4話 たった一人のお母さん
メテオリット家は三階建てで、最上階の南向きの角部屋が代々当主の部屋となっている。
王都の駅から馬車に乗り換え、おおよそ半時間。
私と閣下と少佐、そしてロイと小竜神が到着した時、その姉夫婦の部屋は、特にひどい有り様だった。
まるで大砲でも撃ち込まれたのかと思うほど、大きな穴の開いた窓。
へしゃげた扉に、崩れ落ちた壁。
半年前――ハリス国王陛下の戴冠式のために私達が王都を訪れた折りにもリビングや姉夫婦の部屋が壊れたが、大工を生業とする長兄によってすぐさま修繕されたはずだったのに。
「どうして、こんなことに……?」
「――パティ、危ない」
辛うじて蝶番で引っかかっていた扉が、ついに力尽きたように外れて倒れてくる。
とっさに閣下の腕の中に庇われて事無きを得たが、それにしても目の前の惨状には戸惑うばかりであった。
メテオリット家に到着して最初に出会したのは、大工道具を抱えた通りすがりの長兄だった。
長兄は、私達が先触れもないまま訪ねてきたことに驚いた様子だったが、すぐさま光明を得たりという顔をしたかと思ったら、挨拶もそこそこに三階まで引っ張ってきたのだ。
そんな姉夫婦の部屋の隅には、窓から差し込む日の光を避けるようにして、こんもりと大きく黒い影が丸まっていた。
私はゴクリと唾を呑み込んでから、おそるおそる影に向かって声をかける。
「お、お姉ちゃん……?」
『……パティ?』
のそりと顔を上げたのは漆黒のビロードを纏ったような美しい竜――私の姉、マチルダ・メテオリットだった。
「おや、パティ。シャルロ殿も。よく来てくれたね」
一方、部屋の惨状に不釣合いな満面の笑みを浮かべて私達を歓迎してくれたのは、姉の夫であるアレニウス王国軍の参謀長リアム殿下――兄様だ。
私は閣下と顔を見合わせてから、兄様に向き直った。
「兄様、これ……一体何があったんですか?」
「いやなに、お産が長引いてね。混乱と恐慌を極めたマチルダが竜化して、一暴れしたんだよ」
「えええっ……あ、兄様、お怪我は……?」
「ふふ、心配してくれてありがとう。大丈夫、もう治ったよ」
兄様は、怪我はない、とは答えなかった。
始祖の再来と謳われる姉の眷属となったおかげで、傷の治りこそ竜の先祖返り並みに早いものの、陣痛に苦しみ暴れる姉を抑えるのに無傷ではいられなかったのだろう。
それでもこうやって何事もなかったかのように振る舞える兄様の器の大きさには、私は改めて頭が下がる思いだった。
そんな彼の白い軍服に包まれた腕には、同じく真っ白いおくるみに包まれた小さな命が抱かれている。
生まれて間もない、姉と兄様の赤ちゃんだ。
まるい頭にまばらに生えた髪も長い睫毛も、兄様譲りの銀色である。今は閉ざされた瞼の下の瞳は、どんな色をしているのだろうか。
私は今すぐにでも甥っ子を抱き締めたい衝動に駆られたが、ふと、閣下が口にしたことで我に返った。
「それで、殿下。姉君はどうして竜の姿のままでいらっしゃるのでしょうか?」
「そう、それなんだけど。実はマチルダ、人間に戻れなくなったらしいんだよね」
「えっ!? も、戻れない!?」
兄様の言葉にぎょっとした私は、再び閣下と顔を見合わせる。
私や姉のようなメテオリット家の先祖返り達が竜の姿になるのは生存本能によるものだ。
命の危険を覚えて危機回避能力が働くために、人間と比べてより頑丈で強靭な竜になるのである。
しかしながら、姉のような優秀な先祖返りは精神力が強く、自分自身をコントロールすることで、人間にも竜にも自在に変化することができる。
著しく心が乱れている時などはこの限りではないが、そういう場合は真実好いた相手――姉の場合は兄様とキスすることで心拍数を落ち着かせて人間の姿に戻ることができる、はずだった。
ところが……
「今回ばかりは、私がキスをしてもだめだった。どうやら、出産時の興奮がいまだ収まらないらしく、心拍数が上昇したまま下りてこないみたいだ」
「そ、そんな……どうしたら……」
部屋の隅に丸まってズーンと落ち込む姉とほとほと困った様子の兄様、それから兄様の腕の中ですやすや眠る甥っ子を見比べて、私はひたすらおろおろとする。
そんな中でふいに頭の中に響いてきたのは、姉のものとは思えないほど弱々しい声だった。
『こんな姿じゃ、赤ちゃんにお乳もあげられない……』
