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29話 アビゲイル



 空を一面覆っていた真っ黒い雲は、いつの間にか私の纏ったローブみたいな白い雲に取って代わられていた。

 あれほど激しかった雨も、柔らかな霧雨に変わっている。

 貯水湖の上は濃い霧に覆われ、湖岸に詰めかけた人々の影もその喧騒も、浮島にいる私達にまで届かない。

 しん、と不自然なまでの静寂が辺りを包んでいた。

 けれども同時に、どこかからじっと見つめられているような感覚を覚える。

 それは不思議と不快なものではなかったが、私をひどく落ち着かない心地にさせた。

 いや、そもそも落ち着いてなどいられないのだ。だって、いまだ閣下達、貯水湖を泳いでいた面々の安否も分からないのだから。


「か、閣下!? 閣下はどこに……」


 私はジジ様の腕を振り払い、白いローブが汚れるのもかまわずに湖の畔に膝を付く。

 そんな私の頭にポンと軽い調子で手を乗せ、ジジ様は霧の向こうを見通すように目を細めた。


「ふふ――ようやくおでましかい?」


 それを合図に、目の前の霧がゆっくりと晴れ始め――やがて、私の胸の奥でドクンッと大きく心臓が跳ねた。

 いつの間にか、私達がいる浮島の側に巨大な丸太のようなものが横たわっていたからだ。

 その表面には虹色の鱗がびっしりと貼り付いていて、霧雨を浴びながらキラキラと光沢を放っている。

 竜神だ――そう直感して息を呑んだ私の頭を撫でつつ、ジジ様は尊大な態度で告げた。


「ごきげんよう、ケダモノ。ぼくの子孫を食ってのうのうと生き長らえている浅ましい生き物よ。自分の縄張りで好き勝手をされるのは気に入らないかい?」


 そのとたん、虹色の巨大な丸太みたいなもの――竜神の胴体がズルズルと動きだし、浮島の回りを蜷局を巻くみたいに幾重にも取り囲んだ。

 ジジ様の言い草が竜神を怒らせてしまったのかと焦る私の目の前で、突如湖面がブクブクと泡立ち始める。

 今度はいったい何が出てくるのかと戦々恐々、ゴクリと唾を呑み込んだ、その時だった。

 ザバッ! と盛大な水飛沫とともに湖の中から現れた人影に、私はこれでもかというほど両目を見開く。

 

「か、閣下!? 閣下……っ!!」

「はっ、パティ!? ということは、ここは竜神の神殿……」


 現れたのは、閣下だった。

 私に負けじと目を丸くした彼は、素早く岸に上がって濡れた髪を搔き上げる。

 そうして、私の顔とジジ様の顔、それから周囲を見回してから、よしっ! と天に向かって拳を突き上げた。


「私が一番乗りだな! まあ、当然だけどね! さあさあ、迎えに来たよ、パティ! こんな茶番はさっさと終わりにして一緒に帰ろう!!」


 そう言って、閣下が大きく両手を広げる。

 すぐさま、その腕の中に飛び込んでしまいたかったのだが……


「そんなびしょ濡れのやつに、ぼくの可愛い孫をだっこさせてなんかやれないな。というか、おまえどうやって辿り着いたの? ここに近づけないよう、水流をいじったんだけどな?」

