21話 何も知らなかった
ミリアが今もまだ閣下に想いを寄せているなんて、知らなかった。
一日を置かず恋文を送り続けているなんてことも、知らなかった。
私は、何も知らなかったのだ。
「だって、閣下はそんなこと、一言も……」
そう呟いたところで、彼が手紙を見て眉を顰めている姿を何度か目撃していたことを思い出した。
「どうして、何も言ってくれなかったんだろう……」
愕然とする私に追い打ちをかけるように、女性達の会話は続く。
「でも、次期シャルベリ辺境伯閣下はご婚約なさったと伺いましてよ? 確か、メテオリット家の……」
「メテオリット家というと、リアム殿下の奥様のご実家だったかしら。年頃のお嬢さんが他にいらっしゃって?」
「少し年の離れた妹さんがいらっしゃっるわよ。――ほら、噂をすれば、ちょうどあちらに」
女性達が一斉にこちらを向く気配を感じ、私は慌てて顔を俯かせる。
とたんに、旋毛に視線が突き刺さるような気がして、握り締めた掌にじっとりと汗が滲んだ。
「まあまあ、可愛らしい。でも、随分とお若いのね」
「あらあら、旦那様が社交に励んでいらっしゃるのに、壁の花になっているなんて」
「まだ、こういう場に慣れていらっしゃらないんじゃないかしら」
くすくすと続いた笑い声には、わずかに嘲りが滲んで聞こえた。
閣下の優しさに甘えてしまった自覚があったため耳が痛い。
彼に持たされたオレンジ色のカクテルには、ひどく情けない私の顔が映っていた。
「場慣れしているという点では、ミリアさんの方がシャルベリ辺境伯夫人にふさわしいかもしれませんわ」
「そうですわねぇ……あの方、黙っていれば美人ですもの。見映えはなさるわよね」
「ミリアさんの強かさはいくらか見習うべきかも。可愛らしいだけじゃ、領主の妻は務まりませんもの」
私はぐっと痛いほど唇を噛み締める。
女性達はただ世間話をしているだけで、私自身に悪口を聞かせていじめようなんてつもりがないのは分かっていた。
私と彼女達では、互いの話し声がけして聞こえるはずがないくらいに距離が開いているからだ。
ただし、普通の人間なら、の話だが。
この時ほど、私は竜の耳の聡さが恨めしいことはなかった。
くすくす、くすくす……
笑い声が聞こえる。
私が子供で頼りないから、だから閣下はミリアからの連絡が続いていることを話してもくれなかったのだ——そう、指を差して笑われているような気分になった。
私は堪らず席を立つ。
これ以上彼女達の会話を聞きたくなくて、その声が届かないベランダまで逃げてきた。
――そう。
私はまた、逃げてしまったのだ。
次期シャルベリ辺境伯夫人としての重みから逃げ、それを指摘する第三者の声からも逃げ――結局これ以上逃げ場のないベランダまで来てしまった。
ベランダの向こうには庭園が広がっているが、明々と明かりが灯され煌びやかで賑やかな大広間とは対照的に、闇に沈んでひっそりとしている。
とたんに、私は前者にいる自分が堪らなく場違いに思えてきた。
所詮、自分はメテオリット家の落ちこぼれ。
役立たずの子竜に今更翼が戻ったところで、結局は何も変わらないんじゃないか。
卑屈な思いはどんどんどんどん膨れ上がって、私の心を侵食していく。
そんな自分がますます嫌になり、いっそ目の前の闇の中にまで逃げてしまいたくなった。
その時である。
「――ねえ、君。一人かい?」
ふいに、すぐ背後から知らない男の声が上がり、私は弾かれたように後ろを振り返った。
そこにいたのは、やはり面識のない相手。王国軍の白い軍服を着た男だった。
ただし――明らかに酔っぱらっている。
「そのカクテル、もう気が抜けているだろう。新しいのと取り替えてあげよう」
「だ、大丈夫、です」
「遠慮しないで。さあさ、こんな寂しい場所にいないで、あっちで一緒に飲もうじゃないか」
「えっ? いえっ、け、結構です……!」