出産中に竜化してしまった姉の代わりに、ちょうど子供が乳離れしたばかりだったメイドの一人が乳母役を務めてくれているらしい。
とはいえ、赤ちゃんにとって大切な成分の入った初乳は、いまだ与えられていない。
それに苦悩する姉の気持ちは、出産経験のない私でも痛いほど分かった。
『こんな尖った爪では……きっと、赤ちゃんを傷付けてしまう……』
鋭い鉤爪を備えた両の手を見下ろし、姉が絶望したよう呟く。
落ちこぼれ子竜の私から見れば羨ましいばかりの立派な竜の身体も、今の彼女にとっては忌まわしいものだった。
『わたし……わたし、おかあさん失格だわ……!』
「お姉ちゃん!」
ついには、金色の瞳からぽとぽとと涙を零す姉を目の当たりにし、私は居ても立ってもいられなくなる。
私は閣下の腕の中から抜け出して姉の側に駆け寄ると、その竜の身体にしがみついて叫んだ。
「大丈夫! お姉ちゃんは、竜になったって私のことを一度だって傷付けたことないじゃない!」
『で、でも……でもぉ……』
「竜でも人間でも、お姉ちゃんは私のお姉ちゃんだよ! 赤ちゃんにとって、お姉ちゃんがたった一人のお母さんだよっ!!」
『パ、パティ~~~!!』
たちまち私を抱き返した姉が、わんわんと泣き始める。
姉の感情の昂りは衝撃波となって、屋敷全体をビリビリと震わせた。
大きく穴を開けていた窓ガラスの残骸が、パリン、パリンと音を立てて砕け散り、その破片が私と姉の上に降り注ぐ。
幸い、すかさず駆け寄ってきた閣下が外套を広げて防いでくれたおかげで、傷一つ負わなかった。
私はほっとすると、赤ちゃんを抱いた兄様を呼ぶ。
「兄様、赤ちゃんをお預かりしていいですか?」
「もちろんだよ」
初めて抱っこした甥は、柔らかくて温かくて、それこそ真綿のように軽かった。
ぐっと胸に突き上げるようなこの愛おしさを、彼を産んだ姉にも一刻も早く味わわせてやりたい。
私はその一心で、甥を左腕で抱えると、右手で姉の竜の手を掴んだ。
とたんに、びくりと震えて引っ込もうとするそれを、私は必死に離すまいとする。
そうして、怯えたみたいに揺れる金色の瞳を見据えて言った。
「ほら、お姉ちゃん、大丈夫。怖くないよ。私と一緒に抱っこしよう?」
『うう……ぱてぃ……』
先ほどガラスの破片から私達を庇ってくれた閣下は、情緒不安定になっている姉を刺激しないようにか、一歩後ろに引いて成り行きを見守っている。
その優しい眼差しに背中を押されるようにして、私は緊張して強張る姉の竜の腕に、そっと赤ちゃんを抱かせた。
本能的に母親の気配が分かるのだろうか。それまでじっとしていた甥が、小さな手をむずむずと動かし始める。
「ふふ、可愛い。すごく可愛いねぇ、お姉ちゃん」
『う、うん……うんっ』
「ねえ、見て。お母さんに抱っこしてもらって、赤ちゃんも嬉しそう」
『うんっ……!!』
姉の金色の瞳から、再びぽろぽろと涙が零れ出す。
けれどもそれは、さっきみたいな悲しみの涙ではなく、喜びの涙だった。
なおもむずむずと動いていた甥の小さな手が、ふいに姉の竜の指をきゅっと握り締める。
その時だった。
「……あっはは……もー、おチビのくせに力強いなぁ」
姉の竜の輪郭がみるみるうちに解け、あっさりと人間の姿に戻ったのである。
「思い出した。生まれたばかりのパティもこんな感じだったわ。懐かしい……」
「お姉ちゃん! よかった……!!」
出産後二日経ってようやく我が子を抱っこできた姉は、人間の姿に戻ってもまだぽろぽろと涙を零していた。
そんな姉の素肌に、兄様はすぐさま脱いだ軍服の上着を羽織らせる。
そうして無言のまま、赤ちゃんごとぎゅっと姉を抱き締めた。
出産という大仕事を乗り越えた夫婦の間に、言葉はいらなかった。
せっかくの水入らずを邪魔すまいと、私はそっと彼らから距離をとる。
その時ふと、これまでずっと一緒にいた姉一家の輪から抜け出たことに、かすかに寂しさを覚えるも……
「おいで。パティは、こっちだよ」
すかさず閣下が両腕の中に包み込んでくれたおかげで、そんなものは一瞬で飛散した。
自分は本当にお嫁に行ったんだなあと、改めて感じた瞬間だった。
「めでたしめでたし、ですよね? それじゃあ、言っちゃっていいですよね?」
「わんっ!」
「ご出産おめでとうございますー!!」
「わわんっ!!」
しんみりとした空気の中、少佐の声と合いの手を入れるようなロイの吠え声が明るく響く。
とたんに、半壊した室内がどっと笑いに包まれた。




