29話 価値のある女
聖堂の中はたちまち騒然となった。
参列席の後方にいたシャルベリ辺境伯軍の軍人が、乱入してきたミリアを外に連れ出そうと動く。
ところが……
「触らないでちょうだい! 私を誰だと思っているの!!」
ミリアはひどい剣幕で軍人を怒鳴りつけると、その手を振り払ってつかつかと祭壇に向かって歩き出した。
余所行きの上品なワンピースを身に纏い、ボストンバッグを腕に掛けている。
参列客の中には、シャルベリ辺境伯家と交流があるだけで、私のこともミリアのこともよく知らない者も多い。
そんな人々の目に、この光景はどう映っているのだろう。
ミリアが閣下のかつての恋人あるいは婚約者で、後から現れた私との結婚に異議を唱えにきた――そう思われてはいまいか。
ヒソヒソと口さがない囁きを耳にして、私はぐっと唇を噛み締めた。
招かれざる客の登場に、祭壇に向かって左側の最前列では姉と母が殺気を滾らせており、それを押さえる兄様と父の表情にも怒りが見える。あの叔父でさえ、困った表情をしていた。
長兄が次兄の胸倉を掴んでいるが、ミリアを拒んでさっさと王都から逃げ出していたらしい次兄を責める気にはなれない。
一方、右側の最前列では、厳しい表情をして立ち上がった旦那様が口を開きかける。
けれども、いち早く声を上げたのは、私の隣に立つ閣下だった。
「ご列席の皆様、大司祭様、しばしお時間を賜ります。――ミリア・ドゥリトル、いったい何の用だ」
「いやだわ、シャルロ様。そんな不名誉な姓で呼ばないでくださいまし。私はミリア・マルベリー。由緒正しきマルベリー侯爵家に生まれた娘ですわ」
ミリアは笑顔で言い繕うも、ドゥリトル子爵家が重罪を犯して爵位を取り上げられた話は、アレニウス王国中に知れ渡っていた。
そのため、色恋沙汰の末の修羅場だと勘違いして好奇の目を向けていた参列者達も、ミリアがそのドゥリトル家の人間だと知って顔を見合わせる。
そんな周囲の視線もどこ吹く風で祭壇に向かってくるミリアの前に、すっと立ちはだかった者がいた。
名門トロイア家の次期当主として、右側の参列席の中ほどにいた閣下の腹心、モリス少佐だ。
「どきなさい、無礼者! 私は、あなたの上司の妻になる女よ!?」
「質の悪い冗談はよしてくださいよ。私が閣下の奥方として仰ぎたいのは、あちらにいらっしゃる可愛い可愛いかわいーいパトリシア様だけですから」
「は? 何言ってるの? ふさけないで!?」
「は? そっちこそふざけないでもらえます!?」
少佐と真っ正面から睨み合いを始めるミリアに、閣下が祭壇の上から続けた。
「ミリア・ドゥリトル、ありもしない話は控えてもらおう。あなたが勝手に私の婚約者を騙っていただけで、今も昔もこれからも、それが現実になることはありえない。――モリス少佐、彼女を拘束しろ」
「承知しました」
「ちょっと!?」
「ミリア・ドゥリトルは王国軍の要監視対象であり、現在も行動を制限されているはずだ。どうやら、王都脱出に手を貸した者がいるようだな。その者の情報も含めて、王国軍に引き渡そう」
「御意にございます」
「や、やめて……」
閣下の言葉に分が悪いと思ったらしいミリアは、少佐の手を逃れようと後退る。
ところが、閣下の隣に立つ私と目が合うなり、嘲るような笑みを浮かべて叫んだ。
