28話 竜神祭
貯水湖の真ん中にある竜神の神殿と湖岸を繋いでいた跳ね橋が引き上げられる。
祭りが終わるまで、ここは寄る辺ない浮島となった。
神殿などと大層に呼ばれているが、実際は竜神と乙女を象った石像と祭壇が置かれているだけの小さな祠だ。
賑わう湖岸とは対照的に、古めかしく物寂しい石造りの建物の袂で、私は自分の格好を見下ろしてため息をついた。
「まるで花嫁衣装のようじゃないか。まあ、実際の生贄の乙女達にとっては死装束になったんだろうけど?」
「ジジ様……」
縁起でもないことを言うのは、宣言通り竜神の神殿に同行したジジ様だ。
彼の思いつきを発端とし、私はこの日、急遽アーマー中佐の末妹の代わりに竜神祭の生贄の乙女役を務めることになった。
着せられたのは、やたらと手触りのいい白一色のローブである。歴代の乙女役が受け継いできたそれは、柔らかな動物の毛で作られた随分な値打ちものらしい。
生贄の乙女役は本来、竜神の神殿に一人きりで残されるのが習わしだが、可愛い孫に寂しい思いをさせるのは忍びない、とか何とか言ってジジ様が同行を認めさせてしまった。
そもそも、閣下ともそう変わらない年格好のジジ様が、堂々と私の〝おじいちゃん〟を名乗っていることに誰も疑問を持たないのは、生粋の竜たる彼の成せる技か。
私は隣に佇む真っ白いご先祖様越しに、閣下の瞳みたいに青一色の空を見上げてまたひとつため息を吐いた。
「えー……お集まりいただきありがとうございます。本日はお日柄もよく――」
湖岸では、竜神祭の主催者である商工会長が恰幅のいいお腹を揺らして開会の挨拶に立った。
彼が今の今まで座っていた主催者の席は、この日に限って馬車の往来を禁止した大通り――シャルベリ辺境伯邸の表門の前付近に設置され、その隣が来賓席になっている。
閣下と私が座るはずだったそこには、今は代わりにお義父様とお義母様の姿があった。
そして、肝心の閣下は……
「ご覧よ、パティ。彼、やる気満々だよ」
「閣下……」
シャルベリ辺境伯邸を背にした来賓席から湖岸に添って右回りに視線をずらしていくと、ちょうどシャルベリ辺境伯領中央郵便局の前にその姿を見付けることができた――背後に、大応援団を従えて。
閣下の腹心モリス少佐とその妻子を筆頭に、アーマー中佐と三人の息子達、その他非番のシャルベリ辺境伯軍の軍人達がこれでもかというほど勢揃いしている。
郵便局長夫妻、店を閉めて駆け付けたメイデン一家とその隣のリンドマン一家、閣下の弟であるロイ様の姿もあった。
とにかく閣下の人望の篤さを物語るように、大勢の人々が犇めき合うその一角は異様な盛り上がりを見せている。
けれども、湖岸に臨むのは閣下陣営だけではなかった。
これから生贄の乙女を目指して貯水湖に飛び込まんとする男達が、他にも大勢居並んでいる。
生贄の乙女役が急遽変更になったことで、アーマー中佐の末妹を期待していた男性陣が軒並み参加を取りやめてしまうのではないか。それによって竜神祭自体が興醒めなものになりはしまいかと心配していたのだが、杞憂であったようだ。
きっと彼らも一年に一度の祭りを盛り上げるために、生贄の乙女役にかかわらず参加を決めてくれたのだろう。
けれども、ジジ様はそう言う私の髪にくるくると指を絡めて、さも面白そうに笑った。
「生贄役がおまえだから、あえて参加を決めた連中もいるとおじいちゃんは思うけどね」
