8話 サルヴェール家
アレニウス王国はもともと国土全体が起伏に富んだ地形であるが、南部は特に山がちであり、国境沿いには非常に高い山脈が連なっている。
天に向かって鋭く切り立つ断崖絶壁の岩峰群は、まさに強固な城壁のごとく、長きに渡って異国の侵攻からこの国を守ってきた。
そんな名峰の麓にある広大な森と湖、それに附属するのどかな町一帯は元々王家の直轄地であったが、先々代の国王陛下に下げ渡されて以降は件のサルヴェール家の領地となっている。
私達を乗せた汽車が終点の駅に到着したのは、王都を出発した翌日の午後のこと。
北寄りに位置する王都はもちろん、シャルベリ辺境伯領と比べても温暖な気候で、頬を撫でる風さえ温かく感じられた。
汽車から馬車に乗り換え、さらに南に向かって走ること一時間。
ようやくサルヴェール家に到着した私達がまず目にしたのは、それはそれは見事な庭園だった。
一面に黄緑色の芝生が敷き詰められた小道は、奥に見える屋敷の玄関まで続いている。
どこかに水路が設けられているのか、サラサラとささやかに水の流れる音もした。
小道の両側には色とりどりの花々が咲き誇り、垣根のように連なったグーズベリーの木では小さい真っ赤な実が鈴生りである。
そんな光景に懐かしそうな顔をするボルト軍曹に続いて、私達は庭園へと足を踏み入れた。
その最中のことである。
「あっ……」
庭園のずっと端の方に、大きな木が何本か並んで立っていた。
その下を通り過ぎる人影がふと目の端に入り、私はまるで吸い寄せられるみたいにそちらに顔を向ける。
随分離れているにもかかわらずその人の姿がはっきりと見えたのは、竜の先祖返りが所以。
体格からして男性だろうか。
背中にゆったりと流した髪は、兄様や陛下みたいな銀髪というよりは、老人のそれのように真っ白だった。
しかしながら、しゃんと伸びた姿勢は若々しく――何より、その横顔があまりに鮮烈で、私は思わず見蕩れてしまう。
それこそビスクドールみたいな、作りものめいた美しさだったからだ。
「パティ、どうかしたかい?」
「あっ……いえ、あちらに人が……」
一瞬立ち止まってしまった私の顔を閣下が覗き込む。我に返った私は、庭園の端の木立を指差したが……
「あれ……?」
さっきの男性の姿はもうどこにもなかった。
先触れもなく現れた私達に、サルヴェール家はにわかに騒然となった。
しかも閣下と少佐が軍服を纏っていたものだから、すわ抜き打ちの監査か、と玄関で出迎えた若い家令が眼鏡の下で目を白黒させたものだ。
そんな家令をやんわりと下がらせて対応に立ったのは、閣下やお姉様方と同じくらいの年頃の女性だった。
艶やかな金髪を結い上げ、華美ではないが上質そうなドレスを身に纏う、洗練された印象の美しい人だ。
客間で改めて向かい合った彼女は、奇しくも私達が探しにきた絵の女性の名前と同じ、〝マーティナ〟と名乗った。
昨年亡くなったというボルト軍曹の父親から家督を継いだ、後妻である。
「まあまあ、王都からお客様がいらっしゃるなんて、一体いつぶりでございましょうか」
「いえ、王都から参ったのは便宜上で、我々はシャルベリ辺境伯領の者です」
「あら。それはそれは、随分と遠回りをなさいましたね。こんな僻地までようこそお越しくださいました」
「ははは、僻地っぷりでしたら、うちも負けておりませんよ」
内心はどうであれ、人当りのいい笑顔を浮かべて歓迎を口にしたマーティナ・サルヴェールと、閣下は僻地の領主同士、自虐的な冗談を交わす。
客間に置かれたソファセットには、マーティナの向かいに私と閣下が横並びに座った。
少佐とボルト軍曹は、私と閣下が腰を下ろしたソファの後ろに立ち、前者の足もとにはロイがお座りをしている。小竜神は、相変わらず私の鞄の中で沈黙していた。
閣下がここで、訪問の目的――先々代の国王より当時のサルヴェール家当主が賜った絵を探していることを告げる。
とたんに、マーティナは頬に手を当てて困ったような顔をした。
「生憎、そのような絵の話に聞き覚えありませんわねぇ。亡くなった主人も、あまり芸術に明るい人ではございませんでしたので……もしかしたら屋敷のどこかに飾っている可能性もありますので、家令に聞いてみましょう」
