19話 可愛いが過ぎる
涙が伝ったボルト軍曹の顔を、アイアスがまたベロベロと舐め倒す。
おかげで顔中ヨダレだらけになって、目も開けられないような状態になったボルト軍曹を、私は閣下の外套の下で涙を拭いつつこっそりと見守っていた。
なにしろ彼は、メテオリット家が竜の子孫であることも私が子竜になることも知らないのだ。
再会して即行アイアスに押し倒されたため、きっと子竜の存在には気付いていない――そう、思いたかったのだが。
「そういえば、何かがぴいぴい鳴いてませんでしたか?」
袖で顔を拭ったボルト軍曹の呟きによって、その場は凍り付いた。
「あれは……うん、モリスの裏声だな」
「ちょっとぉ、閣下?」
とっさに閣下が苦しい嘘をつき、煌びやかな弓矢を担ぎ直した少佐が胡乱な目でそれを睨む。
弓矢は宝物庫にあったもので、武器よりも美術品として傾向が強いが、何かの役に立つかもしれないと拝借してきたらしい。
実際、閣下がそれで細工を射て隠し扉を開き、ここまでやって来れたそうだ。
ボルト軍曹は弓矢を抱えた少佐をまじまじと見つめてから、なおも続ける。
「それに、ピンク色の小さい動物が見えたような気が……」
「……モリスの残像か何かじゃないかな」
「いや、さすがに無理があるでしょ」
結局、ボルト軍曹が閣下の言葉に誤魔化されてくれることはなく――
「ボルト軍曹、改めて紹介しよう――妻のパトリシアだ」
「ぴ、ぴい……」
私は、彼の前に子竜の姿を晒すことになった。
「うわわわわわ、りゅ、竜だ! 小さいけど、本当に竜がいる! すごい……っ!!」
『あっらー! うっそー、竜の子!? かぁわいいわねぇ!!』
子竜姿の私を目にしたボルト軍曹は、それはそれは驚いた。
何だか、珍しい甲虫なんかを見付けた時の男の子のような反応だったが、ひとまず好意的に受け入れられただけよしとしよう。
彼がここまで抱えてきた金色の額縁――そこに収められたマーティナの絵も、片割れであるマーガレットの絵と同様の反応だった。人間の私に対しても子竜の私に対しても同じ反応というのは、少々納得いかないが。
「でも、この子があのパトリシア様? 確かに、髪と一緒の色だけど……。いったい、どんな身体の作りになってるんだろう」
『ちょっとちょっと、子竜ちゃん! お姉さんによーくお顔を見せてちょうだいな!!』
興味津々な様子のボルト軍曹とマーティナに、もみくちゃにされる未来を察知した私は、慌てて閣下の懐に逃げ込む。
閣下はそんな私を抱き締めて、頬擦りをした。
「可愛いが過ぎる」
私とロイと小竜神、それからアイアスが通ってきた抜け道は、アレニウス王家がこの屋敷を別荘として所有していた時代に、有事の際の脱出口として作られたものらしい。
当主の書斎の隠し扉から、私達が再会を果たしたこの洞窟を経由し、宝物庫を通って裏の森に逃げ込めるようになっていた。
洞窟の中を改めて見回すと、今私達がいる湖の縁とは別に、天井に近い部分にも段があり、その奥まった場所にぽっかりと穴が空いているのが分かった。
湖を挟んで対角上に二つ。しかも、よくよく見れば穴の周囲には石が積み上げられており、どうやらこちらは人工的に作られたもののようだ。
「なるほど……それでは、マーティナ・サルヴェールと家令に関しては黒で間違いないということですね」
『うん。パトリシアのことも捕まえようとしていたからね』
書斎から来た私達と、宝物庫から来た閣下達で、情報の共有が行われた。
私達側の説明役は、唯一閣下側と言葉が通じる小竜神だ。
その小竜神は、ここにきてもまだ湖の方を気にして落ち着かない様子だったが。
ちなみにボルト軍曹は、今更何がきても驚くもんか、と言いたげな顔をしていた。
