18話 姉のかけた制約
『うう、ごめん……ごめんね、パティ……』
「う、うん……」
ひとしきり私を咥えて雲の上を飛んだ姉は、しばらくすると頭が冷えたのか、メテオリット家の自室に戻ってきた。
と言っても、豪快に窓をぶち破って入ったので、姉夫婦の部屋はひどい有り様である。
しかも、いまだに竜の姿のまま、姉は篭城を決め込んでしまった。
「おおーい、マチルダー。開けておくれー」
「姉君、パティは無事ですか!?」
扉の向こうでは、兄様と閣下がずっと声をかけているが、姉はまるで卵を抱くみたいに私を抱え込んで応えようとしない。
ひたすら、私に向かって謝罪を繰り返していたかと思ったら、ついにはしくしくと泣き出してしまった。
そんな彼女を、私はただ呆然と眺める。
だって、メテオリットの竜の先祖返りとしても、一家の当主としても、立派なばかりだと思っていた姉のこんな弱々しい姿を目にしたのは初めてのことだったからだ。
聞くところによると、兄様が件の大臣の娘に言い寄られ始めたのは、私が最初にシャルベリ辺境伯領を訪れた直前のことだという。
ちょうど同じ頃に妊娠が判明したこともあり、兄様は余計なことで姉を煩わせないために、大臣の娘とのやり取りを秘密裏に進めたようだ。
そうして、無事大臣一家を地下牢に放り込み、一件落着となったところで、うっかりに定評がある部下の一人がついつい姉の前で口を滑らせて事態が露呈。
今回の騒動に発展したと、いうわけだ。
『別に、リアムが他の女とどうこうなるなんて思ってはいないのよ? 私を煩わせたくなくて黙っていたって話も嘘じゃあないと思う。でも――それでも、嫌だったんだもの』
私から見ても、姉の眷属であり、彼女にぞっこんな兄様が他の女性に目移りするなんて考えられない。
だから、姉が不安を抱く必要なんて微塵もないと思うのだが……
『言ってほしかった』
「え?」
『他の女にこんな風に言われたって。でも、絶対靡いたりしないよって。全然心配ないよって。ちゃんと報告してくれた方がきっとずっと安心できた。……まあ、八つ当たりはしたと思うけど』
「するんだ」
『黙っていられると、やましいことがあるんじゃないかと思ってしまう。リアムを信じたいし信じているけど、でも、でもさ……』
「うん……」
姉の金色の瞳から大粒の涙がボロボロと零れ落ちるのを見て、私は戸惑った。
だって、強くて綺麗でいつも自信満々な姉には、悩みなんてないんだと勝手に思い込んでいたのだ。
そんな彼女でも、こんな風に不安になったりいじけたりすることがあるのだと、目から鱗が落ちるような気分だった。
もしかしたら妊娠中ということもあり、情緒が不安定になっている部分もあるのかもしれない。
とはいえ、私自身、自分の落ちこぼれっぷりに卑屈になるばかりで、今まで姉のことも碌に見ていなかったのではないかと猛省する思いだった。
「お姉ちゃん、泣かないで……」
姉の涙を見ていると、私も無性に悲しくなった。
後から後から溢れてくる雫を掌で拭い、その背中に両腕を回す。
手触りの良いビロードみたいな身体は、何だかいつもより小さく頼りなく感じた。
そんな中、ふいに扉の向こうから、兄様でも閣下でもない声が聞こえてくる。
「パティちゃん。パティちゃんのおねえさん。ぼくの声がきこえますか?」
コンコンと、控え目なノックとともに響いたのは、エド君の声だった。
それまで扉の向こうからの呼びかけにまったく反応しなかった姉が顔を上げる。
そうして、まるで扉の向こうを見通そうかというように、濡れた金色の瞳を細めた。
『……パティ、あれは何? あの子供……私達と少し似た匂いがするわ』
さすがは姉である。エド君が普通の子供ではないことを感じ取っているようだ。
私は、彼は閣下の甥で、シャルベリ辺境伯領の竜神様の眷属で、その力の一端を持って生まれた先祖返りで――そう答えようとして、やめた。
もっと、エド君を語るに相応しい言葉が頭に浮かんだからだ。
「あの子はエド君。私の、新しくできた友達だよ。お母さん思いで、健気で、とっても優しい子。お姉ちゃんにも、紹介したいな」
『そう……パティの友達なの』
とたんに、扉の向こうを見る姉の目が優しくなった。
それにほっとして、私は続ける。
「いろいろあって、ご両親と離れてシャルベリ辺境伯邸に滞在していたの。寂しい思いをしないように、今回一緒に王都まで連れてきたんだけど……」