「え……?」
「だってさ、上手くいけば領主殿が目に入れても痛くないほど溺愛している奥方と、堂々とデートできるわけだし? 他人のものに魅力を感じる輩も一定数いるんだよ」
「まさか、そんなことは……」
とたんにおろおろする私の頭をよしよしと撫でながら、ジジ様はやたらと優しい声で続ける。
「もしも旦那以外が優勝したら、ちゃんとそいつとデートしてやらなきゃね。決まりだもん。たとえば――あいつ」
ジジ様が私の髪を絡めたままの指差した先には白い軍服を纏う人、アレニウス王国軍大将ライツ殿下の姿があった。
それを応援するのは、灰色の軍服の一団。シャルベリ辺境伯領まで随行したアレニウス王国軍の親衛隊だ。
ライツ殿下のせいで生贄の乙女の代役を引き受けざるを得なくなった私は、ついつい恨がましげな目を向けてしまう。
今朝になっていきなり現れた彼は、一月前にサルヴェール家で起きた事件の後日談を語った。
王国軍に拘束されたマーティナ・サルヴェールは、素直に事情聴取に応じているという。父親である次官やその周囲の悪事を全て証言することと引き換えに、罪はいくらか軽くなるらしい。
彼女が不遇の人生を送ってきたと聞かされただけに、私は少しほっとした。
ただ不思議なことに、マーティナも家令も、その他サルヴェール家の使用人も、誰ひとりとしてジジ様のことを覚えていなかったそうだ。
また、事後処理のためにサルヴェール家に残っていたボルト軍曹は、王都に戻る際、アイアスを連れて汽車に乗ったという。
自分を拾って名前を付けてくれた彼を、七年も忘れずに慕っていたアイアスの健気さが報われること。私はただただ喜ばしく思った。
「――簡単ではございますが、これにて開会の挨拶とさせていただきます」
私がライツ殿下の話を思い出しているうちに、長々と続いていた商工会長の挨拶が終わった。
いよいよ、竜神祭が始まる。
湖岸の閣下が軍服の上着やシャツ、手袋などを次々と脱ぎ捨て、それを少佐が甲斐甲斐しく拾って畳んでいるのが見えた。
ライツ殿下や他の参加者達も、それぞれ飛び込む準備を済ませて貯水湖の際にまで出る。
始まりの合図を託されたのは、半年前にシャルベリ辺境伯位を閣下に譲って引退したお義父様だ。
商工会長に強請られて、僭越ながら、と立ち上がったお義父様が片手を空に向かって上げる。
そうして、湖岸にぐるりと一周視線を巡らせたかと思ったら、貯水湖の隅から隅まで響き渡るような張りのある声で告げた。
「――始め」
そのとたん、男達が一斉に貯水湖へ飛び込む。
盛大な水飛沫とともに、わっと声援が上がり、湖岸はたちまち熱気に包まれた。
それに煽られて飛び込んだ迷惑な酔っぱらい達が、アーマー中尉が隊長を務める本日の警備部隊に早々に引き上げられるのをよそに、男達は猛然と泳いで貯水湖の中心を目指す。
その中でも飛び抜けて早いのが、閣下とライツ殿下だ。
おかげで、両陣営は大盛り上がり。
いつもは上官であろうと平然と扱き下ろす少佐も、今日ばかりは声も枯れんばかりに閣下を応援している。
わんわん、と聞こえてくるのは犬のロイの声。
人間のロイ――閣下の弟のロイ様も、湖岸から身を乗り出して懸命に兄の姿を目で追っていた。
ライツ殿下の応援団とて負けてはいない。
拳を振り上げ、野太い声でもって、負けじとその背を鼓舞する。
(閣下……!!)
