27話 頼もしい人
「か、かわいい……」
籐の揺りかごの中ですやすやと眠る赤ちゃん。
それを眺める私の顔には、自然と笑みが浮かんでいた。
閣下がシャルベリ辺境伯位を譲られた日の翌日、午後のこと。
私は閣下に連れられて、モリス少佐の自宅を訪れていた。
臨月に入っていた彼の夫人が、前日、無事元気な男の赤ちゃんを出産したからだ。
夫人が産気付いたちょうどその時、竜神の神殿で行われていた譲位の式典に出席していた少佐は、残念ながら出産に立ち会うことができなかった。
何でも、式典の最後に商工会が上げた花火の音に驚いて力んだ瞬間、赤ちゃんがポーンと外に飛び出して、初産にしては超が付くほどの安産だったという。
母子ともに健康で、トロイア家は喜びに溢れていた。
「か、かわ……かわいい……かわいいいい……」
「うふふ、だっこしてやってくださいな」
子竜を前にした時の閣下並みに語彙力を失った私に、優しく微笑んだ少佐夫人が揺りかごから抱き上げた赤ちゃんを渡してくれる。
私が今まで抱っこしたことのある一番小さい相手――生後四ヶ月になるメイデン夫妻の長男クリフ君より、まだもっとずっと小さくて繊細な存在に手が震えた。
柔らかくて温かくて真綿のように軽くて、ミルクみたいな、あるいはおひさまの匂いみたいな、とにかくとてもよい匂いがする。
私は胸にこみ上げる感動を抑え切れずに、隣にいた閣下を振り仰いだ。
「わあ、わああ……かわいい……可愛いですね、閣下」
「うんうん、可愛いなぁ……」
「こんな……こんな、堪らなく可愛らしい存在が、この世にあったんですね……」
「そうだね。私的には、そう言っているパティも堪らなく可愛いんだけどね」
赤ちゃんの丸い頭にまばらに生えた柔らかな産毛は、少佐譲りの焦げ茶色。
それに頬を寄せてしみじみ呟く私のピンク色の髪には、閣下がスリスリと頬擦りをした。
「見てみろ、モリス。可愛い新生児と可愛いパティのこの親和性……後世に語り継ぐべき尊さだと思わんか!?」
「はいはいはい、思います、思いますよ。それでですね、閣下。私、この後一週間ほどお休みをいただきますけど……ちゃんと仕事してくださいよ?」
「もちろんだ。私のことは心配せず、お前はしっかりと奥方を支えなさい。この時期に役に立つか立たないかで、夫としての真価が問われるらしいからな。夜中に赤ん坊が泣いたらお前があやして、奥方は眠らせて差し上げるんだぞ?」
「分かりました、分かりましたから。仕事の引き継ぎは中尉にしてありますので、何かあったら彼に聞いてくださいね。今週中に決裁が必要な書類は閣下の執務机の右側に積んでいます。左側は期限までまだ余裕がありますけど、時間があったら目を通しておいてください。それから……」
いつもなんだかんだと文句を言いつつも面倒見のいい少佐は、自分が休んでいる間の閣下のことが心配でならないらしい。
最終的には……
「ロイ、頼むよ。私の代わりに閣下をしっかり見張ってて。あんまり仕事しないようなら、噛んでもいいからね?」
「わんっ!」
「――おい」
そんなこんなで、お目付役に任命されたロイのリードを引いて、私と閣下はトロイア邸を後にした。
トロイア邸は大通りの西側――ちょうど、貯水湖を挟んでシャルベリ辺境伯邸の真向かいにある。
帰り道はシャルベリ辺境伯邸の表門を目指し、北の水門や中央郵便局の前を経由する北回りで大通りを歩いていた。
「パティ、大丈夫かい? だっこして帰ろうか?」
「いいえ~……」
新生児を抱っこした感動が覚めやらずに上の空な私に、閣下は苦笑いを浮かべて手を繋いでくれる。
ロイも介助犬よろしく、足もとに注意を払ってくれていた。
そうこうしている内に、北の水門が見えてくる。
水門の前は、トンネルの向こうから伸びる水路の側道が大通りと合流する三叉路になっていた。
そこに差し掛かろうとした時である。
ふいに、私達の進行を阻むように白い塊が飛び出してきた。
「キャン! キャンキャン!!」
「ひえっ!?」
そのまま甲高い声で吠え立てたのは、ふわふわの真っ白い毛玉みたいな小型犬だった。
自分の身体の三倍も四倍もありそうなロイに向かって、随分と勇ましいことだ。
飼い主らしき老婦人が、あらあらまあまあ、ごめんなさいね、と困った顔をして宥めるが、一向に吠えるのをやめようとしない。
おろおろするロイを気の毒に思いつつも、私はとにかくその白い毛玉が怖くて怖くて、閣下にぎゅっとしがみつく他なかった。
そんな私の髪に頬を擦り寄せ、閣下はさっき赤ん坊を前にした時のようなため息を吐く。
「はああ、これぞ役得……」
「か、かか、閣下っ……」
「うんうん、よしよし、大丈夫だよ。やっぱり抱っこして帰ろうか?」
「うう……」
