26話 幕間
わんわん、わんわん、とけたたましい犬の鳴き声が立ち並ぶ木々の合間に響き渡る。
精悍な顔付きをした数頭の犬が吠え立てながら、立派な角を持った大きなオスの鹿を追っていた。
やがて、その眼前に高い岩壁が立ちはだかる。
すると鹿は、その驚異的な跳躍力でもって犬達には到底太刀打ちできない崖を駆け上り、まんまと逃げ果せた――かに見えた、その時である。
ヒュッ、と空を切る音が聞こえたかと思ったら、鹿の左前足の付根やや後ろ――ちょうど心臓の辺りに深々と矢が突き刺さった。
ぐらり、と鹿の身体が横向きに傾く。
そのまま力なく宙に投げ出された亜麻色の巨体は、次の瞬間ドウッと音を立てて地面に沈んだ。
一連の光景を固唾を呑んで見ていた私は、ここでやっと一息を吐く。
そんな私に、すぐ隣からはしゃいだ女性の声が掛けられた。
「あらまあ、パティ! 誰の矢が鹿を仕留めたのか分かるかしら?」
「はい、お義母様。ええっと……」
前回の狩りから、そして姉の出産およびサルヴェール家での出来事からもうすぐ一月。
この日またシャルベリ辺境伯軍は、領地を囲む山脈にて軍事訓練を兼ねた狩りを行っていた。
足が不自由なお義母様とその車椅子を押す私がいるのは、鹿が絶命した岩壁から見て右手にある高台の上――一月前の狩りの時とは別の場所だが、同様に万が一にも流れ矢の届かない場所である。
背後に広がる高原には大きなテントが張られ、すでに仕留められた三頭の鹿が早々に解体されているようだ。
今まさに本日四頭目の獲物となった、あの大きな鹿を仕留めた矢に私は目を凝らす。
その矢羽は――白。
そして、黒い愛馬に跨がり木立の向こうから真っ先に飛び出してきた閣下の、その背にある矢筒からは白い矢羽が覗いていていた。
「閣下……閣下です、お義母様! あの鹿を仕留めたのは閣下の矢ですよ!」
「まあまあ! あの子、ついに旦那様から一本取ったのね!」
私はお義母様と手を握り合って喜ぶ。
岩壁の下では、遅れてやってきた旦那様が馬の首を並べ、閣下の肩を叩いてその栄誉を讃えた。
そんな中、ふいに閣下がこちらを見上げ、空色の瞳が私を捉える。
とたんに端整な顔が柔らかく綻び、黒い軍服の袖に包まれた長い腕が大きく振られた。
おずおずと手を振り返す私の側では……
「あーもー、遠過ぎて見えないけど分かりますよ。閣下、絶対緩み切った顔してるでしょ?」
「うん、デッレデレだな。あいつ、ちょっとぼくのパティのこと、好き過ぎないか?」
少佐とジジ様が並んで、岩壁の下の閣下にぼやく。
ただし――後者の口の端からは赤いものが零れていた。
「うっわ、ちょっ……ルイジーノ様!? ち、血!? 滴ってますけど!? 一体何、食い殺してきやがったんですか!?」
「そんな、ひとをケダモノみたいに言わないでくれる? あっちで鹿を解体していたから、ちょっと新鮮な内臓つまみ食いしてきただけだよー」
「まあまあ、ルイジーノさんったら。こちらにいらして、食いしん坊さん。拭いて差し上げますわ」
相変わらず何事にも動じないお義母様はさすがだが、少佐の反応が普通だろう。
花の刺繍を施した可愛らしいハンカチで口元の血を拭ってもらっているジジ様の上機嫌な顔を見て、私は小さくため息を吐いた。
マーティナに宣言した通り、ジジ様は私の側で――シャルベリ辺境伯領で暮らすことにしたらしい。
陛下やライツ殿下は王都に留まるよう強く望んだが、絶対嫌だの一点張りだった。
どうやら、亡き妻に似過ぎている姉の側にいるのは辛い――いや、怖いようだ。
幸い、閣下のご両親――前シャルベリ辺境伯夫妻であるお義父様とお義母様は、そんなジジ様を歓迎してくれた。
それでも、メテオリット家の娘でありながら竜神の最初の生贄となったアビゲイルのことで、彼はシャルベリをよく思っていないと豪語していただけに、最初のうちは何かしでかしやしないかと私は気が気ではなかった。
