27話 生贄の乙女の代役
ジジ様を迎えて一月が経ったこの日、シャルベリ辺境伯領は一年の大きな節目を迎える。
周囲に聳える高い山脈のせいで深刻な水不足に悩まされていたこの地では、かつて竜神に生贄を捧げて雨乞いをしていた。
そうして犠牲になった乙女達を慰めるために、現在でも一年に一度、シャルベリ辺境伯領の中央に位置する貯水湖を舞台に竜神祭が執り行われる――今日がその日だった。
貯水湖の中州に立った竜神を祀る神殿に乙女役の女性を置き、それを迎えに行くという態で、有志の男性達が湖岸から一斉に泳いで彼女のもとを目指すのだ。
長い歴史のある竜神祭だが、主催するのはシャルベリ辺境伯家ではない。
そもそも生贄の乙女というのは、代々この地を治めてきた領主の娘達であり、シャルベリ辺境伯家はこの領主一族の末裔である。祖先が自ら生贄を差し出して雨を請うたくせに、子孫がそれを奪い返すという主旨の祭りを主催するわけにはいかないだろう。
そのため、古くから領民の代表が主催者となり、近年では商工会長が歴任することになっていた。
祭りは毎年盛況で、貯水湖を囲む大通りも馬車の往来が禁止されて一部は観客席となる。
現シャルベリ辺境伯夫妻である閣下と私には、来賓として神殿の正面にあたる特等席が用意されるらしい。
また、毎年必ず、酔って貯水湖に飛び込む者が続出するため、シャルベリ辺境軍の一個小隊が祭りの警備に当たる。
それを率いることになっているアーマー中尉が、妻である中佐とともに真っ青な顔をしてシャルベリ辺境伯家を訪ねてきたのは、その日の早朝のことだった。
彼らが用があったのは、前夜祭だ何だと言ってお義父様と少佐の父トロイア卿と三人で酒盛りし、そのままシャルベリ家に宿泊していた商工会長だったのだが、当人はいまだ夢の中。
閣下がアーマー夫妻を朝食に誘って、代わりに用件を聞くことになったのだが……
「ええっ!? 妹さんが――家出!?」
なんと、今日の祭りで生贄の乙女役を務めるはずだったアーマー中佐の末妹が、昨夜置き手紙をして姿を消してしまったというのだ。
私と同い年だという彼女が、乙女役に乗り気ではないことは聞いていた。
それで父親と揉めている、とアーマー中佐がぼやいていたのもよく覚えている。
「あの子、建築に興味があって、ずっと王都へ行きたがっていたんです。どうしても師事したい憧れの建築家がいるとかで。何度も手紙で自分を売り込んだ末、その熱意を酌まれて弟子入りを許されたらしいんですけど、父がそれに猛反対したみたいで……」
アーマー中佐の両親は、女性の社会進出に否定的な考えを持っており、長女である中佐の出世にもよい顔をしないような人達だった。
末娘に生贄の乙女役をさせようとしたのは、あわよくばそれで相手を見付けて家庭に収まってほしい、という思いがあったようだ。
王都で弟子入りなんて以ての外。父親は、彼女に無断で件の建築家に断りの手紙を出してしまったらしい。
それを聞いた閣下は苦々しい顔をして腕を組んだ。
「いくらなんでもひどい話だな。親が子の人生を阻んでどうするんだ」
「妹もそれはもう怒り狂って、父の秘蔵のワインを一本残らず叩き割って我が家に逃げ込んでたんですけど」
「さすが、中佐の妹。火力が強いな」
「昨日、生贄の乙女役の衣装を届けに来た母ともう一悶着あったらしく、私達が仕事を終えて帰宅した時にはもう……」
置き手紙には、姉夫婦に迷惑をかけたことへの謝罪とともに、件の建築家に直接会ってもう一度弟子入りを頼んでみる旨が記されていたらしい。
アーマー中佐はそんな末妹を応援する一方、その後始末に頭を悩ませていた。
アーマー中佐の末妹が生贄の乙女役を放り出してシャルベリ辺境伯領から去ったのは、保守的で押し付けがましい両親への意趣返しだろう。
とはいえ、それで困るのは彼女の両親だけではなく、竜神祭に関わる大勢の人々もだ。
一番に神殿に辿り着いた男性は乙女役の女性にデートを申し込む権利を得る、という暗黙の了解があることから、いきなり祭り当日に別の娘の代役として出てくれと言われて手を挙げる娘はいないだろう。
かといって、生贄の乙女の催しは祭りの目玉であるため、中止にするのも容易ではない。
「あの子が王都で成功してもしなくても、いつか故郷が恋しくなるかもしれません。その時、帰り辛い状況だったらと思うと、かわいそうで……」
そう言って、いつもは気丈なアーマー中佐がほろりと涙を流す。
