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2話 溢れ者同士の夫婦



 カーテンの隙間から差し込む朝日に瞼をくすぐられ、ゆるゆると目を開く。

 とたんに、息がかかるほどの距離にあった端正な寝顔に、私は小さく鼓動を跳ねさせた。


「閣下……」


 縁談の相手に同棲中の恋人がいた私。

 そして、縁談の相手が別の男と駆け落ちしてしまった閣下。

 紆余曲折の末に夫婦となった溢れ者同士の私達は、結婚式を挙げた日の夜に初めて枕を交わして以来、毎晩同じベッドで眠るようになっていた。

 閣下の逞しい腕が、私を抱き寄せるみたいに背中に回っている。

 素肌の上にさらりとした絹の寝衣を纏っているが、実のところ閣下にそれを脱がされた覚えはあっても、自力で着直した記憶がない。

 というのも、未熟者の私は夜毎与えられる愛情を受け止めるのに精一杯で、その余韻に浸る間もなくいつも寝落ちしてしまうからだ。

 そういうわけで、私はいまだに閣下が眠りに落ちる瞬間を目にしたことがない。

 代わりに、こうして運良く先に目覚めた朝は、彼の寝顔をこっそりと眺めるのが密かな楽しみとなっていた。


「ふふ、かわいい……」


 私は小さく笑って、瞼に掛かってくすぐったそうな閣下の髪をそっと避ける。

 ずっと年上の男の人だというのに無防備な寝顔はどこか幼げで、えも言われぬ愛おしさを覚えた。

 いつも真っ直ぐに私の姿も心も捕らえてしまう空色の瞳は、今は瞼の下に隠されている。

 目が合うと無性にドキドキしてしまうため、夫婦となってもなお、こんな時にしか閣下を見つめられない私はとんだ意気地なしだ。

 けれども少しだけ勇気を出して、いつも自分がしてもらうみたいに彼の頬に唇を寄せた時である。


「――ひうっ!?」


 ふと視線を感じて顔を上げた私は、とっさに両手で口を抑えて悲鳴を押し殺した。

 心臓が、あわや子竜に、というくらいにバクバクと激しく脈打つ。

 そんな私の驚き顔を映すのは、竜神の鱗みたいに虹色に輝く大きな瞳。

 それが三対、瞬きもせずに、私と閣下を枕元から覗き込んでいたのだ。


『『『ごきげんよう、パトリシア』』』

「ひえ……ご、ごきげんよう……?」


 愛らしい少女のような声ーーただし、竜に変化した姉や小竜神のように頭の中に直接響いてくる声が三つ、重なって聞こえる。

 私と閣下の枕元に並んでいたのは、まるで生きているみたいに見える精巧な人形――三体のビスクドールだった。

 ふんだんにフリルが使われたお揃いの衣装を纏い、大きさは子竜になった時の私くらい。

 閣下やお姉様達のそれとよく似た艶やかな黒髪で、ふっくらとした頬はピンク色。

 薄い唇に愛らしい微笑みを湛えた、全く同じ顔の人形達の名前は、シャルロッテ、シャルロッタ、シャルロットという。

 それは、かつて雨乞いのために竜神に捧げられた二人目、三人目、四人目の生贄の名前だった。

 元々は、閣下の三人のお姉様達が幼い頃に遊んだーー実際はそれを使って〝閣下で〟遊んだ人形である。ところが、小竜神が物に憑依して自由の動けるようになったのと時を同じくして、こうして生きているみたいに振る舞うようになっていた。

 そんな人形達は、困惑する私の隣でまだ瞼を閉じている閣下に向き直ると、それぞれに口を開く。


『ちょっとー、シャルロ。あなた、いつまで寝たふりするつもりかしら?』

「……っ」

『自分が眠っていると思い込んだパトリシアが、普段よりちょっと大胆に触れてくるのを楽しんでいるんでしょう?』

「……」

『あなたが起きると、この子ったら恥ずかしがってすぐにベッドから逃げちゃうものねえ』

「……」


 人形達はそれぞれのちっちゃな手で、閣下の頭を容赦なくバシバシと叩きながら言う。


「えっと……寝たふりって……?」


 思ってもみない彼女達の言葉に、私が目を丸くした時だった。

 背中に回っていた逞しい腕に力がこもると同時に、それまで閉じていた閣下の両目がぱっと開く。

 そうして、ぎょっとする私を抱いて起き上がったかと思ったら、枕元に居並ぶ人形達を睨んで吼えた。

 

「くそっ……お前達、よくも邪魔をしてくれたな! せっかく、パティが! この恥ずかしがり屋さんのパティが! 自ら私のほっぺにチューしてくれるところだったというのに!!」

『『『やあね、いやらしい男』』』

「は? パティは私の奥さんだが? 可愛い可愛い奥さんからのキスを心待ちにするのの、どこがいやらしい!? むしろ、問答無用で襲いかからなかった私を褒めるべきでは!?」

