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1話 似た者主従


 

 わんわん、わんわん、とけたたましい犬の鳴き声が立ち並ぶ木々の合間に響き渡る。

 ドウッ、と大きな音を立てて固い馬の蹄が地面を蹴り上げれば、辺りには土埃が舞った。

 先頭を駆けていくのは亜麻色の毛並みが美しい鹿である。立派な角を持った大きなオスだ。

 やがて、その眼前に高い岩壁が立ちはだかる。

 鹿はとっさに進行方向を変えようとしたが、すかさず左右の茂みから飛び出してきた影達がそれを阻んだ。

 犬である。

 精悍な顔付きをした数頭の犬が、上体を低くし唸り声を上げながら、ジリジリと鹿を岩壁の際へと追い詰めていく。

 絶体絶命。もはや鹿に逃げ場はない――そう思われた時だった。

 鹿は突如後ろ足でもって地面を蹴り付け、びょんと宙へと飛び上がったのだ。

 彼らは助走なしでも成人男性の身長を越すほどの跳躍力を持ち、さらに偶蹄類の蹄は岩場や崖を行くのに適しているという。

 犬さえも上るのを躊躇して踏鞴を踏んだ岩壁である。後から追い掛けてくる馬には、到底駆け上ることは不可能だろう。

 こうして、鹿はまんまと逃げ果せた――かに見えた、その時である。

 ヒュッ、と空を切る音が聞こえたかと思ったら、岩壁を駆け上っていた鹿の角に何かがガツンと当たった。

 矢だ。

 矢は、鹿の固い角に弾かれて仕留めることは叶わなかったが、身体の均衡を崩すのには成功した。

 そこを、ヒュッと飛んできた次の矢が射る。

 二つ目の矢は、左前足の付根のやや後ろ――ちょうど心臓の辺りに深々と突き刺さった。

 ぐらり、と鹿の身体が横向きに傾く。

 そのまま力なく宙に投げ出された亜麻色の巨体は、次の瞬間ドウッと音を立てて地面に沈んだ。

 一連の光景を固唾を呑んで見ていた私は、ここでやっと息を吐く。

 そんな私に、すぐ隣からはしゃいだ女性の声が掛けられた。


「あらまあ、パティ! 誰の矢が鹿を仕留めたのか分かるかしら?」

「はい、お義母様。ええっと……一本目の矢羽は白、二本目が黒だから……」


 私ーーパトリシアが、新しくシャルベリ辺境伯となったばかりの閣下――シャルロ・シャルベリに嫁ぎ、彼のご両親の呼び方を〝旦那様と奥様〟から〝お義父様とお義母様〟に改めてそろそろ五ヶ月が経つ。

