8話 メイデン焼き菓子店
シャルベリ辺境伯邸は、貯水湖の東に位置する小高い丘の上に立っていた。
私は、初めてここに来た時に潜った表門ではなく、軍の施設を迂回した先にある裏門を出て、石畳の大通りを西へと徒歩で下って行く。
貯水湖の真ん中にある島の上では神殿の屋根の修繕が始まっていて、トンカントンカンとハンマーで叩く音が町中に響いていた。
貯水湖に臨む大通りの沿道に軒を連ねているのは、先祖代々その場所で商いをしてきた老舗だ。
パン屋や果物屋といった食品を扱う店もあれば、その隣に金物屋や靴屋が並んでいたりする。
そのほとんどが、一階を店舗、二階以上を住居としているようだ。
扉の上部には、それぞれの業種にちなんだ看板が掲げられて目印となっていた。
そんな中、私はとある店の前で足を止める。
鋳物飾りが付いた扉の上に掲げられていたのは、ケーキやクッキーなどの焼き菓子をモチーフにした鉄細工だった。
「――あった、メイデン焼き菓子店。ここだ」
私がシャルベリ辺境伯邸に滞在するようになって、今日で十日になる。
子竜姿で遭遇した日を境にして、私はどうにも閣下のことが気になり始めていた。
少佐相手に私のことを可愛いと連呼しているのを聞いてしまったり、子竜の私にデレデレになった素の彼を目の当たりにしたせいだろう。
私を避けているように見えていたという少佐の指摘を受けてか、食事の際に閣下から話しかけられる機会が増えたのも一因に違いない。
食卓での会話の中心はおしゃべりな奥様だが、ふと閣下が私に話を振ってくれたりして、他愛無い言葉を交わすようにもなっていた。
年齢差を理由に結婚対象としては見られないとのことだったが、彼は別段私を嫌っているわけではなかった。
とはいえ、閣下は相変わらず忙しそうで、私達が一日の内で確実に顔を合わせるのは、いまだ朝食と夕食の時だけである。
そんな状況の中、私はこの日、奥様からお使いを頼まれて一人きりで町に出ることになった。
ちなみに、先日出会った小竜神だが、あれから私にベッタリで片時も離れようとしない。
ただし彼は、現在竜神の石像が保管されているシャルベリ辺境伯邸の敷地内からは出られないらしい。つい先ほども裏門の向こうから涙ながらに見送られてしまって少々胸が痛い。
とはいえそんな罪悪感も、見知らぬ町を一人きりで歩くわくわくとドキドキ、それからスパイス程度の不安によって、私は薄情にもすぐに忘れてしまった。
アレニウス王家の末席に連なるとはいえ、メテオリット家は爵位も持たない旧家に過ぎない。
末っ子の私に対して、姉を筆頭に周囲は少々過保護なきらいはあったが、一人で町を散策させないほどではなかった。
そのため、初めて訪れる店の扉を開くのにも、さほど躊躇はない。
カララン……と、扉の開閉に合わせてアイアンベルが鳴った。
とたんに、焼き菓子の甘い香りが私の鼻腔を満たす。
「いらっしゃいませー」
カウンターの向こうから、明るい女性の声が聞こえてきた。
店番をしていたのは、黒髪を肩の上で切り揃えて黒ぶちの眼鏡をかけた、私よりいくらか年上に見える若い女性だ。
扉を閉めてカウンターの前までやってきた私に、女性店員は愛想のいい笑みを浮かべて首を傾げる。
「あらら、可愛いお客様。もしかして、初めましてかしら?」
「はい、少し前にシャルベリ辺境伯領にお邪魔したばかりで……あの、ケーキをいただけますか?」
私が奥様に頼まれたのは、今日の午後のお茶請けにケーキを買ってくることだった。
奥様はこのメイデン焼き菓子店をたいそう贔屓にしているらしく、ご友人を集めたパーティの際にもよくこの店のケーキを注文するそうだ。
女性店員の顔が覗くカウンターの下は、ガラス張りのショーケースになっていた。
中には、ケーキやクッキーといった様々な焼き菓子が所狭しと並んでおり、どれもこれも美味しそうで目移りしてしまう。
私はまず、ショーケースの真ん中に目立つように置かれたケーキを指差し、カウンターの向こうでニコニコしている女性店員に告げた。
「えっと、このチョコレートケーキを……」
「さすがはお客様! お目が高いっ!!」
「ひえっ!?」
「そちらのチョコレートケーキは、当店の一推し商品でございまぁっす!!」
とたんにぱっと顔を輝かせた女性店員が、カウンター越しに身を乗り出してきて、私の手をぎゅうぎゅう握り締める。
食い気味な相手に、私はたじたじとした。
チョコレートケーキは、シャルベリ辺境伯邸に残してきた小竜神のためのものだ。
というのも、どうやら彼、チョコレートが好物らしい。
それを証拠に、旦那様と奥様がお供え物として用意したお菓子やフルーツの盛り合わせから、せっせとチョコレートだけを啄んでいた。