「シャルロ様は何も分かっていらっしゃらないわ! 私なら、お隣のお子ちゃまなんかよりもずっと、シャルロ様の役にもシャルベリ辺境伯領の役にも立てますのにっ!!」
彼女はそう声高に叫ぶと、ふいにボストンバッグの中から一冊の手帳を取り出す。
そうして、それを閣下に見せ付けるように掲げて声高に続けた。
「閣下、私は価値のある女でしてよ! 新政権の方々が喉から手が出るほど欲しているものを、こうして持っているんですもの!」
「……それは?」
「宝石商の裏帳簿です。前政権の大臣達が、裏金を宝石に換えた証拠がびっしりと書き込まれておりましてよ? それらの隠し場所まで、事細かにね」
「……なるほど」
新国王陛下の大粛正によって私腹を肥やしていた大臣達は軒並み失脚し、中でもひどい者は爵位や財産を取り上げるところまで及んでいたが、巧妙に資産を隠している者も多く、なかなか回収が進まないのが現状だった。
そんな中、不正を行っていた大臣達とことごとく交流があった宝石商の裏帳簿が出てきて、しかもそこに裏金に繋がる証拠が記されているというのだ。
これに目の色を変えたのは、イザベラ様の夫であり、王国軍大将ライツ殿下の直属の部下であるウィルソン中尉だった。
どうしてそんなものを持っているのか。
王国軍の軍服で正装したウィルソン中尉から、食い気味にそう尋ねられたミリアは、薄ら笑いを浮かべて答える。
「簡単でしてよ。あの宝石商、私にべた惚れでしたもの。隠し事はいやよって言えば、聞いていないことまで何だって喋ってくれましたわ」
宝石商を誑かして在処を聞き出した彼女は、裏帳簿を盗み出し――本人曰く拝借してきたのだという。
これが本物ならば、失脚した大臣達の資産の回収が容易になるだろう。彼らから財を奪うということは、すなわち反撃の余力を削ぐことにも繋がる。
少佐に続いて参列席から通路に出たウィルソン中尉は、厳しい顔をしてミリアと向かい合った。
「ミリア・ドゥリトル、それを渡しなさい」
「シャルロ様を、王国軍で取り立ててくださるとお約束してくださいます? 私、彼は黒い軍服よりも白い軍服の方が似合うと思いますの」
王国軍において白い軍服は高官の証。暗に、閣下に王国軍で高い地位を与えるように、という要求だった。
「そう――そうよ。私の夫となる方が、こんな僻地に埋もれていていいはずがないわ」
恍惚とした表情のミリアが、ほんの小さな声でうわ言のようにそう呟く。
メテオリットの竜由来の聡い耳でそれを拾った私は、この時ふと疑問を抱いた。
「ミリアさんは、本当に閣下のことがお好きなんですか?」
「――なんですって?」
私の口からぽろりと零れた言葉を聞き咎めて、ミリアが形の良い眉を跳ね上げる。
刺し通さんばかりに鋭い眼差しに息を呑みつつも、すかさず背中を支えてくれた閣下の腕に勇気づけられた私は、身体ごとミリアに向き直って続けた。
「僻地だなんて、閣下の――好きな人の故郷をそんな風に言うのはよしましょうよ」
「……あら、いやだ。あなた、この私に説教でもなさるおつもり?」
「そんなつもりはありません。ただ、ミリアさんは閣下を思い遣って出世を後押ししているというよりも、ただ単に夫となる方の地位を上げさせることで、自分の価値を高めたいだけのように見えます」
「なっ……生意気な! お子ちゃまの分際で、分かったような口を利かないでちょうだいっ!!」
カツン――!