 足が不自由なお義母様とその車椅子を押す私が今いる場所は、鹿が倒れた岩壁から見て右手にある高台の上だった。

 随分と距離があるため、常人の目には矢羽の色を確認するのは難しいだろう。

 けれども、私にはどちらの矢が鹿を仕留めたのか容易に知ることができた。

 全ては、古の竜の血を引くメテオリット家に生まれた、曲がり形にも先祖返りの一人であるが所以。

 と、その時である。


「――ああ、くそう。やられたか」


 いかにも悔しげにそう吐き捨てつつ、木立の向こうから真っ先に飛び出してきたのは閣下だった。

 黒い軍服を纏い愛馬に跨がったその背の矢筒からは、白い矢羽が覗いている。

 つまり、真っ先に鹿を射たものの、残念ながら角に弾かれてしまった一本目の矢を放ったのは閣下だったのだ。


 この日、閣下はシャルベリ辺境伯軍の精鋭を引き連れて狩りを行っていた。

 シャルベリ辺境伯領を囲む山脈には鹿や猪など多くの野生動物が生息しており、時折麓の田畑を荒らしては人々を悩ませている。

 人間の生活基盤が農耕に移行したことでもっぱら王侯貴族の娯楽となっている狩猟だが、害獣を駆除して数を調整する意味合いもあった。

 また、今日の鹿狩りのように多人数を指揮して獲物を囲い込み、猟犬を使って追い詰め仕留める狩猟方法は巻狩と呼ばれ、軍事訓練をも担っている。

 そのため、シャルベリ辺境伯領では定期的にこうして軍を挙げての大規模な狩猟が行われてきた。

 私とお義母様は、万が一にも流れ矢の届かない高台に組まれた陣からその様子を見学していたのだ。

 背後に広がる高原には大きなテントが張られ、狩った獲物はすぐさま解体処理されるのだとか。

 今し方仕留められた鹿は、本日の四頭目。

 とはいえ、これまでで一番若々しくて立派な獲物だったため、それを自らの手で仕留めることが叶わなかったことが、閣下は悔しくて仕方がない様子だった。

 彼は馬に跨がったまま、地面に転がってぴくりとも動かない鹿を見下ろし、大きく一つため息を吐く。

 その姿を遠目に眺め、私はおろおろと落ち着かない気分になった。

 そんな私の視界に、新たな人物が登場する。

 

「――私の腕もまだまだ鈍ってはいないようだな」


 閣下にわずかに遅れて岩壁の前に到着したのは、お義父様だった。その背の矢筒から覗く矢羽は黒。

 つまり……

 

「お義母様、お義父様です! あの鹿を仕留めたのはお義父様の矢ですよ!」

「まあまあ! さすがは旦那様だわぁ! 彼、昔から弓の名手として名高いのよ! 王国軍に混じっての御前試合でだって何度も優勝したことがあるんですものっ!!」


 私の言葉を聞いたとたん、お義母様は手を叩いて歓声を上げた。

 頬を赤らめてうっとりと微笑む姿はまるで少女のようで、とても可愛らしく見える。

 その様子に、思わず頬を綻ばせた時だった。

 お義母様の向こうから、あちゃーという声が上がる。


「ご隠居に遅れをとったということは……閣下ってば、相当悔しがってるでしょうね。パトリシア様、あの父子がどんな会話をしているか聞こえますか?」

「あっ……はい、少佐。ええっと……」


 声の主は、閣下の腹心モリス・トロイア少佐。

 少佐は今回、護衛役として私とお義母様の側に付いてくれていた。

 一方、その愛犬であるロイは猟犬として狩りに参加しており、目下射止められた鹿を囲む一団の中にいる。

 とはいえ、猛然と鹿を追っていた先ほどまでの野性的な面構えからは一転して、今はお義父様に手柄を持っていかれて肩を落とす閣下を心配そうに見上げていた。

 馬の首を並べたお義父様に向かって、閣下が何やら口を開く。

 常人には聞こえないであろう彼らの会話も、竜の血を引く私の耳は拾うことができた。

  

「父さんも大人気ないことをなさる。新婚ほやほやの可愛い息子に花を持たせてやる気概はないのですか」

「勝負事に親も子もあるものか。それにーー私とて、奥の前でまだまだ腑抜けた姿は晒せぬわ」


 閣下の恨み言を一笑に付したお義父様が、私達のいる高台を見上げて小さく手を振る。

 その視線の先にいるのはお義母様だ。

 にこやかに手を振り返す彼女の耳に、私はお義父様の思いを伝えた。


「お義父様は、お義母様にいい所を見せたかったみたいですよ」

「あらまあ、うふふ……旦那様ったら」

「いやはや、相変わらずお熱い。ご馳走様ですー」


 お義母様の頬がますます鮮やかに色付く。

 それを冷やかすみたいな少佐の言葉に苦笑いを浮かべつつ、私はいつまでも仲睦まじいお義母様とお義父様に憧れを覚えた。

 そんな中、子供のように不貞腐れていた閣下も、お義父様の視線を追いかけてこちらを見上げる。

 彼の空色の瞳が捉えたのは――私。


「閣下……」


 目が合ったとたん、閣下の端整な顔が柔らかく綻んだ。

 黒い軍服の袖に包まれた長い腕が大きく振られる。

 私はお義母様と同様に頬が色付いたのを自覚しつつ、おずおずと手を振り返した。


「あーあ、こっちもお熱いことで。羨ましい限りですねー」


 とたんに茶化してくる少佐だが、彼こそ半年ほど前に第一子が誕生して、今まさに幸せの絶頂にある。

 慣れない子育てに仲良く奮闘する少佐と奥様の様子を聞くにつけ、夫婦としては先輩である彼らの関係にも憧れを抱いていた。

 私も、閣下といつまでも仲睦まじい夫婦でありたい。

 そう心の中で呟いた時だった――ガサガサと音を立てて、近くの茂みが揺れたのは。


「な、何……?」

「パトリシア様!」


 かつてこのシャルベリ辺境伯領を囲む山脈には、鹿や猪の他にもそれを食糧とする狼や熊といった肉食動物が生息していたこともあったらしいが、近年では全く姿が確認されていないという。