その時、チョコレートばかりが次々と消えていく現象を目の当たりにし、旦那様と奥様もそこに目に見えない何かがいる――それがシャルベリ辺境伯領とは切っても切れない縁がある竜神だと改めて認識したのだろう。
生け贄の乙女を捧げることはできないが、チョコレートならばいくらでも差し上げられるとばかりに、惜しみなく与え続けている。
おかげで、竜神の機嫌に連動するというシャルベリ辺境伯領の空模様も連日快晴が続いているが、日に日に彼の顔や胴がふっくらしてきているのを放っておいていいものかどうか、唯一視認できる私としては悩みどころだ。
それはさておき。
続けてショーケースを覗き込んだ私は、旦那様と奥様に頼まれていたベイクドチーズケーキとラズベリーのムースを、自分用には迷いに迷った末にリンゴのシブーストを選ぶ。
それからもう一つ――実は、閣下のためにもケーキを買ってくるよう、奥様から頼まれていた。
「あの、大人の男性はどういったケーキをお好みでしょうか?」
「大人の男性? うーん、そうですねー……」
とはいえ、閣下の好みなんて私が知る由もない。
朝夕の彼の食べっぷりを見ている限り、別段好き嫌いはなさそうなのだが。
結局、独断で選ぶ勇気もなく早々に意見を求めた私に、女性店員はニコニコしながら愛想よく答えてくれた。
「フルーツ系か、もしくはあまり甘くないチーズ系が無難かと思います。けれども当店としましては、甘いのが平気な方なら老若男女問わずチョコレートケーキをお勧めしているんですよ。何たって、代々受け継いできたレシピで作る、うちの看板商品ですからね!」
「はあ……」
メイデン焼き菓子店自慢のチョコレートケーキは、アーモンドパウダー入りの薄い生地に、コーヒー風味のバタークリームとガナッシュを交互に挟んで幾層にも重ね、チョコレートですっぽり上部を覆っている。
とろりして濃厚なチョコレートの甘さに加え、生地に染み込ませたリキュールシロップの柑橘系の香りとコーヒーの仄かな苦味が絶妙に合わさった、上品な味わいに仕上がっているという。
「ねえ、お客様。もしかして、好い人へのプレゼントだったりします? でしたら、絶対に後悔させませんよ! 是非とも、うちのチョコレートケーキをお持ちくださいっ!!」
「い、いえ……全然そういう相手じゃないんですけど……」
相変わらず食い気味な女性店員にたじたじとしつつも、彼女がチョコレートケーキに絶対の自信があるのは理解できた。
そもそも、シャルベリ辺境伯夫人である奥様が贔屓にするような店なのだから、どのケーキを持って帰ってもハズレはないだろう。
「それでは、チョコレートケーキをもう一つ……」
期待のこもった目でこちらを見つめている女性店員に、私がそう告げようとした時だった。
カララン……と、背後でベルが鳴る。この店の扉の開閉に合わせて鳴るアイアンベルの音だ。
それによって、他の客がやってきたらしいと気付いた私は、さっさと注文を済ませてショーケースの前を譲ろうと思ったのだが……
「バニラ、そろそろミルクの時間じゃ……ああ、すまない。接客中だったか」
「……えっ?」
聞き覚えのある――しかし、ここで聞くとは思ってもみなかった声がして、私はバッと背後を振り返る。
はたしてそこには、今朝も一緒に朝食を囲んだ相手――シャルロ閣下の姿があった。
「か、閣下!? え、えっと……?」
「――ん? パトリシア嬢か!? どうしてここに……」
ぎょっとする私に対し、閣下も目を丸くした。
しかしながら私を驚かせたのは、閣下がメイデン焼き菓子店に現れたことだけではない。
いつもの黒い軍服姿で腰にサーベルを提げた彼の腕には、首が据わって間もないような乳飲み子が抱かれていたのだ。
しかも、その抱き方があまりにも様になっている。
私はぽかんと口を開いたままその場に立ち尽くし、閣下と赤子を見比べた。
すると、私が注文したケーキを箱に詰めていた女性店員が、カウンター越しに閣下に声をかける。
「すみませんねー、パパ閣下。こちらのお客様のケーキをご用意したらすぐにミルクを飲ませますんで、もうちょっとだっこしててくださいねー」
「……パパ?」
女性店員の言葉に、私は衝撃を受けた。
と同時に、ずきんと得体の知れない痛みを訴えた胸をとっさに片手で押さえる。
ドキドキと荒ぶる心臓に、静まれ静まれと心の中で必死に呪文を唱える。
私はごくりと唾を飲み込んでから、赤子を抱いた閣下に向かって絞り出すような声で問うた。
「閣下――隠し子がいらっしゃったんですか?」
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アレニウス王国では法律により重婚が禁じられており、たとえ国王陛下であろうともお妃様は一人しか迎えられない。実際、現アレニウス国王は二人目の王妃を得ているが、それは前王妃が亡くなって四年後のことだった。