ミリアが怒りに任せて踏み出したパンプスのヒールが、聖堂の高い天井に大きく音を響かせた。
けれどもこの時、私は珍しく怯まなかった。
「ミリアさんは、本当に閣下のことがお好きなんですか?」
同じ質問を重ねた私に、ミリアはひどく苛立った顔を向ける。
「煩わしいわね、何なのかしら。そんなの、あなたに関係がないことでしょう!?」
「関係ないことはないです。――だって、私は閣下が好きですもの」
隣で、閣下が息を呑む気配がした。
正直言うと、大勢の前で自分の気持ちを大っぴらにするのは恥ずかしかった。
きっと、以前の――閣下と出会う前の私だったら到底不可能だっただろう。
怒りに震えるミリアに負けず劣らず、私の顔は今、真っ赤に染まっているに違いない。
けれども、ここで退くわけにはいかなかった。
恥ずかしいからといって口を閉じてしまっては、あの時――戴冠式の後の晩餐会で、女性達の噂話から耳を塞いで逃げた時にした後悔が無駄になってしまう。
私はぐっと両手を握り締めると、絞り出すような声で言った。
「私は、閣下が好きです。だからミリアさんにも、他の誰にも、この場所を――閣下の隣を譲りたくなんてありません」
そのとたん、ぱちぱちぱち、と小さな拍手が聞こえてくる。
参列席に目を向ければ、右側の三列目に座ったエド君が、満面の笑みを浮かべて手を叩いていた。
彼の膝の上では、アーシャに憑依した小竜神が、よくぞ言ったとばかりにしきりに頷いている。
私の言葉に反応したのは、エド君と小竜神だけではない。
姉や兄達、両親、それから閣下の三人のお姉様達までもが、揃って両目をウルウルさせていた。
そして、私の隣では……
「パティ……尊い……!! 私も、パティが大好きだよっ!!」
閣下が目頭を押さえていた。
ミリアという招かれざる客の乱入で殺伐としかけていた空気がわずかに和む。
参列席では、エド君につられて拍手をする者がちらほら出始めた。
ところがである。
拍手を遮って、パン、パン、と仕切り直すみたいに手を打ち鳴らしたのは、ミリアだった。
「お話はお済みかしら? 私、お子ちゃまの綺麗事を聞いているほど暇ではありませんのよ?」
彼女は壇上の私を冷ややかに見上げると、小馬鹿にするみたいにフンと鼻で笑う。
かと思ったら閣下に向き直り、宝石商の裏帳簿だという手帳をちらつかせながら猫撫で声で続けた。
「いかがでしょう、シャルロ様? 私と結婚してくださるなら、これをあなたの手柄にして差し上げてもいいんですのよ?」
「――断る」
「お隣のお子ちゃまがそんなに気に入っていらっしゃるの? でしたら最悪、愛人として囲うことを許して差し上げてもいいわ」
「断ると言っている」
ミリアの甘言に、閣下の答えはほんのわずかも揺るがなかった。
私をぐっと抱き寄せ、参列席の人々や大司祭にまで宣言するように、堂々とした態度で一蹴する。
「私が結婚したい相手はパティだけだ。彼女以外は考えられないし、考えるつもりもない。パティと引き換えにしてでも得たいものなど、あるものか」
ただ……閣下の主張はそれで終わりではなかった。
「だって――パティはこんなに可愛いんだぞ?」
「……は?」
ぽかんとしたミリアに構わず、閣下はますます私を抱き締めると……
「か、閣下?」
「あああ……パティ! 傍若無人な姉達のせいでちゃんと伝えられていなかったけれど、こうして花嫁衣装を着た君を一番近くで拝めていることに、私は猛烈に感動しているんだ。今日のパティは――いや、いつだってそうだけど! 最高に可愛くて! 綺麗で! 愛おしいよっ!!」
大勢の人々の前で、盛大に思いの丈をぶちまけたのである。
しんと静まり返った聖堂は、まさしく閣下の独壇場。
参列者達は揃って目をまん丸にして、壇上でくっ付く私と閣下を呆然と見上げていた。
そんな中、わなわなと震え出したのはミリアだ。
「――この私を、袖にするだなんて」
彼女は美しい顔をぐっと歪め、憎々しげに閣下を――いや、私を睨んで叫んだ。
「もういいわ! この帳簿は燃やしてしまいましょう! あなたのせいで、証拠は永遠に消え去ってしまうのよ! とんだ不忠者ですことっ!!」
ミリアは帳簿を床に叩き付けると、ボストンバッグから取り出したマッチに火を点けた。
「ま、待て! やめろっ!!」
これに焦ったのはウィルソン中尉だ。せっかく存在が明らかになった重要証拠を燃やされてしまってはたまらない。
けれども、彼が駆け寄ろうとしたその瞬間、火が点いたマッチはミリアの手を離れ、床に乱雑に捨てられた裏帳簿の上へと落ちて行った。
無情にも、赤い炎が革張りの表紙を舐めようとした――その時である。
ビュウッ、とふいに風が吹いた。