せっかくの祭りを打ち壊したとなれば、本人や両親のみならず、アーマー夫妻やその子供を含めた一族全員が、シャルベリ中から顰蹙を買うことにもなりかねない状況にもかかわらず、末妹を責める様子は少しもなかった。
そんなアーマー中佐に、いつも自分を想ってくれていた優しい姉の姿を重ね、私はぎゅっと胸が苦しくなる。
なんとか力になれないだろうかと思った、その時だった。
「――なら、パティが代わりをやってあげたらいいんじゃない?」
「はぁ!?」
「ふえっ!?」
ふいに聞こえてきたのは、どこか気怠げなジジ様の声。
その思いも寄らない提案に、閣下は素っ頓狂な、私は間抜けな声を上げた。
まるで退廃的な夜を過ごしたかのように、シャツの前を開けて白い肌を曝し、凄まじい色気を振りまきながら朝食の席に現れた美貌の人に、普段ジジ様を見慣れているはずのアーマー夫妻さえも絶句する。
私は慌てて彼の側まで飛んでいって、シャツの前を合わせて目に毒な素肌を隠した。
幸いと言うべきは、血の繋がりがあるせい、はたまた孫扱いされるのに慣れたおかげか、私がジジ様の美貌に耐性ができたことだ。
眩いばかりの笑みを至近距離で浴びても怯まず、彼のシャツのボタンを上から一つ一つ留めていると、いい子いい子と頭を撫でられた。
「やっておあげよ、パティ。ぼくも一緒にケダモノの神殿とやらに行ってあげるからさ」
「で、でも、ジジ様。生贄の乙女役は、未婚の女性と決まっていて……」
「それは正規の場合でしょ。パティはあくまで代役なんだから、細かいことはいいんじゃない? おじいちゃん、可愛い孫の晴れ姿が見たいなーあ」
「晴れ姿って……でも、勝手に決めていいことじゃないですし……」
ジジ様の提案に私がおろおろしていると、パンッ、と手を打ち鳴らす音とともに新たな声が加わる。
「それは妙案ですな、ルイジーノ様! パトリシア様はいまや時の人! 祭りが盛り上がること請け合いですよ!」
「でしょう?」
やってきたのは、商工会長と、それに続くトロイア卿とお義父様だった。
どうやらジジ様は退廃的な夜を過ごしたわけではなく、ただお義父様達の飲み会に参加していただけのようだ。
あまりお酒に強くないお義父様は、二日酔いなのか少々顔色が優れない様子。
そんなお義父様と同じくらい青い顔をした人がもう一人いた。閣下である。
「ま、ままま、待って! 待ってくれっ!! それはつまり、不特定多数の男どもがパティを目指して泳ぐってことか!?」
とんでもない! と吠えた閣下に、ジジ様はにやりと人の悪い笑みを浮かべる。
「そうだけど、何か問題でもあるかい?」
「大ありですよ! どこの世界に、妻を餌にされて平気な男がおりますかっ!!」
「おまえも祭りに参加して、一番にパティのもとに辿り着けばいいだけの話じゃないのかな? それとも、まさか自信がないの?」
「そんなあからさまな挑発には乗りませんからね!」
閣下は頭を撫でられていた私を慌てて引き寄せて、ジジ様を威嚇するみたいに睨む。
私としても、アーマー中佐の力になりたいのは山々だが、祭りの主役ともいえる重要な役目はさすがに荷が重いと思った。
ともあれ、シャルベリ辺境伯領の最高位にある閣下が拒否したのだから、この話はなくなるだろう、とほっとしかけた時のこと。
思いも寄らない声が響いた。
「面白そうな話をしているじゃないか。その祭り、俺も参加するぞ」
本日の朝食の席は千客万来である。
カツカツと軍靴の踵を鳴らして、アレニウス王国軍の上官にのみ許された白い軍服の人物が現れた。
一瞬ぽかんとした顔をした閣下だったが、すぐさま我に返って姿勢を正す。
アーマー夫妻もそれに倣った。
「ライツ殿下――いえ、王国軍大将閣下。なぜ、こちらに?」
「いやなに、ちょっとした野暮用だ」
何の前触れもなくシャルベリ辺境伯領に現れたのは、王弟であるライツ殿下だった。
シャルベリ辺境伯軍はシャルベリ辺境伯家の私兵団だが、広義においてはアレニウス王国軍の一部ともいえる。
その場合、アレニウス王国軍の長であるライツ殿下は、シャルベリ辺境伯軍司令官を務める閣下の上官ともいえるわけで……
「アレニウス王国軍大将としてシャルロ・シャルベリに命じる――パトリシア・シャルベリに生贄の乙女を務めさせろ」
いきなり現れていきなり権力を振り翳すライツ殿下を、閣下はこの時、刺し殺しそうな目で睨んだ。




