21話 おじいさま
パンッ、と渇いた音が、洞窟の中に響き渡った。
マーティナがジジ様の頬を張った音だ。
「この浮気者! 私を捨てようっていうの!?」
「捨てるもなにも……おまえはそもそもぼくのものじゃないし、ぼくもおまえのものじゃない。これは単なる普遍的な別れだよ」
「ふざけないでちょうだい! あなたと一からやり直すために、私は祖国も何もかも捨てる決意をしたのに!」
「ええ……そんな純愛っぽいこと言われても困るなぁ。ぼくたちってさ、もっとこう倒錯的っていうか、爛れた関係だったじゃない?」
突然始まったジジ様とマーティナの修羅場に、閣下も少佐もボルト軍曹もぽかんとする。
私はというと、マーティナの神経を逆撫でしまくっているジジ様の発言にハラハラしっぱなしだった。
「まあ、とにかく。今までありがとうね、マーティナ。二度と会うことはないだろうけど、元気でおやりよ」
「ル、ルイジーノ……」
美しい顔に眩いばかりの笑みを浮かべ、ジジ様は残酷なまでにあっさりと突き放す。
ちょっと気の毒なくらい動揺しているマーティナに、私達傍観者はさすがに同情を禁じ得なかった。
一方的に、次の寄生先に指定されてしまった閣下――正しくはその外套の中にいる私だが、ジジ様がシャルベリ辺境伯領に来るのならば結局は閣下のお世話になる――は、胡乱な目を小竜神に向ける。
「小竜神様……本当にあの方は何者なんですか?」
『マ、マーティナの元愛人で……パトリシアの……』
小竜神が観念したようにジジ様の素性を説明しようとした、その時だった。
「――許さない、許さないわっ!!」
突然そう叫んだマーティナが、ジジ様の胸倉を掴んだ。
そうして――
「もう、誰かの踏み台になんてなってやるもんですか! 私を裏切るというのなら――ここで死になさいっ!!」
護身用に持っていたのか、いきなりナイフを抜いて振り翳したのだ。
それなのに、切っ先を向けられたジジ様はのんきなもので、おお、こわ……と呟いただけで逃げ出す素振りもない。
唯一彼らの側にいる家令は、もともとジジ様のことをよく思っていない風だったこともあり、マーティナを止めようとはしなかった。
反対に、下の段にいた私達傍観組はたちまち騒然となる。
「おいっ、やめろっ!!」
閣下が鋭く制止の声を上げるが、完全に頭に血が上った様子のマーティナは聞く耳を持たなかった。
天井の隙間から差し込む光を受けて、ギラリ、とナイフの切っ先が煌めく。
とたん、ジジ様の真っ白いシャツの胸元が赤く染まる光景が脳裏を過り、私は居ても立ってもいられなくなった。
「――モリス!」
「はい、閣下!」
閣下は少佐から煌びやかな弓矢を受け取ると、素早く矢を番えて引き絞り、狙いを定める。
矢尻が尖っていない美術品であろうと、命中すればかなりの衝撃だろう。
はたして、ヒュッと空を切る音を立てて飛んでいった矢は、今まさにジジ様に振り下ろされんとするナイフを持つ手を寸分違わず射た。
あっ、と悲鳴を上げて、マーティナがナイフを取り落とす。
けれども、それにほっとする間もなかった。
マーティナの落としたナイフをすかさず拾った家令が、そのまま再びジジ様に切っ先を向けたからである。
気が付けば、私は閣下の外套から飛び出していた。
大きく翼を羽ばたかせて勢いを付け、大砲の弾みたいに一直線に突撃する。
ゴチンッ! という音が洞窟に響き渡った。
私の渾身の頭突きによって、家令もまたナイフを取り落とす。
ナイフは洞窟の壁に当たって跳ね返り、湖へと落ちていった。
ポチャン、と水音を立てて、ナイフが沈んでいく。
凶器が目の前から消えてほっとしたのも束の間――
「……っ、くそ! 何なんだっ!!」
「――きゃん!」
頭を押さえて踞っていた家令が、怒りに任せていきなり腕を振り払ったのだ。
自ら繰り出した頭突きで頭がくらくらしていたところに、運悪く家令の裏拳を浴びた私は、まるでナイフを追い掛けるみたいに湖へと真っ逆さまに落ちていった。
「パティ!!」
閣下の呼び声と、ドボンッ……という鈍い音が重なる。
私と一緒に湖に飛び込んだ空気が泡となって、コポコポと呟きながら水面へと上っていく。
ぶたれた衝撃で意識が朦朧としていた私は、ぼんやりとそれを眺めながら沈んでいった。
そんな中、新たな水音とともに湖に飛び込んできた人影が目に入る――閣下だ。
とたんに我に返った私は、慌てて短い手足をばたつかせて体勢を立て直そうとする。
けれども、そもそも子竜の姿でろくに泳いだこともないため思うようにはいかず、無駄に体力と酸素を消費する結果となってしまった。
