5話 王位継承権第一位の赤子
トントントン、トントントントン。
長兄が愛用のハンマーを打ち付ける音が響いている。
姉が無事竜から人間の姿に戻ったため、早速屋敷の修繕が始まったのだ。
姉に家を壊される度に決まって恨み言や泣き言を言う長兄だが、今回ばかりは心無しかハンマーの音も軽やかだった。
その律動に合わせて、私も肩に凭れかけさせた赤子の小さな背中を指先でそっとトントンする。
「けぷ」
「ふふっ」
やがて耳元で聞こえた小さなゲップに、頬がゆるゆるになるのをどうにも抑えようがなかった。
生後二日目にしてようやく母親の初乳にありついた赤子は、男の子である。
メテオリットの竜の血は女にしか遺伝しないため、彼に竜の先祖返りの兆候は見当たらない。
生後半年のルカ君と比べても、新生児の甥っ子はあまりにも小さく頼りなく見え、ますます庇護欲が掻き立てられた。
兄様譲りの銀色の髪に頬を寄せれば、ミルクみたいな、あるいはおひさまの匂いみたいな、とにかくとてもよい匂いがする。
「かわいい……」
えも言われぬ愛おしさを覚えた私は、はあと感嘆のため息を吐いた。
そうして、お腹がいっぱいになってうとうとし始めた甥をそっと抱き締める。
そんな私の両側では――
「「――とおとい」」
閣下と姉が、両手で顔を覆って天を仰いでいた。
二人とも、何だか少しばかり口調が怪しい。
「可愛い新生児と可愛いパティのこの親和性……これはもう、後世に語り継ぐべき尊さだと思わない!?」
「激しく同意します。瞬きする間も惜しんでずっと見ていたい……」
「ちょっと、リアム! ぼうっとしてないで、今すぐ絵描きを呼んでちょうだい! この光景を絵に残して我が家の家宝にするわ!!」
「すみません。うちに飾る分も一枚お願いします」
相も変わらず、私に関することではいとも容易く意気投合する閣下と姉。
一方、少佐と兄様も、まるで示し合わせたみたいに同時に肩を竦めて声を被らせた。
「「ぶれないな、この人達……」」
半壊した姉夫婦の部屋から一階のリビングに場所を移し、私は改めて甥の誕生を祝福した。
お義母様や人形達と相談して選んだ出産祝いは、実用性を重視したスタイと、赤ちゃんが一生食べ物に困らないように、あるいは魔除けの意味も込めた銀のスプーン。
それから一番喜ばれたのは、姉の妊娠が判明してからの半年余り、お義母様に教わりつつ私がこつこつ編んできた赤ちゃん用の靴である。
甥が人生で最初に履くのが自分が手作りした靴だと思うと、感慨深いものがあった。
「産声を聞いてすぐにパティに手紙を送ってしまったものだから、まさかマチルダがあんなことになるとは思っていなくてね。いやはや、パティが来てくれて本当に助かったよ」
「閣下がすぐに行こうって言ってくださったんですよ、兄様。私一人では、こんなに早く来られませんでしたもの」
出産の知らせが届いたその日のうちに生家に向かって発つなんて、すでに嫁いだ身では難しいことだ。
曲がり形にも領主の妻となったからには相応の責任があり、私情にかまけて公益を疎かにするようなことがあってはならない。
それに、辺境伯と軍司令官を兼任する閣下の毎日がどれほど多忙であるのか嫌というほど知っているから、私個人の都合で予定外に時間を取らせてしまうことも心苦しくてならなかった。
私が言外に滲ませたそんな思いを、兄様はちゃんと汲み取ってくれたらしい。
閣下の右手を取って、固く握手を交わした。
「パティを連れてきてくれてありがとう、シャルロ殿。久しぶりに妹の元気な姿を見せてもらえて、私もマチルダも嬉しいよ」
「恐れ入ります、殿下。私の方こそ、喜ばしい場面に立ち会わせていただけて光栄に存じますし――何より、パティの尊い姿を見られたのですから、我が人生に悔いなしです」
「うーん、その潔さ……いつもの事ながら感心するなぁ」
「お誉めにあずかり光栄です」
そんな和やかな閣下と兄様のやり取りに、私がほっとした時である。