 けれども、腰に提げたサーベルの柄に手をかけ、少佐が私の前に躍り出る。

 すると、次の瞬間――


「わあっ、何だ!?」


 茂みから飛び出してきた何かが、立ち塞がった少佐の長い脚の間をくぐり抜け、その先にいた人間――つまり、私目がけて飛びかかってきたではないか。


「わん!!」

「ひぇっ!?」


 私の隣には、車椅子に乗ったお義母様がいる。

 彼女の上に倒れ込むわけにはいかないと、私は飛びかかってきた何かを上体にへばりつかせたまま、必死にその場に踏みとどまった。

 図らずも真っ正面から向かい合うことになった相手の顔は、口の回りから目にかけては黒、それ以外は赤褐色の毛むくじゃらだ。

 その黒々とした円らな瞳には、ポカンとした私の間抜け面が映り込んでいる。

 それが犬だと気付いた瞬間、追い打ちをかけるかのように、ピンク色の舌がペロンと私の鼻先を舐めた。


「ひうっ……」

 

 私の胸の奥で、心臓がピョーンと跳ねた。

 ドクッ! ドクッ! ドクッ! と鼓動が異常なほど激しくなる。

 強烈な勢いで心臓から吐き出された血液が、凄まじい速さで血管の中を駆け巡った。

 全身に張り巡らされたありとあらゆる毛細血管の先端にまで、古来より受け継いだメテオリット家の血が行き届く。

 後は言わずもがな。

 へばりついた毛むくじゃらを押し退けようとしていた両腕が、人間らしいものから、肌色に朱色を混ぜ込んだみたいなピンク色をした短いものに変わる。申し訳程度の鉤爪が付いた五本の指は、赤子のそれのようにふくふくとして小さい。

 私が生まれたメテオリット家は、アレニウス王家の末席に連なるばかりか、古の竜の血を引く一族である。

 竜の血は女にのみ遺伝し、私はそんな中で時々生まれる、始祖たる竜の姿に転じることができる先祖返りだった。

 とはいえ、竜となった私の姿といったら、お腹ぽっこり頭でっかちのちんちくりん。

 長い尻尾と翼はあるものの、体長はだいたい小型犬くらいしかなく、人間の時の髪の色が反映された身体はピンク色――つまりは、竜らしい威厳なんて皆無だった。


「ぴい! ぴいいい!!」


 口から出るのは、雛鳥のような鳴き声ばかり。

 ちんちくりんの子竜では、何倍もありそうな犬の身体を到底支え切れず、圧し潰されるようにして地面に転がった。

 なにしろ、相手はロイよりもまだずっと大きな犬だったのだ。

 犬は別に私を襲おうとしたわけではなく、私の隣にいたお義母様の、その腕に抱かれていたピンク色の子竜のぬいぐるみに戯れ付こうとしただけのようだ。

 とはいえ、ただのぬいぐるみではない。

 それを証拠に、ぬいぐるみはお義母様の車椅子の手すりから身を乗り出して叫んだ。


『パトリシア、大丈夫!?』

「ぴいいいんっ!!」


 裁縫上手なお義母様が私の子竜姿を模して作った、掌大のぬいぐるみ。

 動かしているのは、このシャルベリ辺境伯領の守り神ともいうべき竜神――それを象った石像の化身である小竜神だ。

 基本的には本体が安置されている神殿からあまり離れられないのだが、閣下の甥エドワード・オルコットが持っていた首長竜のぬいぐるみに憑依したのをきっかけに、以降様々なものの身体を借りて行動範囲を広げている。