ゴポポッ……と、一際大きな空気の泡が口から逃げていく。
たまらなく息が苦しくなって、死の恐怖を覚えた時だった――閣下の長い腕に捕まえられ、力強く抱き寄せられたのは。
唇が、重なる。
閣下はゆっくりと、しかし確実に、子竜の私の口に酸素を与えてくれた。
コポコポ……コポコポ……
僅かな隙間から漏れた小さな泡が、囁くような音を立てながら水面へと上っていく。
天井の裂け目から差し込む日の光に照らされて、それはまるで真珠のように輝いていた。
やがて、お互いの唇が離れた頃――私はもう、子竜の姿ではなくなっていた。
子竜の身体の色と同じ、ピンク色の長い髪がゆらゆらと気ままに水中を漂う。
裸の身体は、閣下の腕にしっかりと抱かれていた。
このまま浮上してしまえば、ボルト軍曹に続いてマーティナや家令にも、メテオリット家の秘密を知られてしまうことになるだろう。
それが不安ではないと言えば嘘になる。
けれども――
(閣下と一緒なら――)
ちんちくりんの落ちこぼれ。竜のくせに鋭い爪も牙もない。
賢くも強くも美しくもない、劣等感まみれの私だけれど。
必要だと、愛おしいと、そう誰に憚ることなく言ってくれる閣下と一緒なら、きっと何があっても大丈夫。
私は両手を目一杯伸ばし、閣下の身体にしがみついた。
閣下も私の腰を片腕でぐっと抱き寄せ、浮上するためにもう片方の腕で大きく水をかく。
キラリ、と下の方で何かが光ったのは、ちょうどその時だった。
私も閣下も、自然と水底に目を遣る。
光ったのは、私より一足先に湖に落ちた、マーティナのナイフ。
けれども、水底にあったのはそれだけではなかった。
「「――!!」」
私と閣下は、同時に息を呑む。
湖の底には、大きな骨が。
翼のある、竜と思わしきものの骨が横たわっていた。
「――閣下! パトリシア様!?」
私と閣下が水面から顔を出したとたん、少佐が安堵の声を上げる。
湖に落ちるまで子竜だった私が人間の姿で戻ってきたため、少佐とボルト軍曹には驚かれてしまったが、幸いなことに、マーティナと家令の視線は私を捉えてはいなかった。
というのも、彼らがいる上の段では、さっきにも増して修羅場展開になっていたからだ。
「――ジジ様っ!?」
私を湖に叩き落とした家令は、どういうわけだかジジ様に胸倉を掴まれ、高く吊り上げられていた。
首が絞まって息ができないのか真っ赤な顔をして、必死に両足をばたつかせている。
それを見上げるジジ様の表情は、ぞっとするほど冷たい。
マーティナさえも勢いを失い、ただ蒼白となってその場に立ち尽くしていた。
さっきまでヘラヘラと軽薄な男を演じていたというのに、いったい何がジジ様を豹変させたのだろうか。
その答えは、彼自身の口から語られることになる。
「おまえ……よくも、ぼくの可愛い孫をぶってくれたね?」
地を這うような声に、家令とマーティナがびくりと竦み上がる。
ぽかんとした私の隣では、孫? と閣下が首を傾げている。
ちなみに、私は素肌の上に、閣下が湖に飛び込む前に脱いでいた外套を羽織らせてもらった。
それにしても、自分が引っ叩かれようがナイフを向けられようが平然としていたのに、子孫である私が被害を受けたとたんに怒りを露にするなんて。
若い見た目と浮ついた言動のせいで、正直ジジ様に対しては、ご先祖様だとかおじいちゃんだとかいう実感はあまり抱いていなかったのだ。
それなのに、ここにきて急に保護者感を出されてしまって、私は戸惑いとは裏腹に慕わしさを――親兄弟、特に姉に対するのと似た感情を覚えた。
「う……おじいさま……」
「うんんん!? 〝おじいさま〟!?」
隣で閣下がぎょっとした顔をする。
その間も、上段の空気はどんどん剣呑さを増していた。
「さて、どうしてくれよう? 八つ裂きにして、空から撒いてやろうか?」
吊り上げた相手を金色の瞳を細めて眺め回しながら、ジジ様が恐ろしいことを呟く。
それを挑発ととった家令が、できるものならやってみろ! なんて愚かにも宣ってしまった。
「――言ったね」
刹那、ジジ様が作り物めいた美貌に戦慄するほど冷たい笑みを浮かべる。
その身体が、白い衣服を破いて大きく大きく膨れ上がるのを、すぐ側にいたマーティナと家令はもちろん、私も閣下も、少佐もボルト軍曹も、ロイもアイアスもマーティナの絵さえも――ただただ、息を呑んで見ていることしかできなかった。
湖に、大きな影が映る。
それは、さっき私が閣下とその底に見た遺骨を彷彿とさせた。