ふいに横から伸びてきた姉の手が、小さい子にするように私の髪を撫でた。
「ねえ、パティ。大丈夫?」
「え? えっと、何が……?」
「あなた真面目だから、シャルベリ辺境伯夫人という立場に気負いすぎていないか心配だわ」
「……っ」
姉の言葉に、私はドキリとする。
メテオリット家は爵位こそ持たないものの、アレニウス王家の末席に連なる家の娘としてそれ相応の教育を施されてきた私には、形許りは領主の妻として振る舞えるだけの自信はある。
ただ、社交界での経験は姉に比べれば圧倒的に少ないし、王都とシャルベリ辺境伯領の習慣の違いに戸惑うことは多々あった。
シャルベリ領主の娘として生まれた責任を果たすため、我が身さえも竜神に捧げたという乙女達に比べれば、私はまだまだ自分の置かれた立場に覚悟が持てていない。
また、少佐夫妻の間にルカ君が生まれ、姉夫婦の間にも子供が生まれたことを喜ばしく思う一方で、早く自分と閣下の間にも……と、考えずにはいられなかった。爵位が世襲制の社会において、世継ぎの存在は必須だからだ。
私の中に芽生えたそんな焦りに、姉は目敏く気付いたようだ。
「領主の妻として求められることは多いかもしれないけど、いきなり全部に応えるなんて無理な話よ。ちゃんと、閣下や義理のご両親を頼らなきゃだめだからね? 一人で背負い込んじゃだめよ?」
「うん、分かってる。大丈夫だよ」
「本当にー? あなたすぐ卑屈になっちゃうから、お姉ちゃん心配だなー」
「うっ……大丈夫だってば」
昔から姉は私のことなら何でもお見通しで、隠し事ができた試しはない。
けれど、赤ちゃんを産んだばかりの彼女に余計な心配をかけたくなくて、私は自分に言い聞かせるみたいに「大丈夫」と繰り返した。
そんな中、とある人物がメテオリット家の門を叩く。
家令に案内されてリビングに現れたその人は、カツカツと軍靴を鳴らして姉夫婦の前までやってきたと思ったら、挨拶も何もかもすっ飛ばして言い放った。
「――気の立った母竜が、ようやく人間に戻ったと聞いてな。兄弟を代表して祝福しに来たぞ」
その身に纏った真っ白い軍服は、アレニウス王国軍では高官の証。
しかも彼――ライツ殿下は、兄様ことリアム殿下のすぐ上の兄であり、王国軍の最高位である大将の地位にあった。
母親譲りの銀髪で優しげな雰囲気の兄様と、父親譲りの金髪で厳しそうな顔付きのライツ殿下は、あまり似ていない。
とはいえ、父王の時代に腐敗した祖国を立て直そうとする長兄を、力を合わせて支えようとする彼らの絆は強く、アレニウス王家の兄弟仲はすこぶる良好であった。
しかしながら……
「ねえ、ライツ。私が竜になってたことも、人間に戻ったことも……あんた、いったい誰から聞いたっていうのよ」
「この家から飛んできた小鳥が、気まぐれに俺の耳に囁いていっただけさ」
「うちに間者でも忍びこませてるわけ? 炙り出して八つ裂きにしてもいい?」
「ははは……マチルダが言うと全然冗談に聞こえないなぁ」
前政権で汚職に手を染めた連中の残党はまだまだ各所で暗躍を続けており、新政権も安定したとは言い難い。
そのため、メテオリット家だけではなく、主要な家にはライツ殿下直属の諜報部員が潜入しているのも、もはや暗黙の了解となっていた。
じとりと睨み据える姉から逃げるように視線を逸らしたライツ殿下は、揺りかごで眠る赤子に目を留める。
そうして、疎らな銀髪をくすぐるように指先で梳いてから、兄様の肩をポンと叩いて言った。
「おめでとう、リアム。王位継承権第一位の赤子の誕生、俺も兄上も喜ばしく思うぞ」
「ライツ兄上……」
とたんに、兄様が渋い顔をする。
しかしながら、ライツ殿下の言葉は何も的外れなことではなかった。
というのも、陛下はまだ独身で、世継ぎとなる子供が存在しないのだ。
この場合、王位継承権第一位となるのはすぐ下の弟であるライツ殿下だが、彼は陛下に忠誠を誓うと同時に王位継承権を放棄してしまっていたし、こちらも未婚で子供はいない。