『ふうん……でも、パティ。あなた、あんな小さい子の相手なんてしたことなかったでしょう? 大丈夫だった?』
「平気だよ。エド君、すごくいい子だもの。それに、エド君と接してみてちょっとだけ想像できたような気がするの。自分の子供が生まれた時のことを」
『……ん?』
閣下との結婚式はおおよそ一月後に行われることが決まっている。
エド君を通して、そう遠からず出会えるかもしれない我が子に思いを馳せた私は、今はまだ何も入っていないお腹を無意識に撫でていた。
その仕草が、ただでさえ情緒不安定な姉の目にどのように映るか――想像できなかったのは、完全に私の落ち度である。
『こ、こここ、子供ぉ!? ――え、うそ! 誰の子供!?』
「だ、誰って……私と、閣下の?」
『パ、パパパ、パティの子供……パティが、あの男の子供を産む……?』
「あの、お姉ちゃん……?」
何だか雲行きがおかしい。
私がそう気付いた時にはもう、姉の瞳孔はきゅっと細く小さくなってしまっていた。
目の前の竜の喉がグルグルと唸り、頭の中に地を這うような声が響く。
『――絶対に、真っ新な身体で花嫁衣装を着させるって、言っておいたのに』
パリン、パリン……
姉が部屋に飛び込む際にぶち破った窓ガラスの残骸が、音を立てて砕け散った。
私は息を呑んで身を竦める。
姉が迸らせた殺気によって、屋敷全体がビリビリと震えた。
マチルダ! と兄様の焦ったような声が扉の向こうから聞こえたのと、鋭い鉤爪が付いた竜の手が私を抱えたのは同時だった。
強靭な足が床を蹴り、真っ黒い竜の身体はまるで大砲の弾みたいに凄まじい勢いで壁に突撃する。
辛うじて扉に突っ込まなかったのは、その向こうにエド君がいたからだろう。
完全に頭に血が上っているように見えて、とっさに幼い彼を傷付けまいとしたのは、姉に芽生えた母性の賜物かもしれなかった。
それはともかく、壁をぶち破って現れた竜に、廊下にいた面々は一様にぎょっとした顔をする。
マチルダ、このやろう! と、屋敷を直さねばならない長兄がまたもや叫んだが、今度ばかりは兄様もそれを諌める余裕がなかった。
姉が、息つく間も無く閣下に飛びかかったからだ。
『――あんた! 私のパティに手を出したのかっ!!』
姉は私を片手で抱いたまま、もう片方の手で閣下を廊下の床に押さえ付けた。
閣下ぁ! と少佐の悲鳴のような声と、緊張をはらんだロイの吠え声が重なる。
「おいおい、私と同じように扱ってはいけないよ。彼は君の眷属じゃないんだから、私のように壊れてもすぐに治らないんだ。パティに泣かれてもいいのかい?」
「お、お姉ちゃん! やめて! 閣下に乱暴なことしないでっ……!!」
兄様は慌てて姉を諭そうとし、私は真っ青になって彼女の腕の中でもがいた。
そんな時、意外にも冷静な閣下の声がその場に響く。
「出していませんよ。出せるものなら出したいですし、正直なところ結婚式まで我慢し続けられるか、不安ですが」
『な、なな……』
「むしろ、姉君に制約をかけていただいておいて、よかったように思います。性急にことを進めてパティを恐がらせるのは本意ではありませんから」
『……ん?』
閣下は逆に、自分を押さえつける竜の両肩をぐっと掴んだ。
さらには、腹筋を使って上体を持ち上げ、姉と額を突き合せて叫ぶ。
「だってパティは、こんっっっなに、可愛いんですよ? 大事にするに決まっているでしょう!? 無防備にすやすや眠る顔の愛らしいことといったら……ご覧になったことはありますか? いや、当然おありでしょうね! あなたはお姉さんですからね!!」
『は? 寝顔を見たことあるかですって!? あったり前じゃないのっ! パティの寝かし付けは赤ちゃんの頃から私の担当だったんだもんねー!!』
「自由に行き来できる部屋のベッドで、あんな可愛い寝顔を晒されて……眺めるだけで手を出さなかった私を、むしろ褒めるべきではありませんか? そうでしょう!?」
『ううううんっ! えらい! よくぞ、堪えたわ! 褒めてつかわすっ!!』
一体これは何が始まったのだろう……。
なんだかんだで、またもや意気投合した閣下と姉に、私は目が点になる。
兄様は苦笑いを浮かべて肩を竦め、げんなりとした顔で「何、この茶番……」と声を揃えた少佐と長兄は気が合いそうだ。
最後にエド君は、ロイの黒い背中を撫でながら、ため息まじりに呟いた。
「おとなって、たいへんだ……」




