30話 落ちこぼれ子竜の未来
竜神祭から一夜が明けた。
アーマー中佐の末妹の代わりに、なんとか生贄の乙女役を務め終えた私は、本日――
「そら、パトリシア。しっかり導いてくれよ。何しろ俺は、ここでは右も左も分からんのだからな」
「うう、はい……殿下」
どういうわけか、ライツ殿下と一緒にシャルベリの町を歩いていた。
閣下のものとは正反対の真っ白い軍服は、姉の夫であるリアム殿下ーー兄様で見慣れているはずだが、今まさに私の隣でそれを纏っているのはアレニウス王国軍大将。いわば、閣下の上司だ。
そのため、粗相をしてしまわないかとガチガチに緊張する私に、ライツ殿下は苦笑いを浮かべる。
「そう固くなるな。所詮俺は遠縁のお兄さん、だろ?」
「う、お、恐れ多いことです……」
お兄さんではなくておじさんだろう、という陛下に対するライツ殿下の常套文句が頭を過ったが、私は賢明にもそれを口にすることはなかった。
事の発端は、昨夜のこと。
この日の朝に突然シャルベリ辺境伯領を訪ねてきたライツ殿下を交えて夕食を囲んでいる最中、猪肉の骨付き肩ロースを勇ましく齧っていたジジ様がふと思い出したように口を開いたことに始まる。
「ところで、シャルロ。ぼくは空気が読める男だからあの場では黙っていてあげたけど――おまえ、ズルをしたよね?」
「は?」
「だって、ほら。おまえ、ケダモノの助けで浮島まで辿り着いたって言ったじゃないか。それって、普通に考えて反則でしょ?」
「あ……」
ジジ様は手に付いたソースをぺろりと舐めると、隣でワインを飲んでいたライツ殿下の手をいきなり掴んだ。
そうして、グラスの中身が零れるのも構わず、彼の手を高々と上げさせて言い放つ。
「というわけで、優勝は二番手だったこいつのものだ。パティは、ちゃんとこいつとデートしてあげなさいね」
「えっ……」
ジジ様の言葉に、閣下がカトラリーを取り落としたのは言うまでもない。
そもそも、ジジ様が干渉したのだから勝負自体が無効なのではないか。
そんなお義父様の尤もな意見は、つまらない、の一言でジジ様に一蹴されてしまった。
かくして、本日午後初の汽車で王都へと戻る予定のライツ殿下を、私は時間いっぱいまで接待することになったというわけだ。
とはいえ賓客をもてなすのも、シャルベリ辺境伯夫人となった私の仕事の一つである。
となれば、いつまでも気後れなんてしていられない。
一念発起した私は、縁談のためにシャルベリを訪れてから今日までの七ヶ月あまり、多忙な執務の合間に閣下が連れていってくれた様々な場所にライツ殿下を案内した。
そうして、休憩のために立ち寄ったのは、閣下と初めて二人で出掛けた際に昼食をとった、あの路地裏の料理屋である。
外壁から店内まで蔦が生い茂り、アンティークな調度が並んだ落ち着いた店の雰囲気は私のお気に入りだった。
ランチにはまだ早いこの時間。テラス席に陣取った私達のテーブルには、紅茶の入ったカップと、店主の祖母が朝早くから作るというお菓子が並んだ。
ライツ殿下はその素朴な味わいがお気に召したようで、白い軍服を纏った身体を籐の椅子にゆったりと預けて、満足そうに舌鼓を打つ。
「しかし……まさか、マチルダに手を引かれてよちよち歩いていたあのチビに、自分がもてなされる日が来ようとはな」
「もう、チビじゃないですもの」
「そうだな。いまや人妻か。しかしまあ、お前が楽しくやっているようで何よりだ。陛下もこれで少しは安心なさることだろう」
「陛下が、ですか……?」
ここで思いがけない人物が話題に上って、私は首を傾げる。
ライツ殿下は野暮用でシャルベリ辺境伯領に来たと言ったが、それが何なのかを私は尋ねる立場にない。
けれどその口ぶりから、野望用とはもしや、と思いかけた私に、ライツ殿下は小さくため息を吐いて続けた。
「サルヴェール家の一件では、お前達夫婦に道理に合わない真似をしたからな。陛下が俺に、直接出向いて機嫌を取ってくるよう命じられたんだ」
「そ、そんな……そんなことで、わざわざ殿下が?」
「陛下もあれで、人並みには気に病んでいるんだ。あとはまあ、マチルダにもおまえの様子を見てくるように頼まれた。しかし、赤ん坊に掛かり切りで手が離せないとはいえ、おまえの姉さんはちょっと上司を顎で使い過ぎだと思うんだが?」
「ふふ、姉が申し訳ありません」
天下の王国軍大将閣下も、相変わらずあの姉の前では形無しのようだ。
堪らず笑いを漏らす私にライツ殿下は肩を竦めつつ、苦笑いを浮かべてカップを傾ける。
そうして、すいっと視線を横に流したかと思ったら、呆れたように言った。
「――それで? あんた、なぜここにる?」
「だって、心配じゃないか。なにしろ、パティは――ぼくの孫はこんなにこんなに可愛いんだから」
ライツ殿下の胡乱な視線の先にいたのは、ジジ様だった。
私達と同じテーブルを囲んで、お菓子はそっちのけでワインをガブガブ飲んでいる。
私にライツ殿下とデートするよう命じた張本人は、実はシャルベリ辺境伯邸からずっと一緒だったのだ。
