6話 想定外の閣下
「――モリス! モリス少佐はいるか!」
「はい、閣下! ここに!!」
扉を押し開いて颯爽と現れた閣下に、書類の整理をしていたらしいモリス少佐が慌てて姿勢を正した。
シャルベリ辺境伯邸と軍の施設は、まるでお互いの背中を守るみたいに、それぞれ表門と裏門に玄関を向けて建っている。シャルベリ辺境伯軍司令官を務めるシャルロ閣下の執務室は、そんな軍の施設の最上階――三階のど真ん中に設けられていた。
部屋の中央には大きなソファセットがあり、閣下の執務机は奥の壁際にどんと置かれている。
床には一面に絨毯が敷かれ、つかつかと足早に歩いていく閣下の靴音も、その後を従順に追う犬のロイの足音も全部吸収していた。
「閣下、何ごとですか!? まさか、また王都から何か……?」
「いや、それとはまた別に、緊急を要する案件が発生した」
固い表情をして駆け寄ってきた腹心に向かい、閣下も難しい顔で首を横に振る。
彼は執務室の中にモリスしかいないことを確認すると、素早く扉に鍵をかけ、声のトーンを落して告げた。
「――至急、竜の育て方を調べてくれ」
「……は?」
少佐がぽかんとした声を上げる。
しかし、閣下は構わず畳み掛けた。
「ケージに……入れるのはかわいそうか? うん、かわいそうだな、やめよう。しかし、躾が済むまでは無闇に外に出さない方がよさそうだ。よし、首輪を着けよう。この子の首に負担のかからない、子猫用の柔らかい首輪がいい」
「え? ちょっ……」
「しかし、竜はそもそも何を食うんだ? 見た目は爬虫類っぽいが、餌も同じようなものでいいんだろうか。鶏肉を与えても平気か……?」
「ちょ、ちょっと……ちょっと待ってください、閣下! 話を整理させてくださいっ!!」
身を乗り出さんばかりの様子で話を進める閣下に、少佐は果敢にも待ったを掛けた。
そんな二人の足もとを、こちらも興奮した様子のロイがぐるぐると走り回っている。
しかし、少佐が「待て」と一言号令をかけたとたん、たちまちその足もとにぴたりと身体を添わせてお座りをした。
ロイは単なる少佐の愛犬というだけではなく、主人に従順であるよう軍用犬としての躾もされている。
私はと言うと、そんな一連の様子を閣下の腕の中からこっそり眺めていた。
正確には、閣下の腕の中で、閣下の軍装の黒いマントに包まれた状態で、である。
執務室に到着するまでそうして隠されてきたおかげで、不特定多数の人間に子竜姿を見られることは免れたのだが……
「そもそも、竜って何の話です? まさか閣下、酒でも飲んで酔っぱらっているんですか?」
「失敬な。私は至って素面だぞ。勤務時間中に飲酒などするものか」
「閣下が、気分転換に外の空気を吸ってくると言って出掛けたままなかなか戻って来ないので、ロイに探しに行かせたんですが……」
「そのロイが、この子を見つけてくれたんだ。――さあ、見て驚け!」
閣下はそう高らかに告げると、マントの中から私を取り出し、少佐の眼前に突き付けた。
「ぴっ!?」
「――っ、え? りゅ、竜? 本当に……!?」
強制的に顔を突き合わせる羽目になった私と少佐は、揃って両目をまん丸にする。
しかし、少佐が我に返るのは早かった。
「――いやっ、いやいやいや、だめ! だめですよ! うちでは飼えませんからね! 元いた場所に捨てて来てくださいっ!!」
「おいおい、聞き捨てならないな。こんないたいけな子竜を捨てて来いとは……お前には血も涙もないのか」
モリスはとんだ冷血漢だな、と非難する閣下に私も心の中で同調しかけたが、少佐にもちゃんと言い分があった。
彼は、私をだっこした閣下をキッと睨んで叫ぶ。
「閣下、お忘れですか!? あなた、つい先日だって軽率に子猫を拾ってきたでしょうが!!」
「忘れるものか。あの子も可愛いかったな。真っ白でふわふわの毛並みの……」
「その真っ白のふわふわの毛に、デッカいハゲを作らせちゃったんでしょうがっ! 閣下が、子猫が嫌がっても懲りずに構い倒すからっ!!」
「ええ……あのハゲ、私のせいか……?」
噛み合わない主従の会話は、私を間に挟んだままさらに続いていく。
「幸い、あの子猫にはいい貰い手が見つかって、早々にハゲも改善したからよかったようなもののっ……」
「その点は安心しろ、モリス。そもそも、竜にはハゲようにも毛が無い」
「そういう問題じゃねーんですよ! ハゲる代わりに胃に穴でも開いたらどうするんですかっ! 閣下みたいにやたらと捏ねくりまわしたら、小動物にはストレスがかかるんですってば!!」
