10話 白い人とちんちくりんの子竜
池の水が塞き止められてできた壁は、岸まで続いている。
その狭間に平然と立つのは、髪も肌も透き通るように白く、その上シャツとズボンまで真っ白な男性だった。
上等な絹糸みたいな長い髪は、ゆったりと曲線を描きながら背中に流されている。
姉によく似た金色の瞳は私を――ちんちくりんの子竜をまじまじと見下ろしていた。
「へえ? へええ? おまえはピンク色、なんだねぇ?」
「ぴ……」
いきなり目の前で池の水が割れて混乱していた上、初対面の相手にうっかり子竜の姿を見られてしまったのだ。
私はどうしていいのか分からなくて、完全に固まってしまった。
そんな中、ふいに目の前に黒い壁が立つ。ロイだ。
「おや、黒いおまえ。その子を守ろうとしているのかい?」
「ウウ……」
「ふふ、怖い顔だ。ぼくが、その子をどうにかするんじゃないかと思っているんだね?」
「ウウウ……」
ロイは私を隠すみたいに立ちはだかり、低い声で唸る。
しかし、白い人は怯むどころか平然とその頭を撫でた。
衣服が絡み付いて身動きが取れない私は、ロイの影でおろおろするばかりだったが、ふと白い人の肩を彩る鮮やかな色が目に入る。
私の視線に気付いたらしい白い人が、ああ、これかい? と笑みを深めた。
「さっき、おまえにぶつかってきた子だよ。こんな派手な色をして、襲ってくださいと言っているようなものさ。ここいらでは見かけない種だしね」
それは、赤い頭と黄色の羽をした掌に乗るくらいの小鳥だった。
白い人の言う通り、目立つ姿が災いして鷲に狙われたのだろう。
「さあ、もうお行き。おまえには成すべき役目があるんだろう」
白い人がそう優しい声で促すと、小鳥は返事をするみたいに一つピイと鳴いてから、黄色い羽を広げて空高く飛び立っていった。
ぽかんとしたままそれを見送る私の傍らで、いつの間にか唸るのをやめていたロイが、ブルブルと全身を振って水を飛ばす。
水飛沫が入らないようとっさに両目を瞑るも、さて、と呟く声に慌てて瞼を上げた私は、白い人の手がすぐ目の前まで迫っているのに気付いて戦いた。
「ぴい! ぴいいっ……!!」
「よしよし、落ち着いて。そんなに怯えなくても、おまえを取って食ったりしないよ」
必死にもがいて逃れようとする私に、白い人はくすくすと笑う。
彼は、絡み付いていた衣服を片手で器用に取り除いてから私を抱き上げると、ロイを促してその場を離れた。
そうして、岸に上がったとたんのことだ。
ザアアアッ……と音を立てて水の壁が崩れ始めたかと思ったら、あっと言う間に元通りの池に戻ってしまった。
私はまたもや呆然と、その摩訶不思議な光景を眺めるばかりであった。
「ねえ、おまえ。どこから来たの? 名前は? 年はいくつになる?」
一方、白い人は池の水に起こった奇跡よりも子竜の方に興味津々のようだ。
片腕に抱いた私を遠慮の欠片もなくじろじろと眺めつつ、矢継ぎ早に問うてくる。
ロイはそんな彼の足もとにお座りをして、成り行きを見守るつもりらしい。
閣下以外の男性にだっこされている現状に居心地の悪さを覚えながら、私はちらちらと白い人の顔を盗み見た。
見れば見るほど美しく――そして、作りものめいた顔だと思う。
年は、私の姉や兄様と同じくらいだろうか。
それなのに、喋り方だとか雰囲気はいやに老成しているように思えた。
「しかし、竜が溺れるだなんてねぇ。おまえ、ドジでかわいいね」
「……ぴい」
くすくすと笑って呆れたみたいな台詞を吐かれても、馬鹿にされているような気はしなかった。
それどころか、親が子を慈しむような、拙ささえも愛おしむような――深い愛情を向けられているように思えるから不思議だ。
気が付けば、私は白い人の顔をまじまじと見つめていた。
真正面にある金色の瞳には、彼に負けず劣らず興味津々な様子の子竜の顔が映り込んでいる。
ところが……
「おや、額を怪我しているじゃないか。かわいそうに。さっきの小鳥とぶつかった時だね」
「みっ!?」
白い人がいきなりぷちゅっと額に唇を押し当ててきたものだから、私は再びジタバタと暴れることになった。
絡み付いていた衣服が取り除かれたおかげで、今度はなんとか逃れることに成功する。
慌ててロイの後ろに避難した私は、その背中にしがみつきながら、またくすくすと笑う白い人を覗き見る。
しかしふと、彼の手に――今の今まで私を抱っこしていたのとは逆の手に握られているものに気付いてぎょっとした。
「ぴゃ!?」
「ああ、コレね。さっきの派手な小鳥にくっついてたんだけど――知り合いかい?」
白い人の手にあったのは、子竜の私を模した小さなぬいぐるみ――小竜神が憑依したものだった。
閣下達と一緒に宝物庫に向かったはずなのに、どうしてここにいるのだろう。
私とロイが顔を見合わす一方、小竜神は突然我に返ったみたいにジタバタと暴れ始める。
そのとたんである。
白い人の美しい顔から、一切の笑みが消えた。
「じっとしなよ、ケダモノの眷属。あんまりうるさいと――捻り潰しちゃうよ?」
「ぴぇ……」
私やロイや小鳥に対するものとは正反対の、それはそれは冷たく厳しく威圧的な声だった。
同じ口から発せられたとは思えないくらいのその声に、私は自分が向けられたわけでもないのに震え上がる。
小竜神もブルブル震えながら、助けを求めるみたいに私を呼んだ。
『パ、パトリシア……』
「……うん? パトリシア?」
「ぴいい!?」
「おまえ、パトリシアって名前なの?」
白い人は突然興味を無くしたみたいに、ぽいっと小竜神を投げ捨てた。
そうして、何やら感慨深げな顔をして、パトリシア、パトリシア、と繰り返しながら、ロイの背中に隠れた私を覗き込んでくる。
私は私で、得体の知れない相手に、ただもう戦々恐々としていた。
間に挟まれたロイは、私と白い人の顔を見比べて、困ったみたいにクウンと鼻を鳴らす。
その頭をよしよしと撫でながら、作りものめいた美しい顔に再び笑みを載せて白い人が言った。
「まさか、こんな日がくるなんてね。長生きはしてみるもんだ」
直後、驚くべきことが起きた。
白い人の姿が、こつ然として消えたのである。
「ぴ……?」
お座りをするロイの背中にしがみついたまま、私はキョロキョロと辺りを見回す。
そんな私を振り返り、ロイがまたクウンと鼻を鳴らした。
その時である。
『どこを見ているんだい。ぼくはここだよ』
『えっ!?』
小竜神や、竜神の生贄の名を持つ人形や絵達――そして、竜になった姉みたいに、頭の中に直接声が響いてきた。
と同時に、ロイの向こうから何かがひょいと飛び出してくる。
『わ、私……?』
私は最初、それを鏡だと思った。
なぜなら、目の前の現れたのが、今の私にそっくりの、ちんちくりんの子竜だったからだ。




