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9話 一緒に帰ろう



「お騒がせして、申し訳ありませんでした……」


 消え入りそうな声で謝りつつ、私は両手で顔を覆った。

 私が閣下の愛人だと思い込んだバニラさんは、メイデン焼き菓子店の店長であるという。

 そして、赤子の泣き声を聞いて厨房から飛び出してきた、白いコック服を着た鳶色の髪の青年が、バニラさんの夫でありパティシエを務めているラルフさんだ。

 赤子はこのメイデン夫妻の一人息子で、クリフ君という。

 つまり、閣下の隠し子などではなかったわけだ。

 私は盛大な勘違いを披露してしまったのが恥ずかしくて、穴があったら入りたい気分だった。


「いや、そもそもバニラが私のことを〝パパ閣下〟なんて、わけの分からない呼び方をするからややこしくなるんだぞ。パトリシア嬢の誤解を全然解こうともしないし……」

「だってー、可愛い女の子に詰られてる閣下なんて見物じゃないですかー。それにしても、か、隠し子って……ぶふっ……!」


 閣下にじとりとした目で見られてもどこ吹く風で、思い出し笑いをするバニラさん。

 彼女は何だか、モリス少佐を彷彿とさせるキャラだ。

 私の隠し子発言がよほどツボにはまったのか、ついには腹を抱えて笑い始めた彼女を、夫のラルフさんが窘めている。

 その腕の中では、クリフ君がングングと勢い良くミルクを飲んでいた。


「気に病まなくてもいいよ、パトリシア嬢。誰にだって勘違いすることはあるさ」

「は、はい……恐れ入ります……」


 結局、自分が言い掛かりをつけた閣下本人に慰められてしまい、私はますます情けない気分になった。

 そもそも閣下は、奥様がメイデン焼き菓子店を贔屓にする前から、メイデン夫妻とは知り合いだったそうだ。

 三ヶ月前にクリフ君が生まれてからは、仕事の合間に時々やってきては子守りを手伝っていたらしい。

 閣下は正真正銘独身で、子供もいない。それなのに、赤子をあやす姿が随分と板に付いていたように思う。

 私がそれを伝えれば、彼は懐かしそうに目を細めた。


「年の離れた弟の面倒を見ていたからね。弟が生まれたのはもう二十年も前のことだが、案外身体が覚えているものだよ」

「えっと……それは、ロイ様?」

「そうだよ。そのロイが、この隣のリンドマン洗濯店に住み込んでいてね。こうして時々クリフのお守りをしつつ、弟の顔を見に来るのが私の楽しみなんだ」

「そう……でしたか……」


 ロイ様の話をする閣下の表情は慈愛に満ちていて、彼をとても可愛がっているのがひしひしと伝わってきた。

 ミルクを飲み終わったクリフ君が、父親に背中をトントンしてもらって、ゲフッと見事なゲップを披露する。

 それに微笑む閣下の横顔に無意識に見蕩れていれば、そういえば、と彼が私に向き直った。


「パトリシア嬢は何故ここに? もしかして、母にお使いでも頼まれたのかな?」

「はい、ケーキを……今日のお茶の時間に食べるケーキを買ってくるよう言い付かって参りました」


 ここでふと、カウンターの上に置かれていた時計に目を向けて、私はぎょっとする。

 お茶の時間が、思っていたよりも迫っていたからだ。

 慌ててバニラさんを見れば、満面の笑みで化粧箱が差し出された。ちゃんと、注文したケーキは詰め終わっていたらしい。

 私がお礼を言ってそれを受け取ろうとすると、彼女は思い出したみたいに口を開いた。


「ねえねえ、もしかして、さっき言っていた大人の男性って、閣下のことでした?」

「あ、はい。そうです」


 自身が話題に上ったことで、閣下がこちらに注目する。

 化粧箱の中にチョコレートケーキを二つ入れてもらったのを思い出した私は、おずおずと彼に向き直った。


「ええと、閣下は甘い物は召し上がりますか?」

「うん? まあ、嫌いじゃないが……もしかして、私の分も買ってくるよう、母に言い付けられたのかな?」

「はい。どういうのがお好きなのか分からなかったので、バニラさんに勧めていただいたチョコレートケーキにしましたけれど、大丈夫でしたか?」

「それは、もちろん……」


 閣下は、私の顔とケーキが入った化粧箱をまじまじと見比べる。

 かと思ったら、何やら大きく一つ頷いてから、満面の笑みを浮かべた。


「――よし、帰ろう」

「あれれー、帰っちゃうんですか? お隣で、ロイ君達と一緒にお茶していくものだとばかり思ってましたけど?」

「そのつもりだったが、気が変わった。せっかくパトリシア嬢が私の分までケーキを買ってくれたんだ。今日は家に戻って彼女とお茶をするよ」

「あらまあ、閣下ったら! ご馳走様でーす!」


 閣下はバニラさんとそんな会話を交わしつつ、ラルフさんの腕の中で大欠伸をするクリフ君の頭を優しく撫でた。

 そうして、私の手からさっと化粧箱を奪い取ると……


「さて、パトリシア嬢。一緒に帰ろうか」


 閣下はそう言って、化粧箱を持っていない方の手を私の目の前に差し出した。

 

