7話 目から鱗
――ずっとだっこしていたいくらい、可愛いね
子竜のみならず、人間の私まで持ち出して、閣下はそう宣った。
思わずポカンと口を開いて見上げた閣下の顔は、私がこの一週間で知った彼と本当に同一人物なのかと疑いたくなるくらい緩んでいる。
そりゃあもう、デレデレ――いや、デッレデレ! だ!
例えるなら、初孫をあやしている時のうちの父みたいな表情である。
私はとにかく、閣下のデレっぷりに唖然とするばかり。
そんな中、気を取り直すみたいにこほんと一つ咳払いをしてから口を開いたのは少佐だった。
「ええっとですね、閣下。私の目から見て、パトリシア嬢は間違いなく可愛らしいお嬢さんだと思いますが……閣下もそういう認識だったってことでいいです?」
「その通りだが? だってほら、あの子可愛いだろう?」
少佐の問いに対する閣下の答えを、我に返った私は思いっきり訝しんだ。
というのも、最悪の初対面から一週間経ってもまだ、私と閣下が打ち解ける気配はなく、朝夕一緒に食卓を囲んでいても親交が深められる気がまったくしていなかったからだ。
そもそも、閣下は私に――パトリシア・メテオリットになんて興味がないのだろうと思っていた。
それなのに、いきなり〝可愛い〟なんて言われたって、喜びよりも戸惑いの方が勝る。
すると、同じように感じていたらしい少佐が、またしても私の気持ちを代弁してくれた。
「だって閣下、パトリシア嬢と全然関わろうとなさらないじゃないですか。てっきり、閣下は彼女を避けておられるんだとばかり思っていました」
「パトリシア嬢と接する機会がほとんどなかったのは事実だが、単にそれは私が多忙を極めていたせいであって、彼女を蔑ろにする意図はないよ。そもそも、私の予定を把握しているお前なら、私がこの一週間、客人をもてなしている余裕なんてなかったと、よくよく知っているだろうが」
「あー……そういえば、そうでしたね。ただでさえ、閣下が辺境伯位の引き継ぎ業務でバタバタしているところに、来月行われる即位式の警備に出す部隊の編成だの、王都から届いた怪文書への対応だのと、変則的な業務が舞い込みましたもんねー」
「そこに加えて想定外だったのが、竜神の神殿の改修工事だ。そのせいで、パトリシア嬢を迎えた初日の夜だって、私は商工会長との会談という名の飲み会に長々と付き合わされるはめになったんだからな」
閣下と少佐の会話を聞いて、私は目から鱗が落ちるようだった。
これまで、私が閣下と朝夕の食事の時間しか顔を合わせられなかったのには、退っ引きならない事情があったらしい。
私自身、彼と親交を深めるのは早々に諦めてしまっていたし、シャルベリ辺境伯邸に留まっているのだって旦那様と奥様に請われたからだ。
それなのに、実は閣下に嫌われていたわけでも避けられていたわけでもなかったと知って、この時不思議とほっとした。
ところがここで、少佐が思いもかけない台詞を口にする。
「パトリシア嬢がお気に召したのでしたら、彼女の叔父上の提案に乗っかってサクッと結婚しちゃえばいいじゃないですか」
とたんに、私の心臓がドキリと高鳴った。
私をだっこしていた閣下にもそれは伝わったらしく、よしよしと大きな手で背中を撫でられる。
しかし、優しい手とは裏腹に、彼の口は淡々と答えを吐き出した。
「――いや、それは無理だろう」
私はひゅっと息を呑む。
どうしてですか、とすかさず少佐が問うた。
閣下は私の強張った背中をゆったりと撫でながら、ため息まじりに口を開く。
「あのなぁ、モリス。彼女はまだ十七歳だぞ? 私との年の差を計算してみろ。二十歳のロイとなら釣り合うかもしれないが……私には、少々若過ぎる」
「閣下との年の差っていうと……えーっと、十三歳? いや、全然許容範囲じゃないです!? いいじゃないですか、幼妻。男冥利に尽きるでしょ!!」
「お前……今の台詞、身重の細君の前で言えるもんなら言ってみろ」
「あっ、どーもすみませんでした!!」
主従の砕けたやり取りを、私はただ黙って聞いていた。
おかげで、少佐が既婚者で、しかも奥様が妊娠中だという情報を得る。
そんな少佐と会話をしながら執務机の前に座った閣下は、子竜姿の私を膝の上に座らせると、達観したみたいな声で続けた。
「パトリシア嬢のことは、純粋に可愛らしいと思っているよ。下心のない、言うなれば兄のような心境でね。父も母も随分と気に入っているようだし、彼女さえよければ、是非とも叔父上が戻るまでシャルベリでゆっくりして行ってもらいたいね」
閣下は現在三十歳。
上の兄と同い年なので、私としても年齢だけ見れば彼を兄のような存在と思えないこともない。
ただし、実の兄がすでに二人もいるというのに、今更他人に兄を求める必要性はこれっぽっちも感じなかった。