曲がりなりにも生贄の乙女役を務める身のため、声を張り上げて閣下を応援するわけにはいかない私は、ローブの合わせ目をぎゅっと握って歯痒い思いに堪えた。
そんな時だった――空に、突如黒い雲が立ち込めたのは。
「えっ……?」
あっという間もなく、ザーッと凄まじい音を立てて雨が降り始める。
雨は貯水湖を泳ぐ男達の上にも容赦なく降り注ぎ、彼らの進行のみならず息継ぎさえも阻んだ。
大量の雨粒に叩かれた湖面は激しくうねり、男達を次々と呑み込んでいく。
もちろん――先頭を泳いでいた閣下も例外ではなかった。
「か、閣下? 閣下っ……!!」
くすくす、とさも楽しそうな笑い声が聞こえてきたのは、そんな時だった。
私は信じられない思いで隣を――そこに立つジジ様を振り仰ぎ、はっと息を呑む。
私達の頭上だけぽっかりと雲に穴が開いて、不自然に青空が覗いていることに気付いたからだ。
現に、竜神の神殿があるこの浮島には、一滴の雨も降ってはいなかった。
「ジジ様……この雨、ジジ様の仕業なんですか!? ど、どうしてっ……!!」
「だって、凪いだ湖をただ泳ぐだけなんてつまらないでしょ。ぼくの可愛い孫を、楽して手に入れられるなんて思われちゃあ癪だからね?」
私はジジ様に縋り付き、その胸をドンドンと拳で叩いて必死に懇願した。
「や、やめて! やめてくださいっ! 雨を止めてっ!! みんなが――閣下が溺れてしまうっ!!」
「ここで溺れて死ぬのなら、あいつはそれまでの男だったということさ。竜の血を引くおまえの番にふさわしくない」
「ジジ様!!」
「ふふ、怒っても可愛いねえ、パティは。パトリシアが怒った時に比べれば、子犬が戯れているようなものだよ」
癇癪を起こす子供をあしらうみたいに、ジジ様は私の言葉に耳を貸さない。
彼はまだ、シャルベリを憎んでいるのだろうか。
子孫であるアビゲイルを蔑ろにし、あまつさえ命と引き換えに降らせた雨を当時の領主が一族の手柄にしたことを。
けれども、すでにシャルベリ家は代々娘を生贄に差し出さざるを得ないという報いを受けたはず。
それに、アビゲイル自身はシャルベリにちっとも恨みはないみたい、と言ったのはジジ様ではないか。
そうこうしている間もますます天候は荒れ、貯水湖はついに渦を巻き始めた。
もはや、閣下がどこにいるのかも分からない。
「閣下っ……閣下っ!!」
頭の中が真っ白になった。
同じ子竜でも、生粋の竜であるジジ様とは違って、姿形だけの先祖返りでしかない私には水を操る力なんてない。
己の無力を、いったい何度呪えばいいのだろうか。
私は、着せられていた真っ白いローブを脱ぎ捨てて、荒れ狂う貯水湖に飛び込もうとする。
自分が行ったところで何もできないと頭の隅では分かっていても、じっとしていられなかったのだ。
さらには、この身を捧げることと引き換えに、このシャルベリ辺境伯領の守り神たる竜神が、この事態を収拾してはくれまいか、と淡い期待も抱いていた。
奇しくも、私は今まさに、竜神に捧げられる生贄の乙女としてここにいるのだから――。
ところが……
「こーら、パティ。だめだよ。それは、おじいちゃんが許さない」
寸でのところでジジ様に捕まって、再びローブを着せられてその腕の中に抱き込まれてしまった。
彼は、小さな子供を叱るみたいに優しい声で続ける。
「まったくおまえは、すぐにそうやって我が身を差し出そうとする。以前の狩りの時も、猪を前にして自分を盾にしようとしただろう? ぼくはね、自己犠牲なんてものは嫌いだよ」
「ジジ様……ジジ様っ、おじい様っ!! お願い、お願いしますっ……閣下を助けて! 皆を助けて! 私、何でもしますからっ!!」
「あーん、泣き顔も可愛いー。でも、何でもします、なんて軽々しく言うものではないよ。ぼくがおまえのおじいちゃんじゃなかったら、どんなえげつない要求をしたか知れない」
「お願い……お願い……」
くすくすと笑うジジ様の腕の中で、私は必死に身を捩る。
雨はまだ激しく降り続き、目の前にはまるで水のカーテンが下りたようになって、貯水湖の水面が――そこを泳いでいた閣下達がどうなってしまったのか、まったく見えなくなっていた。
凄まじい絶望が私を襲う。
指先からどんどん冷たくなって、この身に流れる竜の血ごと全てが凍ってしまいそうな感覚を覚えた――その時だった。
ドーン、という落雷と紛うほどの凄まじい音とともに、空から貯水湖に向かって閃光が走ったのは。
虹色の眩しい光に、私はとっさにぎゅっと目を瞑った。




