30話 落ちこぼれ子竜の結婚
聖堂の中を、突如強い風が吹き抜ける。
床に叩き付けられていた裏帳簿も、それに向かって落ちていたマッチも、一瞬にして吹き飛ばされてしまった。
炎が消えて先が黒く焦げただけになったマッチが、ウィルソン中尉の眉間にぶつかってから天井高く舞い上がる。
参列者の帽子や眼鏡、カツラなんかまでもが風に煽られて宙を舞い、辺りは騒然となった。
けれども、事態はこれだけに留まらなかった。
「――きゃあああっ! なっ、なに!?」
さらに強い風が吹き込んできて、ミリアの身体を宙に浮き上がらせたのである。
突然の出来事に、参列席の人々は一様にぽかんとした表情になる。
けれども、私と閣下の親族、つまりメテオリット家とシャルベリ家といった竜にまつわる面々の目には見えていた。
虹色の鱗を持つ巨大な竜。
それが突然、聖堂の入り口からにゅっと現れたのだ。
私は閣下と顔を見合わせ、唖然として呟いた。
「りゅ、竜神様……」
――そう、風とともに聖堂に入ってきたのは、竜神だった。
私達にとってはすっかり馴染みになった、石像の化身ではない。
いつぞや、貯水湖に逃げ込もうとしたミゲル殿下の愛犬の成れの果てを、雲間から現れてパクリと一吞みにした、あの大きな大きな竜神そのものである。
ぞろりと鋭い牙が並んだ口を大きく開いた竜神は、次の瞬間にはミリアの胴を咥えていた。
つまり、彼女の身体を宙に浮き上がらせたのは、正しくは風ではなく竜神だったのだ。
ゴウッ……!!
風を切る音を立て、竜神が祭壇の方へ真っ直ぐに進んでくる。
すかさず閣下が私を腕の中に抱き込んで庇ってくれたが、あわや、祭壇の前に立つ私達とぶつかるかと思われた刹那——
「きゃっ……」
私が小さく悲鳴を上げると同時に、竜神は虹色に輝く身体を捩って方向転換すると、閣下の頭上すれすれを通って天井へと上り始めた。
そのまま開け放されていた天窓を抜け、高く高く、空へと舞い上っていく。
――ミリアを咥えたまま。
「い、行っちゃった……」
「竜神様は、あれを食うほどの悪食ではないと思いたいが……」
竜神が吹き飛ばしていった閣下の軍帽を受け止めた私は、長身を屈めた彼の頭にそれを被せ直した。
そんな中、竜神が巻き起こした突風によって高い所まで吹き飛ばされていた裏帳簿が落ちてくる。
パラパラ、パラパラ……
ページを送りながら、それはまるで小鳥が羽ばたくみたいにして閣下の右手に収まった。
閣下はそれを、祭壇の下までやってきていたウィルソン中尉に差し出す。
ところが、ウィルソン中尉は裏帳簿を受け取らないまま、閣下をじっと見上げて問うた。
「ミリア・ドゥリトルが言っていたように、これを手柄に王国軍での出世を望まれますか? この度の大粛正によって、王国軍の高官の席も幾つか空いているんですよ。シャルロ殿に王都に移り住むご意志があるのでしたら……」
「――僭越ながら」
閣下はウィルソン中尉の言葉を遮ると、きゅっと軍帽の鍔の位置を直してから、私の肩を抱き寄せて言った。
「私は、シャルベリ辺境伯領を離れるつもりはございません。生まれ育ったこの地を愛しておりますし、きっとこれ以上のものは私の手には余るでしょう。何より、彼女が――パティが嫁ぐ決意をしてくれたこの地を、誇りに思います」
「そうですか……」
閣下の言葉を聞いたウィルソン中尉は、小さく微笑んで裏帳簿を受け取った。
そこで、パン、と一つ、仕切り直すみたいに手を打ち鳴らしたのは、祭壇の向こうに立っていた大司祭だ。
大司祭はにっこりと優しい笑みを浮かべ、向かいに立つ私と閣下、それから参列席を見渡して言った。
「さてはて。これから夫婦となろうとする二人を邪魔するものは、神がもたらした風によって排除されました。改めて、式を始めてもよろしいかな?」