ロイと接することには随分慣れたものの、彼以外の犬が相手となると、私の身体は相変わらずブルブルと震え出してしまう。
それは、毛玉みたいにふわふわで、普通の人からすれば可愛らしい小型犬でも例外ではなかった。
「キャンキャン! キャンキャンキャン!!」
「くうーん……」
ロイが反撃してこないのをいいことに、小型犬はますます増長する。
ついにはロイの周りをグルグル回り出したそれに足を踏まれ、ぴゃっと飛び上がった私が両手を差し出す閣下に縋りそうになった――その時。
突然、側道から一台の馬車が飛び出してきた。
「――ひっ……!!」
過去二回、同じような場面に遭遇した私は顔を強張らせる。
もう少しで馬車の車輪に頭を踏み潰されそうになったあの時々の恐怖が甦り、心臓が早鐘を衝くように激しく鼓動した。
こんな公衆の面前で、またもや子竜になってしまうのでは、と真っ青になる。
そんな私を嘲笑うかのように、馬車は尋常ならざる様子でこちらに鼻先を向けた。
どうやら、向かおうとした先に巡回中のシャルベリ辺境伯軍の一団を見付けて、急遽方向転換したようだ。
さらには、この馬車を追い掛けてきたのだろうか。側道の向こうからもシャルベリ辺境伯軍の軍人が数名、馬に乗って駆けてくるのが見えた。
図らずも、鬼気迫る表情をした御者と目が合って、私は思わずその場に立ち尽くす。
けれども直後、閣下の思わぬ行動に我に返ることになった。
「パティ、ご婦人と一緒に離れていなさい――ロイ、彼女達を守れ」
私とロイにそう声を掛けた彼が、腰に提げたサーベルを鞘ごと引き抜きつつ、向かってくる馬車の前へと飛び出したのだ。
「か、閣下!?」
悲鳴を上げる私の足を、ロイが頭でぐいぐいと押して沿道へ避難させた。
閣下に気付いた御者がとっさに手綱を引いたことで、驚いた馬が棹立ちになり、一瞬馬車が停止する。
そこからの出来事は、あっという間だった。
閣下はひらりと御者台に飛び乗ると、ぎょっとして怯んだ御者の首に鞘に入ったままのサーベルを押し付けて動きを封じる。
手綱を奪って馬を止めれば、すかさず追いついてきたシャルベリ辺境伯軍の軍人達がそれを引き継いだ。
彼らは御者を拘束し、馬車の扉をこじ開けて乗客を引き摺り出す。
石畳に座らされた身形の良い壮年の男は、自分を取り囲む黒い軍服の一団を愕然とした表情で見上げていた。
それにしても、シャルベリ辺境伯にしてシャルベリ辺境伯軍司令官――名実ともにシャルベリ辺境伯領の長となった閣下の手を煩わせたことに、馬車を追い掛けてきた軍人達はひどく恐縮した様子である。
状況を説明しに飛んできた部隊長に、閣下は馬車を引いていた馬の首を宥めるように撫でながら問うた。
「また、新政権の追及を恐れて王都から逃げてきた者か何かか? トンネル向こうの検問は一体どうなっている?」
「それが、山向こうの町の警備兵が金をもらってこっそり通しているようなんです。通行証に偽造した形跡が見られたのでこちら側で止めたんですが、各所に確認を取っている間に強行突破されてしまいまして……面目次第もございません」
「いや、そもそもはトンネル向こうの失態だろう。他所様の不正の尻拭いなんてごめんだぞ。あっちの町長に思いっきり文句を言ってやろう。それで、うちの軍の者に怪我はないか?」
「はい、バリケードを壊されただけです。修繕代は、是非ともあちら様に請求しましょう」
新国王陛下ハリス・アレニウスによる大粛正はいまだに続いている。
処分を恐れた後ろ暗い所のある者達が、王都から地方へと私財を一切合切担いで逃亡する事例も後を絶たず、山脈に囲まれて中央から目が届きにくいことを理由に潜伏地として狙われやすいシャルベリ辺境伯領でも警戒を緩めていなかった。
逃亡者達を逃がしたり匿ったりして金をせしめようとする者や、馬車を襲って積み荷を強奪しようとする輩も現れ、世は混迷を極めている。
とはいえ、ここで逃亡者に毅然とした態度を取るか否かで、各地の管理者――特に、シャルベリ辺境伯領のような自治区の長は、新国王陛下から真価を問われているといっても過言ではなかった。
「――とにかく、うちには絶対ややこしい連中は入れないよ。シャルベリに来たが最後――全員もれなく、王国軍に引き渡してやるさ」
不敵な笑みを浮かべてそう言い放つ閣下に、震え上がったのは拘束された不届きもの達だけ。
シャルベリ辺境伯軍の軍人達も、偶然その場に居合わせた町の人々も、昨日立ったばかりのシャルベリ辺境伯の言葉に自然と安堵の表情を浮かべていた。
もちろん、私と隣の老婦人も同様に。
「うふふ、頼もしいわねぇ」
「はいっ」
ようやく静かになった白い毛玉を抱いて微笑む老婦人の言葉に、私はひたすらこくこくと頷いていた。