そう言って、マーティナが最初に私達に応対した若い家令を呼び戻そうとした、その時である。
「敷地内に宝物庫があるでしょう。隠し立てはできませんよ」
私の背後から身を乗り出すようにして、突然ボルト軍曹が口を挟んだ。
そのどこか高圧的な言い草に、私は思わずぎょっとする。
もちろん、マーティナも戸惑ったような顔をした。
「ええ、確かに。うちには宝物庫がございますが……」
「そちらに絵がないか確認させていただきます。陛下からは、何としても絵を見付けてくるよう言いつけられておりますので。構いませんね?」
ボルト軍曹とその母親が王都に戻ってからサルヴェール家にやってきたらしいマーティナは、彼が亡き夫の息子だとは知らないようだ。
それこそ息子のような年齢の若者に有無を言わせぬ勢いで畳み掛けられては、顔には出さないもののいい気はしないだろう。
すかさず、閣下が間に入った。
「いきなり訪ねてきておいて不躾なお願いとは存じますが、屋敷の中に絵が飾られていなかった場合、差し支えなければその宝物庫の中も捜索させていただけませんでしょうか」
「はあ……」
「なにしろ、陛下はあの絵がほしくてほしくて夜も眠れぬとおっしゃるのです。目の下に、こうくっきりと隈をお作りになり、まるで幽霊のように青い顔をなさって」
「あらあら、まあまあ。それは一大事。我が国の存亡にかかわりますわね」
冗談めかした閣下の言葉に、マーティナがとたんにころころと笑う。
おかげで、ボルト軍曹の発言によって張り詰めかけていた場の雰囲気が一気に和んだ。
その後、マーティナは快く宝物庫の捜索に許可を出した。
場を取り成した閣下の手腕や、不躾な要求にも大らかに対応したマーティナの余裕――二人の領主のやりとりを、私は尊敬の眼差しで見つめる。
特にマーティナの理知的で洗練された姿は、同じ女性として是非とも参考にしたいものだった。
シャルベリ辺境伯夫人として早く一人前になれるよう、大人の余裕を身に着けたい――そんな思いは一層強くなる。
ところが……
「ひ、ひぇ……」
実に情けないことに、目下私は閣下の上着の裾を握ってブルブルと震えていた。
というのも、まず屋敷内に件の絵が飾られていないかを確認するためにマーティナが家令を呼んだ際、一緒に犬が入ってきてしまったからだ。
口の回りから目にかけては黒、それ以外は赤褐色の毛むくじゃら。ちょうど狩猟会の際に、狩りそっちのけで私に飛び付いてきた、アーマー中尉の愛犬とそっくりな見た目だった。
しかし、決定的に違うのは、その大きさである。
なにしろ、アーマー中尉の犬ともロイとも比べ物にならないくらいに、それはそれは巨大な犬だったのだ。
とっさにこの場から逃げ出さなかっただけ、私は自分を褒めたいと思った。
「……っ、く、パティ。かわ、かわわ……」
「閣下、こんな場面で発作をおこさないでくださいよ。シャルベリ辺境伯の沽券にかかわります」
怯える私に悶える閣下。慣れっこの少佐がすかさず釘を刺す。
閣下はこほんと咳払いして居住いを正すと、私が犬が苦手なことをマーティナに説明してくれた。
「まあまあ、ごめんなさいね。しかもこの子ったら、とんでもなく大きいんですもの。無理もありませんわ」
「こ、こちらこそ、申し訳ありません……」
「お気になさらないで。ただ、こう見えてもおとなしくていい子なんですよ? けして噛んだりはいたしませんので、どうかご安心くださいな」
「は、はい……」
マーティナは私に優しく微笑みかけながら、アイアス、と呼んで犬に手を伸ばす。
ところが、当の犬はまるで彼女の手を避けるみたいにぷいっと顔を背けると、部屋の隅へ行って寝転んでしまった。
「……いい子はいい子なんですけどね。ご覧の通り、私には全然懐いてくれなくて」
小さく肩を竦めたマーティナが、苦笑いを浮かべて続ける。
「亡くなった主人の犬ですの。なんでも、生き別れになった息子さんが拾ってきたとかで……主人は、それこそこの犬を息子さんの身代わりのようにとても可愛がっておりましたわ」
私は思わず背後に立つボルト軍曹を仰ぎ見る。
彼はぐっと唇を噛み締めていた。