「ほう、水流をいじった……なるほど」


 私はまたもやジジ様に捕まって、背中からぎゅっと抱き込まれてしまう。

 一方、閣下がすっと両目を細めた。


「この突然の悪天候……やはり、おじい様の仕業でしたか。さすがに悪戯が過ぎますよ。竜神様が現れて道を作ってくださらなかったら、危ないところでした」

「ふふ、いつまで経っても挨拶に現れない無礼なケダモノを引き摺り出してやっただけさ。それにしても、ケダモノでも眷属は可愛いんだねぇ?」


 ジジ様はそう言うと、恨めしげな顔をする閣下を無視して、その背後で身体をうねらせている竜神を眺める。

 しかしながら、見えているのはいまだその胴体ばかり。

 まるで、生粋の竜たるジジ様、あるいはアビゲイルの祖である彼と顔を合わせるのを恐れているかのように、どこを探しても頭部を見付けることはできなかった。

 なのに、ありありと視線を感じる。

 竜神はいずこからか、私や閣下、そしてジジ様を確かに見つめているのだ。


「これまでシャルベリでは七人の生贄が捧げられ、うち六人はこいつの腹に消えた。けれど、最後の一人――七人目の生贄だけ食われたとは言い伝えられていないね」


 私の髪を手慰みに梳きながら、ジジ様は抑揚のある声で歌うように話し出す。

 その金色の眼差しは、やがて竜神から閣下へと移っていった。


「七人目の生贄の名はアビゲイル。最初にケダモノの糧となったメテオリット家の娘も、アビゲイル。ねえ、これは単なる偶然だと思う?」


 敢えて問うということは、つまり偶然ではないのだろう。

 案の定、七人目の生け贄は最初の生け贄の生まれ変わり――つまり、二人のアビゲイルは同じ魂だとジジ様は言った。

 しかし、彼のこの話がいったいどこへ行き着くのか見当もつかない。

 私は人形のように愛でられつつ、ただ黙って耳を傾けるしかなかった。

 アビゲイルはね、とジジ様が続ける。私だけではなく、子孫を語るその声はいつだって慈愛に満ちていた。


「あの子は、本当にシャルベリを恨んでなんかいなかったんだよ。それどころか、自分の行いがきっかけで後の時代の娘達が犠牲になったこと、そして、その後も続いていくかもしれないことに責任を感じたんだろうね」


 アビゲイルが生まれ変わったのは、五人のシャルベリ家の娘が犠牲になった後だった。

 前世を思い出した彼女は、連鎖を断ち切るために、再び我が身をケダモノに捧げたのだという。


「自己犠牲はきらいだよ」


 さっき湖に飛び込もうとした私を叱ったのと同じ言葉を、ジジ様が小さく吐き捨てる。

 七人目の生贄となったアビゲイルは食われることはなく、寿命いっぱいまで竜神に寄り添ったという。

 その決して長くはない一生のうちに、彼女は竜神の心を育み、そうして最後に亡骸を食わせることで、彼とようやく一つになった。

 黙ってジジ様の話に聞き入っていた閣下が、ここで口を開く。


「では、八人目の生贄が捧げられる前夜、その夢に出て道を示したのは――虹色の鱗を煎じて飲めば竜神の力の一端を持った子が生まれると伝えたのは、真実その七人目の生贄、アビゲイルだったのでしょうか?」

「おそらくはね。その虹色の鱗とやらは、ケダモノの中に溶け込んだアビゲイルの一欠片だろう。それはシャルベリ家の人間の血に混じって脈々と受け継がれ――」


 そこで言葉を切ったジジ様は、私の髪を絡めたままの人差し指でもって、トン、と閣下の胸を――その心臓の辺りを突いた。


「巡り巡って、お前のその血の中にもアビゲイルはいる」

「この血の中に、アビゲイルが……」


 まさに寝耳に水といった表情の閣下が、ジジ様の言葉を噛み締めるように繰り返す。

 ジジ様は、なおも彼の胸に指先を押し当てたまま、朗々と続けた。


「アビゲイルは、ただのケダモノにその身を食わせて竜を成した。聞くところによれば、パティの翼を食い千切った犬もバケモノに成り果てたそうじゃないか。アビゲイルの欠片を受け継ぐおまえと、ぼくの隔世遺伝であるパティが番って……ねえ、いったい何が生まれるのだろうね?」