 この日も、休憩時間のお茶請け用として持参した好物のチョコを目当てに狩猟についてきていた。


「こ、こらっ! 離れろ……って、うっ、重っ!?」

「まあまあ、パティ。大丈夫? 母様のお膝にいらっしゃい」


 まんまと股下を潜られた少佐が、慌てて振り返って犬を引き剥がす。

 車椅子から伸びてきたお義母様の手も、私を掬い上げてくれた。


「お前……確か、数ヶ月前にアーマー中尉のところのきた子犬じゃなかったかな? 少し見ないうちにまた随分とでかくなったなぁ……」


 少佐は顔中をベロベロと舐めまくられながら、犬の身元を割り出す。

 アーマー中尉というのは、以前ミゲル王子殿下がシャルベリ辺境伯領を襲撃した際に南のトンネルを守っていた隊の責任者で、ハリス国王陛下の戴冠式に際しては一個小隊を率いて王都まで閣下に随行した人物でもある。


「ぴいい……」

『パトリシアが食われてしまうかと思った……』

「あらあら、まあまあ。うふふ、びっくりしたわねぇ」


 私と小竜神は、お義母様の膝の上で抱き合いブルブルと震える。

 そんな私達の背中を、お義母様がよしよしと撫でてくれた時だった。


 ドーン、と。


 目の前に馬が飛び出してきたのは。



「「『!?」」』

「あらぁ」



 私も少佐も小竜神も、目が点になる。

 肝の据わりっぷりが半端ではないお義母様だけが、にこにこと微笑んだ。

 高台で狩猟を見学していた私達の目の前は崖である。

 馬は、そんな崖の下から飛び出して来たのだ。

 そして、ガツンッ! と蹄を地面にめり込ませて着地したその背から、黒い軍服をはためかせて飛び降りたのは、ついさっき私と視線を交わした人――閣下だった。



「――パティ!!」



 閣下の愛馬は、鎧で武装した重騎兵を乗せるために品種改良を重ねられた、とりわけ身体が大きくて力持ちな軍馬だ。

 奇蹄類の馬の蹄は、さっき仕留められた偶蹄類の鹿のように崖を上るに適していないはずなのだが。


「うわ、ほぼ垂直の崖を……。上る馬も馬だけど、上らせる閣下も閣下だな。こわ……」


 閣下の愛馬は、アーマー中尉のものと思わしき大きな犬を抱えたまま顔を引き攣らせる少佐を見下ろし、「どや」とでも言いたげにフンフンと鼻息を荒げている。

 一方、一直線にこちらに駆け寄ってきた閣下は、お義母様の膝から私を抱き上げて頬擦りをした。

 

「ああー、よちよち! びっくりしたねぇ! 下から見ていた私もびっくりしたよ!!」

「ぴい」

「はうわわわわ! 涙目、かわわわっ……じゃなくて、モリスー!? お前、ちゃんとパティの盾になって犬を受け止めんかい!!」

「すみませーん、閣下ー。私の足が長いばっかりにー……って、あいたぁ!?」


 突然の悲鳴に、何ごとかと驚いた私は閣下の腕の中から少佐を見遣る。

 すると、その足下に真っ黒い長毛種の犬がガツンガツンと頭突きをお見舞いしているではないか。

 閣下と同じく下の狩場にいたはずの、少佐の愛犬ロイだった。


「いたっ、いたたっ……ええ? ロイ? 何すんの!?」

「あらあらまあまあ、ロイちゃんたら。ご主人様が他の犬をだっこするから妬いちゃったのねぇ」

「へ……や、妬く!? ロイ、そうなのか?」

「きゅうん……」


 お義母様がロイの気持ちを代弁すると、少佐はたちまちアーマー中尉の犬を放り出した。

 そして、スピスピ鼻を鳴らして甘えるロイを抱き締めると……


「はうわわわわ! ロイ、かわわわっ……!!」


 少佐の語彙力が死に絶えた。


 なかなかどうして。

 閣下と少佐は、似たもの主従である。



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― 新着の感想 ―
[一言] 相変わらず犬には好かれるパティなのでした(笑)
[一言] この犬パティ好きなんかな?
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