「サルヴェール家の使用人がどこまで加担しているか、だな……ボルト軍曹、本隊突入の手筈はいかように?」
「合図の小鳥を確認したら、即突入です。マーティナ・サルヴェールの身柄を拘束した後、くまなく敷地内を捜索する手筈になっています」
「なるほど。それでは、すでにサルヴェール家は王国軍に制圧されているかもしれないね。指揮官はどなたかな?」
「僕の叔父――ウィルソン中尉です」
今回ボルト軍曹に課された真の役目は私達の案内役ではなく、汚職次官の財産隠しに関与した疑いのあるサルヴェール家を探る斥候役だったらしい。
陛下に頼まれたマーティナの絵探しも、サルヴェール家を正面から訪ねるための口実だった。
ウィルソン中尉率いる一個小隊総勢六十名が、私達と同じ汽車でやってきて、サルヴェール家の死角に控えていたそうだ。
陛下にいいように使われたみたいで、もやもやとした気持ちになる。
閣下達が無事だったからよかったようなものの、もしも彼らが怪我でも負っていたら、私は到底陛下を許せなかっただろう。
「パティ、眉間に皺を寄せてどうした? いや、しかめっ面もめちゃくちゃ可愛いんだけどな!?」
「ぷぅ……」
閣下や少佐にもきっと思うところはあっただろうが、すでに気持ちを切り替えているようだ。
ボルト軍曹が気に病まないように、という配慮もあるのかもしれない。
閣下に指で眉間を撫でられて少しだけ冷静になった私は、矛を収めた。
「問題の解決は王国軍に任せて、我々はとっとと脱出しましょうよ、閣下」
少佐の言葉を合図に、私達はひとまず地上に出ることにした。
私やロイ達が通ってきた抜け道を遡れば、サルヴェール家当主の書斎に戻れるはずだ。
隣の寝室でジジ様とマーティナがまだ盛り上がっていたらどうしよう……という思いは頭を過ったが、とにかく行くしかない。
ちなみに、ジジ様と出会ったことは、この時点ではまだ閣下に伝えていなかった。
そもそも、子竜の状態の私は直接言葉を交わせないし、説明役を務めた小竜神がジジ様の話題に触れたくなさそうだったからだ。
シャルベリで最初の生贄となったのが実はメテオリット家の娘で、嫁いだシャルベリ家で不遇を強いられた末のことだという事実は、私にとっても衝撃だった。
シャルベリ家にもその事実は伝わっていないようなので、閣下に話すのなら期を改めたい。
今はとにかく、全員一緒に無事サルヴェール家の外に出ることを優先すべきだろう。
先頭を務めることになった少佐とロイが、扉を大きく開け放って抜け道を覗き込む。
マーティナの絵はボルト軍曹が抱え、彼を守るようにアイアスが寄り添った。
閣下の腕に抱かれた私の肩に、小竜神がしがみつく。
この洞窟を離れることになって、一番ほっとしているのは小竜神のようだった。
結局彼が何を恐れていたのかは分からずじまいで、少々後ろ髪引かれる思いがした私は、閣下の肩越しに湖の中を覗き込む。
天井の隙間から差し込む光で水面はキラキラ光っているものの、底に何があるのかはやはり見えなかった。
ただこの時、小竜神とは対照的に、私は不思議と懐かしいような感覚を覚える。
「パティ、どうした? 危ないよ?」
「ぴい」
その理由が気になって、閣下の腕の中から身を乗り出そうとした時である。
「――マーティナ!!」
少佐とロイに続いて扉を潜ろうとしたボルト軍曹が、突然鋭い声で叫んだ。
とたんに閣下の外套の中に隠された私だが、隙間から垣間見た光景にはっと息を呑む。
私達が今いる湖の縁よりも、ずっと上の天井に近い位置にある段に、三人の人影が見えた。
マーティナ・サルヴェールと家令、そして――
『ジジ様』
白い髪の美貌の男性――私達メテオリット家の祖先であり、始まりの竜の片割れであるジジ様だった。




