26話 新しいシャルベリ辺境伯
「〝――シャルベリ辺境伯領のますますの発展と忠誠を信じ、貴殿の活躍を期待しております〟」
使者による国王陛下ハリス・アレニウスの祝辞の代読は、そう締めくくられた。
戴冠式から七日後のこの日。
閣下は正式に爵位を譲られ、新たなシャルベリ辺境伯となった。
これより、彼がシャルベリ辺境伯とシャルベリ辺境伯軍司令官を兼任することになる。
とはいえ、世襲制の爵位の譲渡くらいで、わざわざ大仰な式典を催す貴族は少ないだろう。
実際、代々のシャルベリ辺境伯の譲位も、親族や古参の軍幹部だけの内々でひっそりと執り行われてきたのだ。
ところが、今回に限っては例外だった。
中でも最たる違いは、譲位が行われた場所にある。
慣例では、シャルベリ辺境伯邸の大広間か、同敷地内に立つ軍の施設の大会議場だったのだが……
『ここに、これほど大勢の人間が集まって賑わうのは、年に一度の竜神祭以来だ』
「お騒がせして申し訳ございません――小竜神様」
周りを取り囲む人垣を見回して、竜神の石像の化身である小竜神がしみじみとしたため息を吐いた。
私や眷属以外の目には映らないのをいいことに、黒い軍服を纏った閣下の身体にぐるりと巻き付いて、軍帽を被った頭の上にのしっと顎を載せている。
閣下は苦笑いを浮かべながら、宥めるようにその虹色の鱗に覆われた身体を撫でた。
この度のシャルベリ辺境伯の譲位は、シャルベリ辺境伯領の真ん中に位置する貯水湖――その中央に浮かんだ島に作られた竜神の神殿で執り行われていた。
小竜神が言う竜神祭とは、雨乞いのために竜神に捧げられた乙女達の魂を慰める祭だという。
生贄として捧げられた乙女を救いにいくという態で、有志の男性達が湖岸から一斉に泳ぎ出し、竜神の神殿で待つ乙女役の女性のもとを目指すというものだ。
始まった当初は一番に神殿に辿り着いた者に幸運が訪れるという福を呼ぶ祭りだったのが、優勝すれば乙女役の女性に交際を申し込める、なんて不文律がいつの間にか出来上がったのだとか。
竜神祭をきっかけに結婚する夫婦も少なくはなく、シャルベリ辺境伯領では年に一度の最も盛り上がる祭りとして知られている。
逆を言えば、それ以外に竜神の神殿に大勢の人が集まるのは年末年始の大掃除の時くらいなのだが、この日は神殿がある島の上はもちろん、跳ね橋を渡された湖岸にまで人が溢れ、新たなシャルベリ辺境伯の誕生を見守っていた。
それはもう、新国王陛下の誕生を祝った七日前と変わらぬ盛況振りで、貯水湖をぐるりと囲んだ大通り沿いにはびっしりと出店が立ち並ぶ。
このように、本日のシャルベリ辺境伯の譲位を大規模な祭典に仕立て上げたのは、商工会長だった。
新国王陛下の即位祝いに引き続いて、お祭り気分の消費者の財布の紐を緩ませるのも目的の一つだが、郵便局長と同様に閣下を幼少期から見守ってきた商工会長には、彼がシャルベリ辺境伯となるのを盛大に祝いたいという親心もあったようだ。
随分前から、閣下には秘密にして商工会を上げて計画が進んでいたらしい。
さらにはもう一つ。大きな不意打ちがあった。
突如、竜神の神殿の背後からヒュルルッという音が上がったと思った、次の瞬間。
ドン! ドン! ドン!
「ひえっ!?」
腹の底を震わせるような大音量が立て続けに響き渡る。
私はぴゃっと飛び上がり、隣に立っていた閣下に思わずしがみついた。
胸が大きくドキドキとして、あわや子竜に、と思われたが……
「大丈夫だよ、パティ――見てごらん」
優しく背中を撫でて宥められ、頭上を見上げるよう促される。
閣下の瞳の色みたいな一面の青に、彩色の煙が幾筋も棚引いていた。
その正体が花火だと気付いたのは、さらにドンドンと上がったそれが空の上でパッと弾ける瞬間を目撃したからだ。
色とりどりに――それこそ、竜神の鱗みたいな虹色の煙の競演に、私は思わずわあっと感嘆のため息を零していた。
「商工会長、花火は戴冠式に合わせて上げるんじゃなかったのか?」
「わははっ! あれは、〝ここから花火を上げていい〟というシャルロ様のサインをもらうための口実ですよ。どうせ王都におわす国王陛下には見えないんですから、戴冠式に合わせて上げたって勿体ないだけでしょう?」
「いや……そんなに堂々と文書偽造を告白されても困るんだが……」
「まあまあ、野暮なことはお言いでないですよ! ねえ、可愛らしい辺境伯夫人? 気に入っていただけましたかな?」
「は、はい……商工会長様。すごく、綺麗です……」
にっこりと微笑んだ商工会長が、私を〝辺境伯夫人〟と呼ぶ。
何だか照れくさいような誇らしいような気持ちになりながら、私は色とりどりに空を飾る花火の煙を見上げていた。
*******
正式にシャルベリ辺境伯となった閣下はこの日、旦那様より爵位の他にもう一つ引き継いだものがある。
それは、閣下の親指ほどの小さく古びた鍵だった。
経年変化によってくすんだ色合いになり、大きさの割に重厚感のある真鍮製。
それが、どこの鍵だったかというと……
「まさか、こんな所に扉があるなんて知らなかったな」
シャルベリ辺境伯邸の表門から屋敷にかけて広がる見事な庭園――その片隅に立つ霊廟の、祭壇の後ろにひっそりと作り付けられた扉のものだった。
奇しくも数日前、エド君とともにそれを見付けていた私は、この日は閣下に連れられてその扉の前に立つ。