ただ、事情を知った閣下と義両親が当時のシャルベリ領主の行いを悔いるのを見たジジ様は……
「アビゲイル自身は、シャルベリにちっとも恨みはないみたいだけどね」
と肩を竦めると、それ以上過去に関して何も言わなくなった。
それからというもの、シャルベリ辺境伯家の使用人やシャルベリ辺境伯軍の軍人達とも早々に打ち解け、町にも知り合いがたくさんできて毎日楽しそうにしている。
しかしながら、生粋の竜であるジジ様を迎えた影響は皆無とはいかなかった。
「小竜神様、大丈夫ですか?」
私の肩にへばりつき、髪に隠れるようにしてプルプルと震えているのはピンク色の子竜のぬいぐるみ――それに憑依した小竜神だ。
小竜神は相変わらずジジ様が怖いようで、彼の側には極力寄り付かないようにしているが……
「おまえも食ってやろうか、ケダモノの眷属。きっと、まずいんだろうけど」
『ひいっ……』
ジジ様は隙あらばちょっかいをかけて、その反応を楽しんでいる風であった。
「ジジ様、いじわるしてはだめですよ」
「いじわるじゃないよ、パティ。本当のことだよ。だってこいつの中身、綿だもん。まずいに決まってるじゃないか」
「もう……そういうことではなくて」
「ケダモノ本体なら、少しは食えるかもしれないけどねぇ」
そんな、冗談なのか本気なのか分からないことを言い残し、ジジ様はさらにつまみ食いをしようとテントの方へ消えていった。
私は怯える小竜神を撫でてやりながら肩を竦める。
その時だった。
ガサガサ、と音を立てて近くの茂みが揺れる。
前回の狩りの際、アーマー中尉の犬が茂みから飛び出してきたのを思い出して、私はドキリとした。
サルヴェール家で世話になったアイアスと同じ犬種の、口の回りから目にかけては黒、それ以外は赤褐色の毛むくじゃらだ。
けれども、腰に提げたサーベルの柄に手をかけた少佐が私の前に躍り出ると同時に姿を現したのは――犬ではなかった。
「――うわっ、猪か! パトリシア様、じっとしててください!」
「は、はい……」
茂みから飛び出してきたのは猪だった。
しかも相当の大物だ。丸まると太っていて、背中に銀色の鬣がある。
牙は長く反り返り、両目は血走っていた。
「ま、まずいまずいまずい……パトリシア様、絶対に動かないで! 私の背後にいてくださいね!」
「しょ、少佐……」
珍しく切羽詰まった少佐の声に、否が応でも緊張が高まる。
テントで獲物の解体作業をしていた軍人達もこちらの状況に気付いたようだが、興奮した猪を刺激するのを恐れ、遠巻きにして手をこまねいている様子。
そんな中、またもやガサガサと茂みが揺れて、新たに飛び出してくるものがあった。
「わんっ! わんわんっ!!」
「うわっ、よりにもよって……こいつの仕業か!」
少佐が思わずといった様子で悪態を吐く。
けたたましく吠えながら姿を現したのは、なんと件のアーマー中尉の犬だった。
どうやら鹿追の一団から外れた末に、運悪く猪を見付けて徒に追い立ててしまったようだ。
どう考えても手に余る相手だというのに、幼い彼にはそれが分からないのか。よせばいいのに、猪の尻にガブリッと齧り付いた。
グオオッ、と凄まじい咆哮を上げ、猪が後ろ足を蹴り上げる。
元凶であるアーマー中尉の犬は一撃で吹っ飛ばされて退場し、後には怒り狂った猪が残された。
ガッガッ、としきりに前足で地面を蹴って威嚇している。
少佐がゆっくりとサーベルを引き抜き構えた、その瞬間。
一直線に突っ込んできた猪の牙を、少佐は果敢にも刃でもって受け止める。
しかし、鍔迫り合いに持ち込んだのも束の間――少佐がいかに鍛錬を積んだ軍人であっても、人間の腕力で敵う相手ではなかった。
猪がぶんっと大きく鼻先を振ると、少佐の身体はまるで木の葉のように簡単に薙ぎ払われてしまう。
鋭い牙に抉られなかったのだけが、不幸中の幸いだった。
