17話 姉と義兄
爵位を持つ家ほどではないもののそこそこ大きい屋敷は、ごく少数の――メテオリット家が竜の血を引くと知る先祖代々の使用人の手を借りて維持管理されてきた。
そんな屋敷は今、一階のテラスに突き出たリビングの壁が半壊し、天井の一部からは青空が覗いている。
そして、リビングの真ん中には漆黒のビロードを纏ったような美しい竜がいた。
身体の大きさは馬ほどで、しなやかな四肢の他に大きな翼を持っている。
落ちこぼれ子竜の私とは比べ物にならないほど立派な姿をしたその竜は、白い軍服を着た人間の男を一人、床に組み敷いていた。
金色の鋭い目をギラギラさせ、ぞろりと並んだ牙を剥き出しにして彼を威嚇している。
鋭い爪が掠ったのだろう。男の左の頬が切れて血を流していた。
しかし、恐ろしげな竜に襲われているというのに、彼には少しも取り乱す気配がない。
私はつい先日見たのと同じ光景に一瞬唖然としたものの、すぐに我に返って叫んだ。
「な、何してるの!? ――お姉ちゃんっ!!」
黒い竜は私の姉、マチルダ・メテオリットである。
メテオリット家の現当主であり、始祖の再来と言われる優秀な先祖返りだ。
しかし、私の声に応えたのは彼女ではなく、組み敷かれた男――姉の夫であるアレニウス王国軍の参謀長リアム殿下の方だった。
「おかえり、パティ。ちょっとそこで待っておいで。君の姉さんは今、我を忘れているからね。うっかり君に傷でも付けたら大変だ」
「あ、兄様……でも、兄様が……」
「私は大丈夫。いつものことだよ。シャルロ殿も、せっかく来てもらったのに悪いね。見ての通り、我が家は現在取り込み中だけど――手出しは無用だよ」
「……御意にございます」
リアム殿下――兄様は、腰に提げたサーベルの柄に手をかけていた閣下を笑顔で牽制する。
その間も、黒い竜となった姉はグルグルと低く唸り、鋭い牙が今にも兄様の喉笛を噛み切らんとしているように見えた。
まさに、一触即発。
話には聞いていても、竜となった姉の姿を初めて目にした閣下と少佐の顔はさすがに強張っていた。
エド君なんて、姉の迫力と兄様の血にすっかり怯え、犬のロイの首筋にぎゅっとしがみついている。
ミゲル殿下が連れていた化け物には勇敢に立ち向かったロイでさえ、尻尾を足の間に巻き込んでしまった。
「お、お姉ちゃん……!!」
居ても立っても居られなくなった私は、兄様の忠告を無視して姉に駆け寄ろうとしたものの、後ろから伸びてきた手にいきなり襟首を掴まれる。
前にも同じようなことがあった、と後ろを振り返れば、案の定、閣下と同い年の長兄がいた。
長兄は、前回同様有無を言わさず私を部屋の隅まで引っ張っていく――のではなく、閣下の方へぽいっと投げる。
閣下が難なくそれを受け止めるのを確認すると、半壊したリビングでいまだ姉に組み敷かれている兄様に向かって口を開いた。
「リアム殿下、お早くそのじゃじゃ馬を鎮めていただけませんか。この家に客人を泊める機会なんて滅多にないというのに、こんな有り様では我が家の沽券に関わりますよ」
「心得たよ、義兄殿」
怒りの沸点が低いと定評のある姉のせいで、家の修繕に駆り出されるのが日常茶飯事の長兄は、すでに愛用の大工道具を担いで準備万端。
そんな彼の言葉に、兄様は辛うじて自由な右手をひらひらと振って見せた。
「マチルダ、君の怒りはもっともだ。けれど、私を食らったところでそれが晴れるのか?」
『お前ではなく、お前に粉をかけた馬鹿な女を引き裂けば、少しくらいはこの腹の虫がおさまるかもね』
「うーん、残念だけど、彼女は父親の悪事の片棒を担いだ罪で投獄されたよ。アレニウス王国は曲がりなりにも法治国家だからね。私刑は認められないな」
『ふん、何が法治国家だ。私の可愛いパティを傷付けた王子をろくに裁けなかったくせに、笑わせてくれる』
どうやら政権交代に伴い、それまで違法行為に手を染めて私腹を肥やしていた大臣が失脚し、没落を恐れたその娘が何とか王族に取り入ろうと兄様に色仕掛けを敢行したらしい。
おそらく、王都に残った三人の兄弟の中で一番物腰が柔らかそうに見えたのが、彼が標的にされた理由だろう。
とはいえ、王国軍の参謀長まで務める彼が、そんな浅はかな罠に引っかかるはずもない。
親身になる振りをして大臣の娘に心を許させた兄様は、その父親や仲間の余罪を根刮ぎ聞き出してから、彼女を容赦なく地下牢に放り込んだという。
つまり、兄様は浮気どころか他の女に目移りさえしていないのだが……
『――いっそ、左の目も食ろうてやろうか』
「それは困るなぁ。マチルダの顔も――これから生まれる我が子の顔も、見られなくなってしまうからね」
夫に粉をかけられて腹の虫が収まらない姉は、元凶である大臣の娘を八つ裂きにしたい衝動を抑え切れず、兄様に八つ当たりしているのだった。
竜になった姉の口も人語を発することはできないものの、念話によって普通に会話ができる。
念話は一定範囲に届くため、少なくともこの半壊のリビングにいる全員に聞こえているはずだ。
幼いエド君にはあまりにも刺激が強過ぎるし、閣下や少佐に身内の痴話喧嘩を見られるのが恥ずかしくて堪らない。
私は顔を真っ赤にして、閣下の腕の中から叫んだ。
「お姉ちゃんったら、もうやめてよ! 皆、見てるし聞いてるよっ!!」
『――っ!?』
とたん、今にも兄様に牙を突き立てようとしていた竜の動きがピタリと止まる。
そうして、そろりとこちらを振り返ったかと思ったら、私の姿を認めた瞬間、金色の瞳を零れんばかりに見開いた。
『パ、パパパパパパ、パティ――!?』
竜の姿をした姉が、悲鳴のような声を上げる。
その衝撃によって、辛うじて無事だったリビングの窓ガラスが、ここにきてパリンパリンと軒並み砕け散った。
「うわっ……くそっ! マチルダ、このヤロウ!!」
「義兄殿、暴言はいただけないな。パティと幼子の前だよ」
修理の負担を増やされた長兄が涙目で悪態をつき、兄様が暢気にそれを窘める。
けれども、我に返った姉にはそれに構う余裕もないらしい。
私や閣下達客人を見て、あわあわと一通り慌てた姉は、やがて翼を持ち上げて羽ばたかせ始めた。
ちんちくりんの子竜のものとは比べ物にならない、大きくて頑丈な翼だ。
それが巻き起こす強風に煽られて、半壊して出た瓦礫から埃が舞い上がった。
居合わせた面々は、私を含めてとっさに目を瞑る。
その時だった。
「――え?」
ぐいっ、いきなりと首の後ろを引かれ、私は意図せず閣下の腕の中から抜け出した。
かと思ったら、次の瞬間には足の裏が床から離れる。
バサリッと大きく翼が羽ばたく音が、すぐ真上から聞こえてきた。
対して、パティ! と私を呼ぶ閣下の慌てた声は、たちまち遠のく。
「えええええっ!?」
姉に首根っ子を咥えられて、穴が空いた天井から外へ飛び出したのだと気付いた時には、私はもう雲の上にいた。