これを管理するのは、代々シャルベリ辺境伯の役目であり、扉が人目に付かないよう木の板を立て掛けていたのは旦那様だったらしい。
カチャリ、と音を立てて鍵が外れ、ギイイッと錆びた蝶番が悲鳴を上げながら扉が開く。
扉の向こうはあの時の通り階段になっていて、それは霊廟の地下へと繋がっていた。
階段脇の壁の上部にある明かり取りの小窓のおかげで、やはり照明がなくても足もとを見るのに困らない。
長身を屈めつつ慎重に階段を降りていく閣下を、私はゆっくりと追い掛けた。
そうして、階段を降り切った先の扉を開くと、あの時エド君と見た通りのこぢんまりとした部屋が現れる。
木の床に敷いたラグの真ん中に、机と椅子が一脚ずつ。
壁際に置かれたドレッサーやチェスト、ベッドなどは子供用の小さなもので、古びた本がびっしりと詰まったガラス戸のキャビネットだけが異様に背が高い。
机の上には積み木がお城のような形に積まれたまま埃を被っていた。
部屋の中央まで行ってようやく身体を真っ直ぐにした閣下は、明かり取りの小窓から差し込む日の光を頼りに部屋の中を見回して、一つため息を吐く。
「どう見ても、子供部屋だ。小さな子供が、こんな地下に作られた部屋の中で過ごしていたというのだろうか……」
この部屋に通じる鍵を受け取った時、閣下は〝封じられた部屋の鍵〟とだけ告げられたという。
とはいえ、旦那様がそれ以上のことを語らなかったのは、言葉にできないような重大な秘密がこの部屋に隠されているというわけではなく、単に旦那様自身も詳しいことを伝え聞いていないというだけの話だった。
つまり、この地下の子供部屋が実際に使用されていたのかどうかも、使用されていたとしたら何者が住んでいたのかも、はたまたどれくらいの期間をここで過ごしたのかも、もう誰も知らないのだ。
けれども、部屋の中をぐるりと見回した閣下は、エド君と初めてここを訪れた時の私と同じ推測に至ったらしい。
「もしかしたら、竜神の鱗を飲んだ娘から生まれた最初の眷属が疎まれて、ここに閉じ込められていたのでは……」
沈痛な面持ちをして、閣下がそう呟く。
その気持ちに共感を覚えつつも、私は慌てて、でも、と口を開いた。
「閣下、こっち! こちらをご覧ください!」
「……うん? おや、そんなところにも扉が……?」
私は閣下の手を引いて、あの時エド君が見つけ出してくれた、チェストの後ろの小さな扉の前まで連れていく。
このずっとずっと先が、貯水湖の真ん中にある竜神の神殿の祭壇の下まで繋がっていて、小竜神はそれを知っている様子だった。
おかげで私は、もしも最初の眷属なりがこの地下の子供部屋に閉じ込められていたとしても、ずっと一人ぼっちじゃなかったかもしれない、という希望を見出したのだ。
「そうか、竜神の神殿まで……。それにしても、こんな狭い所にパティはよく入って行けたな」
「はい。だって私、あの時は子竜になっていて……」
ここで私は、はたと違和感を覚えた。
そうだった。
以前、エド君とこの部屋を訪れた際、私は子竜の姿になっていたのだ。
「確かあの時、霊廟の祭壇の後ろにあった扉はエド君が通れるくらいの隙間しか開かなくて……どうしようっておろおろしていたら、エド君に足首を掴まれて、それでびっくりして子竜に……あ、あれ?」
「……ふむ、扉はエドや子竜になったパティが通れるくらいの隙間は開いた、と。つまり、鍵はかかっていなかった?」
「でもその時、鍵を管理していらっしゃったのは旦那様で……」
「鍵は爵位とともに受け継がれるが、かといってシャルベリ辺境伯がこの霊廟で成すべき仕事があるわけでもない。たとえこの扉を開く用があったとしても、あの几帳面な父が施錠し忘れるなんて考えにくいんだが……」
私は閣下と顔を見合わせて首を傾げる。
そもそもあの時、扉はエド君くらいの小さな子供が通れる隙間しか、どうやっても開かなかったのだ。
あの後、旦那様が蝶番に油でも差したというのだろうか。
戴冠式やらシャルベリ辺境伯位の引き継ぎで忙しかったであろうこの数日の間に、別段用もないこの場にわざわざ足を運んで……?
「あれ? あれれ……?」
右へ左へ、私はひたすら首を傾げる。
そんな中、部屋の中をもう一度見て回った閣下が、ふいにあっと小さく声を上げた。
「閣下? 何かありましたか?」
「いや、うん……」
「あの、どうかなさったんですか?」
「不思議なこともあるものだ。――パティ、見てごらん」
そう言って、閣下が差し出したものを目にしたとたん、私もまたあっと声を上げていた。
以前、エド君と私がここを訪れた際に、埃を被った積み木の下から引っこ抜いた紙。
そこには、様々な色を使った太くて長いロープのようなもの――竜神と思われる絵が描かれていた。
ところが……
「これ……もしかして、エド君と……私?」
「そう、見えるね」
いつの間にか、竜神の隣に茶色の頭の小さな人間とピンク色の翼のある生き物が描き足されていたのだ。
前者がエド君、そして後者が子竜となった私——そうとしか見えなかった。
「えええ……?」
もしかしたらあの時、この子供部屋にふさわしい体格をした私とエド君は、部屋の主である何者かに招き入れられたのかもしれない。
竜神とエド君と私——拙い絵の側には、これまた幼げな文字でこう書かれていた。
『おともだち』