「……え?」


 私はいきなりのことに戸惑ったものの、にこにこしながら成り行きを見守っているバニラさんやラルフさんの視線に背を押されるようにして、慌てて閣下の手に自分のそれを重ねる。

 お互いの指先が触れ、じんわりと温もりが溶け合った瞬間、私の心臓はまたドキリと大きく高鳴ったのだった。



 *******



 カララン……、と扉の開閉に合わせてアイアンベルが鳴る。

 午後のお茶の時間が迫る中、私は閣下に手を引かれてメイデン焼き菓子店を出た。

 石畳の大通りに踏み出した閣下の黒い軍靴が、カツンと一つ音を響かせた、その時。

 ふいに、頭上から声が降ってきた。


「――兄さん、もう行くのか?」


 私が初めて耳にする、若い男性の声だ。

 声の主を確かめようと顔を上げかけた私の隣で、閣下が「ロイ」と相手を呼んだ。

 ロイ・シャルベリ――閣下の弟君の名前である。

 

「うちで茶を飲んで行くんじゃなかったのか?」

「ああ、すまない。急遽別の予定が入ったのでね。また改めてお邪魔するよ」

「ふうん……あんまりあちこちで油を売っていると、モリスにまたどやされるぞ」

「はは、さすがに今日はもう邸に戻るよ。万が一モリスが入れ違いでやってきたら、そう伝えておくれ」


 穏やかな口調の閣下に比べて、ロイ様はいささかぶっきらぼうだ。

 そんな彼が、本来は私の縁談相手となるはずだった。

 とはいえロイ様は何も、私との縁談を蹴って恋人のもとに奔ったわけではない。

 叔父が縁談をまとめようとした時には、すでに彼には心に決めた人がいた――それだけだ。

 これを把握しておきながら、叔父が私をシャルベリ辺境伯領まで連れてきたのは、マルベリー侯爵令嬢が駆け落ちしたことでご破算になった閣下の縁談の穴埋めのため。

 おそらくは、ロイ様自身は私との縁談話が持ち上がったことさえ知らないだろう。 

 私個人としてはロイ様に対して別段言いたいことはない。彼とはきっと擦れ違う運命だったのだろうと思うくらいだ。

 だから、この時ロイ様に目を向けたのは、閣下が愛するシャルベリ家の末っ子とはどんな人だろうという、純粋な好奇心からだった。


「……っ!?」


 とたん、私の全身に鳥肌が立った。

 本日もシャルベリ辺境伯領の空は、相変わらず雲一つない快晴である。

 透けるように青い空と、風にはためく洗濯物をバックに、ロイ様はメイデン焼き菓子店の隣――リンドマン家の建物の屋上から大通りにいる私と閣下を見下ろしていた。

 リンドマン家は現在洗濯屋を営んでおり、住み込みでそれを手伝っているロイ様は、客から預かって洗いを済ませた洗濯物を屋上に干していたところだった。

 髪は、旦那様や閣下と同じ黒。

 顔は、逆光のせいでよく分からない。

 それなのに、瞳だけはキラキラと虹色に――竜神の鱗と同じ色に輝いているのがはっきりと見えた、その瞬間。私は否応無しに悟った。

 彼は――ロイ様は、竜だ。

 それも、私みたいな落ちこぼれの先祖返りではなく、確固とした竜神の力を受け継ぐ個体だ。

 姿形は人間と変わらない。シャルベリ辺境伯領の竜神の眷属が、メテオリット家の先祖返りのように竜に変化するなんて話も聞いたことはない。

 けれども、私の本能はロイ様を〝自分より力の強い竜〟と認識し、畏怖した。

 彼に比べれば、小さいながらも竜神のままの形をしている小竜神の方が、よほど親しみやすい。

 人間離れした虹色の瞳がすいと自分に向けられると、たちまち蛇に睨まれた蛙の気分になった。

 とっさにぎゅっと手を握り締めた私は、ここでようやく、閣下と手を繋いだままだったことを思い出す。


「パトリシア嬢? どうした?」


 いきなり手を握り締められた閣下は、不思議そうに私の顔を覗き込んできた。

 私は慌てて彼から手を離すも、その勢いで後ろに倒れそうになってたたらを踏む。

 すると、今し方離したばかりの閣下の手が伸びてきて、背中に回って支えてくれた。

 そうして結局、手を繋いでいた時よりも密着してしまった私と閣下の頭上から、再びロイ様の声が降ってくる。

 

「兄さん、その人は?」

「王都からいらしたお客様だよ。お前が家を出たせいで寂しがっている母に、よくよく付き合ってくれているんだ。お前も感謝しておきなさい」

「そうか……初めまして、ロイと言います。母がお世話になっているそうで、ありがとうございます」

「い、いえ……私の方こそ、奥様にはよくしていただいております。パトリシアと申します」

 

 閣下の大きな身体に隠れるようにして、私は何とか挨拶に応えた。

 けれどもやはり恐ろしくてならず、ロイ様の顔を見上げることもできない。

 彼との縁談が進まなくて、心底よかったと思う。

 私はこの時、初めて運命に感謝した。



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