さらに、姉と結婚する際にメテオリット家に婿入りした兄様にもすでに王位を継ぐ権利はなく、数年前に友好国に嫁いだ王女殿下――兄弟の上から三番目で、兄様のすぐ上の姉――も然り。
王女殿下には子供がいるものの、異国で生まれた者はアレニウス王家の人間として数えられないことになっていた。
私と同い年の末弟ミゲル殿下は、表向きは隠居する前国王夫妻の願いで一緒に離島に移住したことになっているが、実際はシャルベリ辺境伯領を襲撃した罪により流刑に相当する扱いになっているため、当然王位継承権は剥奪されている。
前国王の弟である宰相もまた早々に玉座争いを棄権しており、結果、現在最も玉座に近いのは陛下の弟の子――生まれたばかりの姉夫婦の赤ちゃんということになるわけだ。
それが、姉夫婦、あるいは赤ちゃん本人の望むと望まざるにかかわらず、である。
初代国王の末王子と竜の間に生まれた子供から始まり、ずっと王家の末席にぶら下がっていただけのメテオリット家から――陛下にして、あろうとなかろうと困らないとまで言わしめた一族から、暫定的とはいえ次期国王の候補が出るなんて、なんと皮肉なことか。
兄様にも思うところがあるのだろう。じとりとライツ殿下を睨んで言った。
「うちの子を権力争いに巻き込まないでいただきたい」
「王家の血を引く限りは致し方あるまい。まあ、王位継承権を行使するも放棄するも、その子が成人したら自分で決めればいいことだ。そのうち陛下が結婚して王子なり王女なりが生まれるかもしれんしな」
「ライツ兄上がとっとと結婚して子供を持つ、というのも手ですよ」
「俺か? 俺はなぁ……」
どうやらライツ殿下は、結婚することも父親になることも乗り気ではなさそうだ。
兄様の提案に今度は彼の方が渋い顔をする番であったが、ふと私と目が合ったとたん、ニヤリと人の悪い笑みを浮かべる。
そうして、これ見よがしに胸を押さえて宣った。
「パトリシアに袖にされてできた心の傷がまだ癒えていなくてな。とてもじゃないが、結婚なんて考えられんなぁ」
「えっ!? み、身に覚えがありませんがっ!?」
「しかし、そうだな……パトリシアみたいな子竜の子供だったら、持ってみてもいいかもしれない」
「えええ、えっとぉ……」
思ってもみないライツ殿下の言葉に、私はただただぎょっとする。
確かに以前、閣下の長姉カミラ様が嫁いだオルコット家に関わる騒動の最中で、ライツ殿下が自分のもとに来ないかと子竜姿の私を誘ったことはあった。
とはいえ、すでに私と婚約を交わしていた閣下が拒否してくれたし、そもそも冷やかし半分の悪ふざけに過ぎないと思っていたのだ。
だからもちろん、今のライツ殿下の発言だってただの冗談だと思うのだが……
「ライツ殿下――馬に蹴られるのと私に蹴られるの、どちらをご所望ですか?」
さっと閣下に抱き寄せられたかと思ったら、そんな地を這うような声が頭上から降ってきた。
王弟、ましてや王国軍大将に対する不敬罪に問われても仕方がないような閣下の発言に、私はとたんに青くなる。
しかし、当のライツ殿下は小さく一つ肩を竦めただけで、幸い気を悪くした様子はなかった。
「どっちもご免だな。とてもじゃないが、無事では済まなさそうだ」
「左様でございますか。でしたら、滅多な事はおっしゃらない方がよろしいかと」
「……あんた、マチルダと気が合うだろう?」
「ははは、それはもう。パティのことに関しては特に」
こうして、閣下の腕の中で目を白黒させる私を置いてけぼりにして、茶番劇は幕を閉じた。
しかしながら、メテオリット家を訪れたライツ殿下の目的は、甥っ子の誕生祝いだけではなかったらしい。
「シャルベリ辺境伯夫妻には急な話ですまないが、城までご足労願おうか。兄が――国王陛下がお呼びだ」
ライツ殿下の密偵は、私や閣下が王都にやってきたことまで報告していたのだろう。
おかげで私達は思い掛けず王城に招待されることとなった。