年は、姉や兄様と同じくらいだろうか。白い軍服は高官の証なので、地位のある人物だろう。
姉や兄様の同僚かもしれないと思えば、無下にもできない。
閣下に持たされたカクテルグラスをぎゅっと握り締め、私はひたすらおろおろする。
そんな私の腕を、白い手袋を付けた男の手が掴もうとした時だ。
「――失礼、少将閣下。妻に、何か御用ですか?」
男の手が私に届く前に、その肩を掴んで止めた者があった。
閣下である。
「酒はほどほどになさいませ。ご自宅では身重の奥方がお帰りをお待ちでございましょう?」
逆光になって彼の表情は見えないが、声はひどく落ち着いている。
反対に、少将と呼ばれた男はさっきまでの赤ら顔から一転、真っ青になった。
「た、たた、大変失礼をっ。シャルロ殿の奥方ということは、まさかこちらのお嬢様は……」
「参謀長閣下の奥方マチルダ様の、可愛い可愛いかわいーい妹君ですよ」
「ひええっ、やっぱり! ご、後生ですから! どうかこのことは、マチルダ殿にはご内密に……っ!」
「そうしたいのは山々ですが――どうやら、手遅れのようで」
そう言って閣下が半身を後ろに引いて身体をずらす。
その拍子に見えた彼の表情があまりに冷ややかで、私は大広間から逃げ出したことを断罪されているような気分になって身を竦めた。
そんな中、閣下の後ろから伸びてきたしなやかな手が、少将と呼ばれた男の首根っ子をむんずと掴む。
手の主は、私の姉マチルダだった。
「ちょっと、少将。あんた何、うちの可愛い可愛いかわいーい妹ちゃんに手ぇ出そうとしてるのよ」
「ひえええ! そ、そんな、やましい気持ちは、けっして! ちょっと、可愛い子と一緒に飲みたいなー、なんて思っただけで……」
「は? パティが可愛いなんてのは今更でしょ? そんな可愛いパティがどうしてあんたに付き合ってあげなきゃいけないわけ? 図々しいにもほどがあるんじゃない? ――嫁に言うわよ?」
「そ、それだけは、ご勘弁をっ!!」
とかなんとか言いつつ、少将を連行していく姉を呆然と見送っていると、ふいに手に持っていたカクテルを奪われる。
はっとして顔を上げれば、いつの間にかすぐ側に立っていた閣下が、それをぐいっと煽ったところだった。
ベランダの側を通りかかった給仕に空になったグラスを渡し、閣下がふうとため息を吐く。
待っているようにと言いつけられた場所から勝手に離れたことを叱られる。そう思って、ビクビクしながら彼を見上げたのだが……
「やっぱり、気が抜けている。それほどの時間、パティを一人にしてしまったんだな……すまない」
「い、いいえっ……いいえっ!!」
思い掛けず閣下に謝られてしまい、私は必死に首を横に振った。
そんな私を、閣下が大広間の喧騒から隠すように抱き寄せる。
急に姿が見えなくなったので心配した、と耳元で囁く声はちっとも怒ってなんていなかった。
ごめんなさい、と囁いて返せば苦しいほどに抱き竦められ、その温もりにほっとしたのも束の間――
「……っ」
先ほどミリアや私のことを噂していた女性達の姿が、閣下の肩越しに目に入った。
そのとたん、胸の中でもやもやとした思いがぶり返す。
――どうして、閣下はミリアから手紙が届いていることを私に教えてくれなかったんだろう。
――いやむしろ、どうして彼女からの手紙を受け取り続けていたのだろうか。
問うのは容易かったが、閣下には閣下の立場がある。
何か理由があるのかもしれないし、私がおいそれと口を挟んでいいことではないかもしれない。
そんな聞き分けのいい振りをして、私はひとまず、もやもやとした思いが外に飛び出さないよう、ぐっと唇を引き結んだ。
それなのに――
「――シャルロ様! お会いしたかった!!」
満面の笑みを浮かべて現れたミリアを目の当たりに瞬間、引き結んだはずの私の唇は呆気なく解けてしまった。
「閣下、どうして――?」