 今度は私が息を呑む番だった。

 この先、私と閣下の間にも子供が生まれるかもしれない。

 女の子だった場合には、メテオリットの竜の先祖返りとなる可能性だってある。

 けれども、それ以外の何か――人間でも竜でもないものになってしまう可能性なんて、考えたこともなかったのだ。

 壮絶に美しく作り物めいたジジ様の顔から、ふと一切の表情が消える。

 その口から発せられたのは、それこそ神様みたいに厳かで近寄り難い声だった。



「只人でしかないおまえに、そんな得体の知れない存在の親になる覚悟はあるか――?」



 空気が固く張り詰め、キンと耳鳴りがする。

 霧雨の音さえ、聞こえなくなった。

 代わりに、ドク、ドク、と大きくなるのは、私の心臓が脈打つ音。

 それはどんどんと強く早くなって、またもやこの身体が子竜になってしまうのでは、と案じた時だ。

 ふっ、と閣下が吐息のような笑い声を漏らした。


「改まって何をおっしゃるのかと思ったら、愚問も愚問」

「んん?」


 閣下は胸に指先を突き付けていたジジ様の手首を掴むと、ぐいっと自分の方に引いた。

 それに抗わなかったジジ様と一緒に、その腕の中にいた私も閣下の方へ引き寄せられる。

 必然的に、二人の身体の間に挟み込まれる形になった私の額に、閣下がちゅうと唇を押し当てた。

 水に浸かっていた彼の唇はいつになく冷たくて、私はひゃっと首を竦める。

 それに、はは、と今度は声を立てて笑いながら


「人であろうと竜であろうと――いいえ、何であろうとも、私とパティの子に変わりありません。子も、パティも、必ずやこの手で幸せにして見せましょう」


 一点の曇りもない、まさに晴れ渡った青空のごとき瞳で、閣下は真正面からジジ様を見据えてそうきっぱりと言い切った。

 ジジ様はその心の奥底まで見透かすように、まばたきもせずに閣下を見つめている。

 私は何だか自分が審判を下されるみたいで、ひどくそわそわとした心地になった。

 にもかかわらず、閣下はいっそ晴れやかなほどの笑みを浮かべると、ジジ様の背中に手を回して私ごと抱き締める。

 ちょうど同じくらいの身長の二人が、私を挟んで間近に見つめ合った。


「心配には及びません。おじい様はどうぞ長生きをなさって、私の言葉が真実であることを見届けてください」


 しばし、その場に沈黙が落ちる。

 ドク、ドク、とまた私の心臓の音ばかりがうるさくなった頃だった。

 ふっ、と旋毛にため息が落ちてきたのは。


「ねえ、おまえ。ぼくまでびしょびしょになったんだけど?」

「ははは、わざとに決まってるじゃないですか」


 子供みたいに唇を尖らせて文句を言うジジ様に、閣下が悪怯れもせずに答える。

 それを合図に彼らが距離を取った時、私はジジ様ではなく閣下の腕の中にいた。

 ローブが水を吸い込んで、じっとりと重くなる。けれども、その向こうにある閣下の体温が恋しくて、私は彼の背中に両手を回した。

 耳をくっつけた逞しい胸の奥からは、トクトクと規則正しい音がする。

 それに夢中で聞き入る私に、背後のジジ様が苦笑する気配がした。


「何だい何だい、妬けちゃうね。パティはそんなにそいつが好きなのかい」

「ご覧の通り。私とパティは正真正銘両思いなのですよ。あー……可愛い……」

「ふん。まあ、いいさ。お望み通り見張っててやろう。おじいちゃんをがっかりさせないでよね――シャルロ?」

「御意にございます」


 ここで初めてジジ様に名前で呼ばれた閣下は、晴れやかな笑みを浮かべて頷いた。

 すると、一件落着とばかりに、浮島を囲んで蜷局を巻いていた竜神が動き始める。

 やがて、その身体が一本の虹色の光となって空へ上ると、貯水湖を覆っていた霧も徐々に晴れていった。

 ほどなく、ザバッという水飛沫とともに、新たな人物が浮島に上がってくる。

 閣下といい勝負をしていたはずのライツ殿下だ。


「……はあ、ひどい目にあった」


 心底疲れた様子のライツ殿下が、岸に座り込んで大きくため息を吐く。

 霧が晴れた貯水湖は何事もなかったように凪いでおり、びしょ濡れの男達が湖岸からそれを呆然と見下ろしていた。

 ジジ様がふんと鼻で笑う。


「ケダモノめが。生意気にもヌシを気取って全員助けたのかい」


 どうやら竜神の手によって、閣下とライツ殿下以外は全員元いた湖岸に押し戻されていたようだ。

 閣下は、足もとに座り込んだライツ殿下と湖岸に並んだ男達を見回すと、私を両手で抱き上げた。

 そして、高らかに告げたのである。



「パティは、私の可愛い可愛い奥さんだぞ! 殿下にも、他の野郎どもにも、当然竜神様にだって、ぜーったい渡さんっ!!」



 とたん、わっと観客が沸いた。



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― 新着の感想 ―
[一言] 最後はのろけで終わる ある意味らしい
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