ついでに言うと、ジジ様の膝の上にはシャルロッテ、私の膝の上にはシャルロッタ、そしてライツ殿下の膝の上にはシャルロットが座って、優雅にお菓子を食べている状況であった。
「おまえが権力にものを言わせて、いたいけなパティを手篭めにでもするんじゃないかと思うと、おじいちゃんはもう心配で心配で……」
「「手篭め!?」」
とんでもないことを言い出すジジ様に、私もライツ殿下もぎょっとする。
人形達は、んまあ! と声を揃えて、竜神の鱗みたいな虹色の目を一斉にライツ殿下に向けた。
さらには
「――て、てて、手篭めだと!?」
素っ頓狂な声を上げて、隣の雑貨屋から飛び出してきたのは閣下だ。
猛然と駆け寄ってくる閣下の肩にはピンク色をした子竜のぬいぐるみ――小竜神がしがみついており、さらに後ろからは呆れ顔の少佐とその愛犬ロイも現れる。少佐の前面には、彼の長男ルカ君が抱っこ紐でくっ付いていた。
閣下は椅子に座っていた私を抱え上げて背中に隠すと、胸倉を掴まんばかりの勢いでライツ殿下に詰め寄る。
そして、私の膝に乗っていたシャルロッタの、ちょっと危ないじゃない! という抗議も無視して捲し立てた。
「殿下はパティに無体を働こうというのですか!? 私の、パティに!? は!? 生きて王都の土を踏めるとお思いなさるな!?」
「しないしない。俺もまだ命が惜しい。それより、あんた仕事はどうした。シャルベリ辺境伯軍ってのは暇なのか?」
「はは、何をおっしゃいます、殿下。これこの通り、鋭意要人警護中ではございませんか」
「警護ね……むしろ、命を奪われそうなんだが?」
ちなみに、ライツ殿下の親衛隊も閣下と一緒に雑貨屋に潜んでいたらしく、灰色の軍服を纏った軍人が大勢わらわらと集まってきた。営業妨害もいいところである。
狭い路地に面した店先は、たちまち人だらけになった。
うんざり顔のライツ殿下が、しっしっと手を振って部下達を解散させる。
ライツ殿下の親衛隊の目に、膝にお人形を抱いた上司の姿がどう映っただろうか。
ともあれ、不承不承ながらも彼らがその場から去ると、ライツ殿下は閣下とその背中に隠された私に向かって言った。
「デートはもう十分堪能したから、あんたらは陛下への土産でも見繕ってきてくれ。俺はここで茶を飲んで待っている」
「ぼくもワインを飲んで待っているよ」
『『『私達もお菓子をいただいて待っているわ』』』
ひらひらと、ジジ様と人形達も手を振る。
では、と喜色を浮かべて振り返った閣下が、私の手をぐっと掴んだ。
白い手袋に包まれたその手は大きくて温かくて、ほっとする。
物心ついた頃からずっと私を引っ張ってきてくれた姉の手より、今はもう閣下の手が一番自分に馴染むような気がした。
私もぎゅっと手を握り返しながら、閣下を振り仰いだ、その時だった。
「あっ……」
目に飛び込んできたものに、私は思わず声を上げる。
私の視線を追って頭上を見上げた閣下も、おや、と呟いて破顔した。
「彩雲じゃないか。これは、幸先がいいね」
店舗と民家が混在する路地裏の、建物と建物の間に張られたロープで揺れる色とりどりの洗濯物の向こうには、虹色の雲に覆われた空があった。
虹色の雲は彩雲と呼ばれ、陽の光が大気中の水滴や氷晶によって回折されることで、雲が虹のような様々な色に彩られる大気現象であるが、古来より吉兆の現れとされている。
少佐の前に引っ付いたルカ君が、あー、う、と喃語をしゃべりながら雲を掴もうと小さな手を伸ばす。
それに微笑ましげに目を細めた閣下は、繋いだ私の手にもう片方の手もポンと乗せると、わざとらしく改まった調子で口を開いた。
「さて、パティ。私の可愛い奥さん」
「何でございましょうか、旦那様」
「うぐっ……か、かわわ……」
「はいはい、閣下。とっとと続けて」
少佐の容赦ない突っ込みに、閣下はこほんと咳払いをして気を取り直す。
「我がシャルベリ辺境伯領の威信をかけて、陛下をあっと言わせてさしあげるような土産を用意したいのだが……あいにく私はそういうものに疎くてね。ここは、王都で生まれ育ったパティの審美眼に賭けたい。よろしく頼めるかい?」
そんな閣下の言葉に、自分なんかでは力不足だ、と落ちこぼれ子竜が私の頭の隅で怖じけづく。
けれどもこの時、閣下の空色の瞳に映り込んだ私は、もうおどおどなんてしていなかった。
彼に頼ってもらえる嬉しさが、卑屈な思いに打ち勝ったのだ。
「――はい、閣下。喜んで」
今も昔もこれからも、私はずっとちんちくりんの子竜だ。
けれども、閣下が隣にいてくれれば、きっと胸を張って生きていける――そう思えた。
再び見上げた空には一面、明るい未来を予感させる虹色の雲。
それはまるで、シャルベリ辺境伯領の竜神の身体を覆う鱗みたいに美しく、キラキラと輝いて見えた。
――ところで
料理屋のテラス席にジジ様とライツ殿下を残してきてしまったが、私達を見送った彼らがその後どんな会話をしたのかは知る由もない。
人形達が、彼らに付き合って残った理由も然り。
また、閣下の肩にしがみついていたはずの小竜神が、いつの間にかジジ様の手に渡っていたことなんて、陛下への土産を見繕って戻ってくるまで、私も閣下も気づきもしなかった。