「は、はいっ」
「ご列席の皆様、大司祭様、お騒がせして申し訳ありませんでした。大司祭様、よろしくお願いします」
思わぬ邪魔が入ったことで散々段取りは狂ったものの、私と閣下の結婚式が無事再開する。
大司祭の祝詞に続き、夫婦の宣誓、結婚指輪の交換と、その後は順調にことが運んだ。
そうして、いよいよ最後――誓いのキスによって、結婚式は完了する。
ところが……
「パティ、どうした?」
ベールを持ち上げた閣下の手が頬に添えられると、私は何だか急に、とてつもなく恥ずかしくなってきた。
ただキスするだけでも恥ずかしいのに、参列席からの視線が自分の顔に集中しているのが分かるから余計にだ。
直前に、エド君と目が合ってしまったのもいけなかった。
頬が熱くなって、たまらず俯いてしまう。
そんな意気地無しな私の耳元に唇を寄せ、閣下が囁いた。
「さあ、私の可愛い花嫁の顔を見せておくれ。一緒に、これからの話をしようーー私のパティ」
その言葉が嬉しくて、胸が熱くなって、でもやっぱり恥ずかしくて――
俯いたまま葛藤する私の前髪を、閣下の指先が優しく梳いてくれる。
そんな中、ふいにのんびりとした叔父の声が聞こえた。
「おやおや、皆様方、空をご覧くださいな。彩雲だ。こりゃあ、縁起が良いねぇ」
彩雲は、太陽の光が大気中の水滴や氷晶によって回折されることで、雲が虹のような様々な色に彩られる大気現象である。古来より吉兆の現れとされ、見た者には幸福が訪れると言い伝えられている。
開け放たれた天窓を見上げた叔父の言葉に、参列席の人々が挙って空を仰いだ。
私もつられて、俯いていた顔を上げる。
しかし、この目に映ったのは虹色の雲ではなく――青空みたいな色をした閣下の瞳。
無防備だった私の唇に柔らかなものが重なったのは、この直後のことだった。
「――これにて、二人を夫婦として認め、祝福します」
私達の誓いのキスを見届けた大司祭の声が、聖堂の中に響き渡る。
「おめでとうございます!」
真っ先に続いたのは、あどけない祝福の声――エド君の声だ。
その膝の上では、いつの間にかアーシャがただのぬいぐるみに戻っていた。
ともあれ、エド君の祝福を皮切りに、聖堂内は騒然となる。
「「ふ、不意打ち! 見てなかったー!!」」
姉と少佐が息ぴったりに、参列者を代表して叫んだ。
閣下の空色の瞳には、もちろん耳まで真っ赤に染まった私の顔が映り込んでいる。
ドキドキと大きく高鳴る胸を押えた私を、閣下は満面の笑みを浮かべてぎゅうと抱き締めた。
その肩越し――天窓の向こうは、さっき叔父が言った通り、一面虹色の雲に覆われた空。
それはまるで、シャルベリ辺境伯領の竜神の身体を覆う鱗みたいに美しく、キラキラと輝いて見えた。
――ちなみに
竜神に咥えられて聖堂から退場したミリアだが、その後、南のトンネルの向こうにぽいっと捨てられたらしい。
その時はまさに、新政権の追及を逃れようと王都から逃げてきた馬車が、駐屯していた王国軍に追われている最中だった。
そこへいきなり凄まじい突風が吹き付けたかと思ったら、ミリアが空から降ってきたのだという。
あわや、馬に蹴り殺されそうになったものの、間一髪のところで王国軍が追いつき馬車を確保。
ところが、王国軍の中にミリアの顔と事情を知っている者がいたために、決まりを破って王都を出ていた彼女も問答無用で拘束されたそうだ。
『人の恋路を邪魔するやつは馬に蹴られて何とやら、と言うだろう?』
後に、王国軍からミリアの処遇の報告を受けた閣下が、彼女を聖堂から攫っていった竜神の真意を問えば、小竜神はつんと澄ました顔をしてそう言い放った。
私が初めてシャルベリ辺境伯領を訪れた日から二ヶ月と少し。
この日、閣下は私との結婚を竜神の神殿に報告した。