しかし、それにほっとしている余裕は私にはない。
少佐がいなくなったことで、その背に隠されていた自分が今度は猪と対峙する羽目になったからだ。
「パティ、お逃げなさいっ!」
初めて聞くお義母様の焦った声に、私は自分の置かれた状況のまずさを思い知る。
けれども、動くに動けなかった。恐怖で足が竦んでいたのも理由だが、何より後ろには車椅子に乗ったお義母様がいる。
私が逃げてしまったら、次に危険に晒されるのは確実にお義母様だ。
ドクッ! ドクッ! ドクッ! と鼓動が激しくなった。それでも、私は胸を押さえて懸命に堪える。
子竜になんてなっていられない。ちんちくりんの子竜では、一瞬たりとも盾の役目を果たせない。
「大丈夫……大丈夫よ……私は、竜の先祖返り。普通の人より、丈夫だもの……」
かつて犬に翼を食い千切られた時だって、あの血溜まりの中から生還したのだ。傷なんて跡形もなく完治していたし、今では翼だって再生しているではないか。
凄まじい恐怖に打ち勝つために、大丈夫、大丈夫、と必死に言い聞かせて自分を鼓舞する。
その間も、少佐が吹っ飛ばされたのを見て手をこまねいている場合ではないと思ったのか、解体係の軍人達が声を上げたり物を叩いたりして、猪の注意を私から逸らそうとしてくれる。
槍を持ってこい! いや、弓だ! と鋭い声も飛んだ。
けれども、完全に頭に血が上っているらしい猪の耳には届かない。
その目は、すでに私を次の標的と定めてしまったように見えた。
無理だ! 逃げて! と、頭の中に小竜神の声が響く。
血走った猪の目が恐ろしくて恐ろしくて……私がついに両目を瞑ってしまいそうになった――その時だった。
ドーン、と。
すぐ横の崖の下から馬が飛び出してきたのは。
「えっ……!?」
前回の狩りの時と同じ光景に、私は瞑りかけていた両目を見開く。
「――パティ!!」
ガツンッ! と蹄を地面にめり込ませて着地した馬の背から、黒い軍服をはためかせて飛び降りたのは閣下だった。
そのまま勢いを殺さず、猪の無防備な横っ腹に強烈な蹴りを食らわす。
悲鳴を上げる間もなく横向きに吹っ飛んだ猪は、近くの岩場にぶつかって動かなくなった。
どうやら頭を打って目を回したようだ。
とたんに、解体係の軍人達がわあわあと走り寄ってきて、素早く猪を縛り上げた。
彼らに助け起こされた少佐は幸い打身だけで大きな怪我を負っていなかったが、火事場の馬鹿力、こわ……と閣下を見上げて顔を引き攣らせている。
一方、猪の行く末になど目もくれず一直線にこちらに駆け寄ってきた閣下は、お義母様の前に立ち塞がって硬直していた私を抱き締めて頬擦りをした。
「ああー、よちよち! 怖かったねぇ! 下から見ていた私も生きた心地がしなかったよ!!」
「か、閣下……」
「はうわわわわ! 涙目、かわわわっ……じゃなくて、モリスー!? お前、猪と正面からぶつかり合って勝てるわけないだろう! 大丈夫かっ!?」
「すみませーん、閣下ー。最初の一撃を受け止められた時は、いけるかもって思ったんですけどね……って、うわあっ!?」
突然の悲鳴に、何ごとかと驚いた私は閣下の腕の中から少佐を見遣る。
すると、地面に座り込んでいた彼に飛び付いて、その愛犬ロイが顔中をベロベロ舐め回していた。
閣下と同じく下の狩場にいたロイも少佐の危機を察して駆け付けたのだろう。
続いて、お義父様や一緒に狩りをしていた軍人達も次々と到着し、私達の無事な姿を見て一様に安堵の表情を浮かべた。
唯一、猪を追い立てた犬の飼い主であるアーマー中尉だけは死にそうな顔をしていたが。
目を回して縛り上げられた猪を、解体係の軍人達がテントの方へと運んでいく。
テントの側にはジジ様が立っていた。
しかし――
「ジジ様……?」
彼は新鮮な猪には目もくれず――ただじっと、その金色の瞳に私を映していた。