『『『朝から何言ってるのよ、このケダモノ』』』


 起き抜けから血気盛んに人形達とやり合う閣下。

 一方私は、自分が彼の頬にキスしようとしていたことを思い出し、みるみると顔を赤らめるのだった。


「か、閣下……寝たふりって……」

「あああ……ご、ごめんよ、パティ! 君を騙したかったわけじゃないんだ! パティから触れてくれるのが嬉し過ぎて、目を開けるのが惜しかったというか……」


 首まで真っ赤になった私に気づいて、閣下がワタワタと慌てる。

 そんな私達を微笑ましげに眺めながら人形達が続けた言葉にーー


『相変わらず、初々しい夫婦だわねぇ』

『そのくせ……ねえ、お二人さん?』

『昨夜は、随分とお楽しみだったじゃないの?』

「ふえっ!?」


 それに対して、胸を張って大きく頷く閣下の言葉にーー


「一体いつからこの部屋に忍び込んでいたんだか。しかしまあ、昨夜も楽しんだことは否定しないがな!」

「ふわっ!?」


 私の全身は、ついに隈なく真っ赤に染まるのだった。




 *******




 領主の主な役目は、領土や領民の統治および管理を行うことである。

 領主は、領内で起こった犯罪に対する裁判権、公共の秩序を維持するための警察権、また領民から税を徴収する徴税権などといった権限を有する代わりに、領民の命や財産を保護する義務があった。

 一方領主の妻にも、城の家政全般を取り仕切ったり、領地を訪れた客人を接待したり、夫の留守に代理を務めたり、と様々な役目があるばかりか、お茶会やサロンを開くなどといった文化的な貢献も求められる。

 さらに、爵位が世襲制の社会において、領主の妻の最も大事な仕事とされるのは、世継ぎを産むことだった。

 そんな領主の妻となって五ヶ月が経とうとしている私は、ゆっくりとソファに腰を下ろすと、肩に凭れかけさせた赤子の小さな背中をトントンと軽く叩く。

 

「げぷっ」

「ふふっ」


 とたんに耳元で聞こえた盛大なゲップに、私は思わず噴き出していた。

 生後六ヶ月。閣下がシャルベリ辺境伯位を継いだのと同じ日に産声を上げた赤子だ。

 父親譲りの焦げ茶色の髪は生まれた時よりもずっと生え揃い、ぱっちりとした瞳は母親譲りの緑色。

 むちむちの小さな手が私の肩に乗っかっていたピンク色の子竜のぬいぐるみをぎゅっと握ると、『うっ』と呻き声が上がった。

 手触りのいい綿の衣服に包まれた赤子の身体は柔らかくて温かく、ミルクみたいな、あるいはおひさまの匂いみたいな、とにかくとてもよい匂いがする。


「かわいい……」


 えも言われぬ愛おしさを覚えた私は、はあと感嘆のため息を吐いた。

 そうして、お腹がいっぱいになってうとうとし始めた赤子をそっと抱き締める。

 そんな私の向かいのソファでは――


「――とおとい」


 閣下が両手で顔を覆って天を仰いでいた。

 何だか少しばかり口調が怪しい。


「見てみろ、モリス! 可愛い赤ん坊と可愛いパティのこの親和性……尊いが過ぎる……! 仕事なんてやってる場合じゃないんじゃないか?」

「いや、ちゃんと仕事してくださいって。こちとら子連れで残業するわけにはいかないんで、意地でも定時に帰りますからね?」


 お馴染み、軍の施設三階にあるシャルベリ辺境伯軍司令官の執務室。

 その部屋の主である閣下は、ぷーぷーと寝息を立て始めた赤子を起こさないよう声を抑えつつも、興奮は抑えられない様子である。

 その前に容赦なく書類の山を築いたモリス少佐の髪は焦げ茶色。私の腕の中ですっかり寝入った赤子ルカリオ・トロイア――ルカ君と同じ色をしていた。

 第一子であるルカ君が生後二ヶ月を過ぎた頃から、少佐は度々彼を連れて軍の施設に出勤してくるようになっていた。

 少佐夫人はたいそう売れっ子の刺繍作家だそうで、彼女の仕事が立て込んでいる日などは集中できるように子守りを分担しているのだ。

 トロイア家はシャルベリ辺境伯家に次ぐと言われる名家で、少佐の父親であるトロイア卿は乳母を雇おうと提案したらしい。しかし、その際少佐夫人が出産後も仕事を続けることを咎めたため、少佐が強く反発。

