国王の末王子を食おうとして、嫁に愛想を尽かされたそうじゃないか? それを棚に上げて、よくもシャルベリの竜神をいじめられるものだな」
「おや、サルヴェールの洞窟で一緒だったボルトとかいう子がしゃべったのかい。っていうか、愛想尽かされたんじゃないし! ちょっと怒られて巣穴から放り出されてただけだし! それに、自分のことを棚に上げて何が悪い? ぼくはヌシだぞ。そこのケダモノと同じ場所に立つのなんてそもそもごめんだね」
「ふん……随分と傲慢なヌシ様だ」
「おまえは、随分と生意気な人間だね」
ルイジーノとライツはしばし無言で見つめ合うも、先に視線を逸らしたのは前者だった。
ルイジーノはテーブルの上に頬杖をつくと、人形達に庇われた小竜神を冷たい目で見下ろしながら、ようやくライツのさっきの質問に答える気になったようだ。
「これはまだ、シャルベリに影響を及ぼすだけで精一杯の未熟者さ。パティに眷属を添わせて少しずつ外の世界を知ろうとはしているが、まだまだだね」
元はただのケダモノに過ぎなかったシャルベリの竜神は、ルイジーノの血を引くメテオリットの娘アビゲイルを食ったことで、雨を降らす力を持つ竜となった。
その後、五人のシャルベリ家の娘の犠牲を経て、生まれ変わったアビゲイルと心身ともに一つになり、それは真実シャルベリの守り神にまで上り詰める。
さらに、前アレニウス国王の末子ーーライツにとっては腹違いの末弟であるミゲルが連れてきた犬の成れの果てを食らったことにより、その影響力は劇的に強くなった。
それは件の犬が、アビゲイルよりも竜の気が濃い先祖返りであり、ルイジーノの隔世遺伝であるパトリシアの翼を食べていたことに起因する。
そうして、竜神に決定的な存在感を与えたのは、その化身たる小竜神が琥珀を腹に隠したぬいぐるみに憑依した出来事だ。
琥珀はそもそもオルコットの竜の血液の残骸であり、それを腹に取り込んだことで、竜神は結果的にかつてのヌシを凌駕したことになった。
「ふふ、ぼくがまたヌシの役目を放り出したくなる前に、こいつが次のヌシが務まるくらいの竜になるといいね?」
「やれやれ、先が思い遣られるな……」
ワインが入ったグラスを持ち上げて、ルイジーノが悪戯げに笑う。
ため息を吐きつつも、ライツも紅茶の上にワインを注がれたカップを持ち上げた。
アレニウス王国一帯を統べるヌシと、アレニウス国王の名代がひとまずの和睦を経て乾杯をする。
立ち会ったのは、三体の人形達と、次代のヌシとなるかもしれない存在だった。
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竜神祭からおおよそ一月後。
私ーーパトリシアが初めてシャルベリ辺境伯領を訪れた日から八ヶ月と少し。
その日、閣下は私の懐妊を竜神の神殿に報告した。
そうして、さらに半年が経ち、再びシャルベリ辺境伯領の空が彩雲に覆われた日の翌朝のこと。
閣下がまだシャルベリ辺境伯邸で身支度を整えている最中に、私は突然産気付いた。
そうして、ついに元気な赤ん坊をーー
ではなく。
なんと、卵を。
竜神の鱗みたいに虹色に輝く卵を、一つ産んだのである。
おわり