当然、次期シャルベリ辺境伯だって複数の妻を持つことは許されない。
私ことパトリシア・メテオリットとシャルロ・シャルベリの縁談云々は、突発的で不確定なものだった。
けれども、マルベリー侯爵令嬢との縁談話が先に持ち上がっていたのだから、閣下は確実に独身のはずである。
ということは、バニラと呼ばれた女性店員は彼の愛人で、赤子は二人の間に生まれた庶子ということになるのだろうか。
そう思い至った私は、たまらず顔を顰める。
だって、閣下は先日少佐相手に、私のことは年の差があり過ぎて結婚対象として見られないと言っていたのだ。
一方で、私とバニラという彼の愛人はさほど年齢が違わないように見受けられる。
彼女との間には子供まで拵えておいて、同年代の私を子供扱いするのはいささか矛盾が過ぎるだろう。
つまり、閣下が私と縁談を組み直すのに乗り気でない本当の理由は、すでに愛する女性と子供がいたからであって、年の差云々はただの言い訳だったのだ。
とたんに、私はひどくがっかりとしたような――もっと言えば裏切られたような気持ちになった。
それなのに当の閣下はというと、暫定とはいえ縁談話が持ち上がっている私に愛人と隠し子の存在を知られても慌てる様子はない。
それどころか、ぐずり始めた赤子を慣れた手付きであやしつつ、さも不思議そうな顔をして首を傾げた。
「うん? 隠し子? ええっと、パトリシア嬢。一体何のことだろうか?」
「とぼけないでください! 今まさに閣下が抱いていらっしゃるその子のことですっ!!」
悪怯れる様子もない相手に、私の心の中にもやもやとしたものが広がっていく。
心に決めた人がいたのなら、叔父がいる時にそう言ってはっきりと私との縁談の可能性を否定してくれればよかったのだ。
そうすれば、唯一の溢れ者となった私は、否応無しにも王都に戻ることなったのに。
自分一人が茶番劇の中で踊らされていたようで、悔しくて唇を噛み締めた。
しかし、ここで一つ疑問が浮かぶ。
あの奥様が、閣下とその愛人の状況を知って、はたして黙っているだろうか。
事故で不自由になった我が身も顧みず、子供達を懸命に育てたという愛情深い人である。
そんな奥様が、息子の愛する女性と子供に、愛人だの庶子だのいう不遇を強いることをよしとするはずがない。まだ十日という短い付き合いではあるが、それだけは断言できる。
バニラと呼ばれた女性店員が、閣下の妻としてシャルベリ辺境伯邸に迎えられていないということは――つまり、彼女と閣下の関係も、二人の間に赤子が生まれている現状も、奥様には知らされていないということだろう。
私は唇を噛み締めるのをやめると、キッと閣下を強く見据えて口を開いた。
「閣下のお子さんということは、奥様にとってはお孫さんですよ。ちゃんと教えて差し上げるべきです」
「――んん? ま、孫っ!?」
すると、ここでやっと閣下が慌て始めた。
「ちょ、ちょっと待ってくれないか? パトリシア嬢、何か誤解をしているようだが……」
「誤魔化しは結構です! とにかく、旦那様と奥様に全てを打ち明けて、彼女とお子さんのことを認知していただくべきです!」
「いや、いやいやいや! 認知も何も、この子は……」
「それに、その気もないのに縁談を保留にするのも良くないと思います! 脈も無いのに体裁のためだけにここに留まっていたなんて、あまりにも滑稽じゃないですかっ……!!」
最後は恨み言みたいになってしまったのは何とも情けないが、私だって少しくらい傷付いたのだ。
興奮するのがまずいのは、自分が一番分かっていた。心拍数が上がって、うっかり子竜化してしまってはいけない。
私はぎゅっと胸元を握り締めて俯き、堪えろ、と荒ぶる心臓に命じる。
いつぞや目にした黒い軍靴の先が視界に割り込んできたのと、大きな手に肩を掴まれたのは同時だった。
「ち、違う! この子は――クリフは私の子供ではないんだっ!!」
悲鳴みたいなその声にぱっと顔を上げれば、びっくりするほど近くに閣下の端整な顔があった。
彼の空色の瞳には、ぽかんとした表情の私が映り込んでいる。
目が合った瞬間、自分の心臓がドクンと一際大きく跳ねたのが、胸を押さえていた掌に伝わってきた。
と、その時である。
「……っ、ふえっ、えっ、えっ……」
閣下の大きな声に驚いたのだろう。
ただでさえお腹を空かせて機嫌を損ねていた赤子が、ついにギャーと火が付いたように泣き始めた。
とたんに、カウンターの奥にある厨房から、白いコック服を着た青年が飛び出してくる。
閣下の腕の中で泣きじゃくる赤子は、このコック服の青年そっくりの鳶色の髪をしていた。