「捏ねくりまわすってなんだ、人聞きの悪い。可愛がっているだけじゃないか」
このようなやり取りの間も、閣下の手は私の頭をずっと撫でくり撫でくりしている。
子竜とはいえ、猫の子なんかに比べれば身体の造りは頑丈だ。
一言物申すとすれば、メテオリットの竜の体表を覆っているのは爬虫類的な鱗ではなく、ビロード風の短い毛である。場合によっては、ハゲる可能性が無きにしも非ず。
とはいえ、人間の言葉も心理も理解できるので、今の閣下みたいにやたらと捏ねくりまわされても、それが可愛がられているのか苛められているのかの判断くらいは付く。先に拾われたという子猫のように、ハゲるほどのストレスを抱えることはないだろう。
ただこの時、私の頭の中はひどく混乱していた。
だって、子竜の状態で相対している今の閣下の姿が、これまで私が目にしていたものとあまりにもかけ離れているからだ。
私は閣下のことを、旦那様ほどではないにしろ、もう少し寡黙な人だと思っていた。
それなのに、子竜姿の私を拾って大喜びで執務室に戻ったかと思ったら、そこでずっと年下の部下である少佐に窘められる、なんて。
おまけに、子竜を飼うことを少佐に反対されて子供みたいに唇を尖らせる閣下を、私は衝撃的な思いで見上げていた。
こんな――無邪気な少年のような姿が閣下の素なのだとしたら、これまで私が見てきた彼は相当大きな猫を被っていたことになる。
閣下が、私との間に分厚い心の壁を立てていることを、改めて思い知らされたような気がした。
「とにかくですね! 自制が利かない閣下は、はっきり言って繊細な小動物を飼うのに向いてませんっ!!」
上官を上官とも思わぬ容赦のなさで、少佐がぴしゃりとそう言い放つ。
初めて会った時、叔父から溢れ者呼ばわりされた私と閣下のことを腹を抱えて笑っていたため、正直少佐に対していい印象がなかったのだが、今ばかりは全力で彼を応援したい気分だった。
だって私は、このまま閣下に飼われるわけにも、いつまでも子竜の姿でいるわけにもいかないのだ。
何とかしてこの場から抜け出し、与えられた客室か事情を知る旦那様や奥様のもとに戻らなければならない。
とにもかくにも、まずは閣下の腕の中から逃れようと身を捩った、その時だった。
「わんっ!」
「ぴみっ!?」
今の今まで少佐の足もとに行儀よくお座りしていた犬のロイが、いきなり身体を起こして吠えたのだ。
驚いた私は情けない声を上げ、とっさに閣下の胸元にしがみついた。
その拍子に、仕立ての良い軍服の襟元に爪の先が引っ掛かってしまい、私はますます狼狽する。
そんな中、思い掛けず頭上から降ってきたのは、万感の思いを詰め込んだみたいな盛大なため息だった。
「はー……かわいい……」
閣下はそう呟き、私をぎゅっと両腕で抱き竦める。
さらには、私の額にスリスリと頬擦りしながらうっとりとした顔で続けた。
「猫の毛とはまた違った、この柔らかで滑らかな肌触り……くせになりそうだな。見ろ、モリス。パティだって、こんなに私に懐いているじゃないか」
「……は?」
「パティと私を引き離そうなんてのは、もはや鬼畜の所業だぞ。おー、よちよち。モリスはこわい人間でちゅねー」
「え? 閣下、ちょっと……!?」
閣下の口からするりと飛び出した赤ちゃん言葉には、盛大に突っ込みたいところだった。
私がこの一週間で抱いた彼のイメージからかけ離れ過ぎていて、もはやどんな顔をして対峙すればいいのかも分からなくなってくる。
だがそれよりも何よりも、一等聞き捨てならなかったのは……
「か、閣下? もしかして、今……その子を〝パティ〟って呼びました!?」
「ああ、呼んだが? 何か問題でもあるか? うちで飼うんだから、私が名前を付けたってかまわないだろう?」
「いえ、だって……パティって確か、先日からこちらに滞在中のパトリシア・メテオリット嬢の愛称ですよね? 辺境伯ご夫妻が呼んでいらっしゃるのを何度か耳にしましたが……」
「いかにも、パティの名はパトリシア嬢から拝借した」
私の言いたいことは、モリス少佐が代弁してくれている。
それに対し、満面の笑みを浮かべた閣下は、さらに私の心臓を引っくり返すような台詞を続けた。
「だってほら、すごく可愛いじゃないか。この竜の子も、パトリシア嬢も――ずっとだっこしていたいくらい、可愛いね」
この時、「は?」と叫んだはずの私の声は、残念ながら子竜の口内で変換されて「ぱ」になった。