それなのに、閣下は私を妹のようにしか思えない――つまり、結婚対象としては見られないと言う。
彼にはやはり、私と縁談を組み直す気はないようだ。
そのくせ、私がシャルベリ辺境伯邸に滞在することは歓迎してくれるらしい。
がっかりしたような、けれどもほっとしたような。
相反する思いが同時に涌き上がってきて、私は表情が分りにくい子竜姿でありながらぎゅっと眉間に皺を寄せた。
「――さて、パトリシア嬢は父と母に任せておくとして、私は君のお世話をしないとね?」
そうこうしている内に、閣下が執務机の引き出しから何かを取り出した。
とたん、私はぎょっとする。
閣下が満面の笑みを浮かべて右手に握ったのは、ニッパー型の爪切りだった。
どうやら彼は私の爪を切るつもりらしい。
よちよち、いい子でちゅねーと猫撫で声であやしながら、背中から抱き込むみたいにして左の前足を掴んだ。
さっきロイの吠え声に驚いてしがみついた際、閣下の軍服の襟に引っ掛かってしまったことから、私の爪の先が尖っているのに気付いたのだろう。
しかし、パチン、と爪を切る音が響いたとたん――
「ぴいっ……!!」
私は甲高い悲鳴とともに、閣下の膝の上で飛び上がった。
「んん? パティ? どうした!?」
「あー、閣下!! それ、絶対切り過ぎですってー!! あーあ、かわいそうに。血が出ちゃってるじゃないですか……」
子竜化した私の爪は、猫のそれと似たような構造をしている。
根元近くには血管と神経が通っているため、あまりがっつり切られると血が出るし、なにより肉を断たれるくらいに痛いのだ。
閣下はそれを知らなかったのだろうが、こちらとしては堪ったもんじゃない。
左の人差し指を深爪にされ、私は痛みから逃れようとがむしゃらに身を捩った。
閣下の腕を振り払い、彼の膝から床へと転がり落ちる。絨毯がクッションの役目を果たしてくれたおかげで大した衝撃はなかったが、左前足を庇うように身を丸めていたせいで、私の身体はボールみたいにぽよんと跳ねた。
そのまま執務机の下を潜り、床の上をコロコロと転がっていく。
「パティ、すまない! すぐに手当てするっ……」
「わわわっ、待て待て待てー」
椅子を倒さんばかりの勢いで立ち上がった閣下が、慌てて駆け寄ってこようとするのが見えた。
執務机の側に立っていた少佐も、足もとを転がっていく子竜ボールを拾おうと手を伸ばしてくる。
ところが、二人の手が届く前に、私の身体は二本の柱の間に挟まる形で止まった。
とはいえ、こんな部屋のまっただ中に、小さな私が挟まるくらいの間隔で柱が立っているなんて不自然だ。
痛む左前足を庇いつつ、恐る恐る顔を上げれば……
「ぴっ!?」
至近距離から私を見下ろしていたのは、真っ黒い犬の円らな瞳。
私は、行儀よくお座りして待機していた犬のロイの前足の間に挟まって止まったのだった。
ぴきりと固まった私の顔を、ロイの長い舌がベロリと舐め上げる。
その瞬間、恐怖は限界突破した。
逃げ出したい一心の私の目が捉えたのは、雲一つない青空が覗く窓の向こう。
無我夢中でロイの前足の間から抜け出し、一目散に走った。
といっても、短い足ではさほど早くは走れなかったが、まさか翼のない子竜が窓から飛び出ようとするとは誰も思わなかったのだろう。
「――パティ!? ま、待って!!」
「えっ、ちょっ……ロイ! その子を止めろっ!!」
閣下と少佐が私の意図に気付いて止めようとするが、時すでに遅し。
「あ、危ないっ!! ここは三階だぞっ……!!」
閣下の悲鳴みたいな声が聞こえた時には、私はもう窓枠を蹴って外へと飛び出してしまっていた。
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結果から言うと、私は深爪以上の傷を負わずに済んだ。
私の事情を把握している旦那様と奥様のもとに戻ることができ、またもやお二人の私室で一晩匿ってもらった。
そして、無事人間の姿に戻ることができた翌朝。朝食が並んだテーブルを囲んでのことである。
「急に姿が見えなくなったかと思ったら、子竜になって空から降ってくるとは……パティにはまったく、驚かされてばかりだな」
「あら、私はまた子竜のパティをだっこできて嬉しかったわ」
「お、お騒がせして、すみませんでした……」
苦笑いを浮かべる旦那様と、満面の笑みの奥様の向いの席で、面目次第も無い私はひたすら縮こまる。
とはいえ、無謀にも三階の窓から飛び出した昨日の私を救ったのは、旦那様でも奥様でもなかった。
ちらりと横を向けば、ぱちくりしながら私を見つめる眼差しと至近距離でぶつかる。
「……」
青空みたいなその虹彩には見覚えがあった。閣下の瞳と同じ色だ。
けれども今、私の側にいるのは、閣下でも――そもそも、人間でさえなかった。