 夫人の両親は遠方に住んでいることから、夫婦二人だけでルカ君の面倒を見ることに決めたそうだ。

 そんな事情を聞かされた閣下は当初、少佐に育児のための休暇を取るよう勧めたのだが……


「はぁあ!? 私が休んでしまったら、他に誰が閣下の面倒を見るっていうんですか!?」

「いや、自分の面倒くらい自分で……」

「そういう台詞は、決済期限の迫った書類を溜めなくなってから言ってもらえますぅう!?」

「御意」


 そんなこんなで、赤子を抱いて出勤する少佐の姿は、軍の施設では当たり前になってきていた。

 もちろん、閣下の腹心である少佐は多忙なため、時には私やお義母様、出産経験のあるシャルベリ辺境伯邸のメイドなどがルカ君を預かることもある。

 そんな中、ルカ君が軍の施設で過ごすに当たり、最も重要な役割を担う者がいた。


「閣下と少佐は相変わらずですねー」


 そう苦笑いを浮かべながら、すやすやと眠るルカ君を抱いた私の隣に腰を下ろしたのは、閣下や少佐と同じシャルベリ辺境伯軍の黒い軍服を纏った女性だった。

 年は、閣下と同じくらいだろうか。長い亜麻色の髪を後ろできっちりと一つに結んだ、キリリとした印象の女性軍人である。

 彼女に気付いた少佐は、慌てて姿勢を正して口を開いた。

 

「アーマー中佐! 本日もありがとうございました!」

「いいえ、こちらこそお役に立てて嬉しいわ」


 アーマー中佐は、先日の狩猟の際に私に飛び付いてきた大きな犬の飼い主、アーマー中尉の奥さんである。

 息子が一歳を待たずに急に卒乳してしまってお乳が張って悩んでいたこともあり、ルカ君が軍の施設で過ごす日の授乳を請け負ってくれているのだ。

 生後六ヶ月の赤ちゃんは一日にだいたい五回から六回授乳が行われるが、中佐はそのうち勤務時間内の午前と午後の一回ずつを担当するため、日に二回、軍司令官執務室の隣の部屋――元々は副官の執務室だが、少佐は閣下を見張るのに忙しくてこれまでほぼ使っていなかった――に足を運んでいた。

 もちろん、彼女には軍から相応の手当てが支給されることになっている。

 中佐はすやすや眠るルカ君の頬――ではなく、何故か私の頬をなでなでしながらほくほくと笑って言った。


「お乳の張りも解消されるしー、臨時収入ももらえるしー、良いこと尽くしだわー」

「おい、中佐。さりげなくパティをお触りしないでくれ」

「だって、閣下。パトリシア様が可愛いんですものー」

「それには激しく同意する」


 中佐は三人の男の子の母親だという。上の二人はすでに学校に通う年齢だが、一歳になったばかりの三男は夫である中尉の両親が預かってくれているらしい。

 一方で中佐自身の父親は、トロイア卿と同様に女性が結婚後も仕事を続けることに良い顔をしないのだとか。

 女性の社会進出が進みつつある昨今、その性質上男性中心の職場であった王国軍やシャルベリ辺境伯軍にも女性の割合が増えてきている。

 中佐はそんな中でも大出世した女性の一人で、シャルベリ辺境伯軍の女性軍人にとっても目標となる存在だった。

 しかしながら、〝女は男を立てて家庭を守るもの〟といった保守的な考えの人間もいまだ少なくはなく、女性達の活躍を阻もうとする陋習もまだまだ根強い。

 竜の血が女性のみに遺伝することから、男性よりも女性の立場が強いメテオリット家で生まれ育った私からは、性差の不平等がより顕著に見えた。

 そんな逆風にも打ち勝って今の地位を得た中佐だが、今度は私の髪を撫でながらふと悩ましげなため息を吐く。

 どうかしたのかと首を傾げれば、彼女は苦笑いを浮かべて続けた。


「いえね、パトリシア様を見ていると末の妹のことを思い出してしまって。ここ最近、父親とひどく揉めているみたいなんですよね……」

「それは心配ですね……何かあったのでしょうか?」

「あの子、今年の竜神祭の乙女役に決まっているんですけど、どうも本人は乗り気じゃないようで。あ、パトリシア様は今年初めて竜神祭をご覧になるんでしたよね? 乙女役っていうのは、つまり竜神に捧げられた生贄の乙女のことなんですが……」

「生贄の乙女……」


 ルカ君のむちむちの手に握り締められていた子竜のぬいぐるみが――それに憑依した小竜神がピクリと小さく震える。

 シャルベリ辺境伯領は大昔から、周囲を高い山脈に囲まれた盆地だった。

 海からの湿った空気は高い山脈を登っていく過程で冷やされ雲を作り、山脈を超える前に雨を降らせてしまう。その結果雨雲がやってこず、かつて深刻な水不足に苦しめられていた。

 領地の真ん中には大きな貯水湖があり、そのちょうど中央には竜神を祀る神殿がある。

 昔は貯水湖が干上がると、この神殿に生贄を捧げて竜神を呼び寄せ、雨乞いをしたらしい。

 そうして、自らと引き換えにシャルベリを救った七人の生贄は全て、当時の領主の娘達であったという。

 

「よくよく考えたら、嫌がる娘に〝生贄の乙女〟役を強制するなんて……うちの父親はとんだ鬼畜野郎ですねぇ」


 中佐はそう言って肩を竦めた。




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[一言] 上官を嫁にするとは… 相当な強者ですね!アーマー中尉!(笑)
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