虹色に輝く鱗でびっしりと覆われた長い胴体。体長は一般的な成人男性の身長ほどで、太さもその太腿くらいある。
そんなものが、私の身体に添うようにゆったりと巻き付き、左の肩に背後から顎を載せていた。
昨日、庭園の中を歩いている最中に遭遇した、あの竜だ。
偶然なのか、それとも待ち構えていたのかは分からないが、とにかく軍の施設三階の窓から飛び出した子竜の私を地面に激突する前にキャッチしてくれたのは、この竜神の石像にそっくりな竜だった。
竜は、状況が飲み込めずに固まる子竜を背に乗せたまま庭園へと戻り、いきなり姿を消した私を探してくれていた旦那様のもとまで届けてくれたのだ。
ところが、旦那様には突然私が空から降ってきたように見えたという。
というのも……
「あのぅ……旦那様と奥様には、本当にこの竜の姿が見えていらっしゃらないんですか? お二人揃って、私をからかっているとかじゃなくて?」
「うむ。残念だが、我々の目には映っていないな」
「パティが羨ましいわあ。私も、竜神様が見たーい」
初めて遭遇した際に旦那様が無反応だったことからある程度は予測していたが、どうやらこの竜神らしき竜、私以外の人間の目に映らないらしい。
竜神の眷属の血を引く旦那様には辛うじて気配は感じられるものの、姿形はまったく見えていないという。
そもそも何故いきなり昨日になって、竜神は姿を現したのだろうか。
私のそんな疑問に、旦那様は昨日の午前中に竜神の石像をシャルベリ辺境伯邸の敷地内に移動させたことが関係しているのでは、と推測を口にした。
「近くにまったく別種の竜の血を引くパティがいたものだから、じっとしていられなくなったんじゃないか」
「えええ……りゅ、竜神様の縄張りを侵してしまった私が、排除されるって可能性は……」
「排除するつもりなら、とっくにパティはシャルベリにいないだろう。あいにく私には竜神の姿は見えないが、少なくとも何かに憤っている気配は感じられないな。空だって、あの通りの快晴だ」
「それなら、いいんですけど……」
シャルベリ辺境伯領の竜神は天気を司るとされており、その感情は空模様に直結すると考えられている。
竜神が怒れば雷鳴が轟き、嘆けば冷たい雨が降るのだという。
今朝は昨日に引き続き、雲一つない一面の青空が広がっていることから、竜神の心もまた凪いでいると推測できるわけだ。
それを裏付けるかのように、件の竜神は私の左肩に頭を預けてうとうととし始めていた。
シャルベリ辺境伯領の竜神という存在自体については、私は今もまだ恐ろしく感じている。
とはいえ伝承上では、とぐろをまけば空全体を覆ってしまうほど大きいと語られているものが、今みたいに人間とそう変わらない大きさで現れ、自分の肩の上で居眠りをしているのかと思うと自然と警戒も緩む。
そのサイズ感の理由は、件の石像を介して姿を表しているからではないか、というのが旦那様の見解だ。
確かに、言い伝え通りの巨大な身体では、シャルベリ辺境伯邸の敷地内は動きにくかろう。
私がメテオリットの子竜なら、今の彼――シャルベリ辺境伯領の竜神は女性を娶ったことから陽神であると考えられている――はシャルベリの小竜神だ。はっきり言って、お互い竜らしい威厳はない。
何より、昨日助けてもらったこともあり、私はこの小竜神に対して少なからず親近感を覚え始めていた。
「――おはようございます。遅れて申し訳ありません」
そんな中、今朝は一人遅れて朝食の席に現れたのは閣下だった。
どこか疲れたように見えるのは、もしかしてもしかしなくても、子竜の私が窓から飛び降りたせいだろうか。
昨日は閣下と少佐が犬のロイを伴い、暗くなるまで必死に何かを探している様子だったと旦那様から聞いている。
何だか申し訳ない気持ちになって私が俯いていると、席についた閣下がふと声をかけてきた。
「パトリシア嬢、熱はもう下がったのかい?」
「あ、はい……おかげさまで……」
昨夜私が夕食に参加しない理由は、微熱があるため部屋で休んでいる、と閣下には説明されたらしい。
実際は、子竜の状態のままだったから引き蘢っていただけで至って元気。強いて言えば、閣下に切られた爪が痛かったくらいだ。
しかし、そんなこととは知らない閣下が続ける。
「慣れない環境に置かれて疲れが出たのかもしれないね。どうか、無理をしないように」
「はい、お気遣いいただきありがとうございます」
昨日まで白々しく感じていた閣下の声が、何だか今朝は殊更優しく聞こえたのは、昨日素の彼を見てしまったせいだろうか。
端整な面をデレデレに緩ませて、ひたすら私を可愛いと言ってくれていたのだ。
それを思い出すと、今更ながら頬が熱くなってしまう。
私は赤くなった顔を見られまいと、深爪した左の人差し指を握り込んでますます俯いた。