16話 閣下と王都へ
カタタン、カタタン……
赤く染まっていた空がすっかり群青色に塗り替えられた頃、汽車は小麦畑の間をひた走っていた。
散りばめられた星々が煌めいて、空がよく晴れているのが分かる。
進行方向を向いて座った私は、車窓に切り取られたそんな景色を眺めつつ、膝の上にある栗色の小さな頭を撫でた。
ふいに向かいの席から、くすり、とかすかに笑う気配を感じる。
不思議に思って顔を上げれば、青空の色をした瞳とかち合った。
「パティとエドを見ていると、ついつい未来に思いを馳せてしまうね」
「未来、ですか?」
この日、私は閣下とエド君とともに、午後七時発の王都行き最終汽車に乗り込んだ。
アレニウス王国の王都はシャルベリ辺境伯領から見て北の方角にある。
汽車が出発してしばらくは、窓ガラスに貼り付くようにして外の景色を楽しんでいたエド君だったが、はしゃぎすぎたのか、持ち込んだ夕食を食べ終わる頃にはうとうととし始めた。
お馴染み、首長竜のぬいぐるみアーシャが詰まったリュックを抱き締めて眠る彼に、私は膝枕をしていたわけだが、それを眺めた閣下が笑みを深める。
「そうやって、パティが我が子を寝かし付ける姿を想像してしまう。もちろん、その子の父親は私以外にはありえないんだけどね?」
「私と閣下の、子供……」
昨夜閣下は、姉に釘を刺されたため、結婚式を挙げるまでは私に手を出せないと言った。
とはいえ、私達の結婚式の予定はおおよそ一月後――もう、すぐだ。
それが済んだら姉への義理立てという制約はなくなる。
そう考えると、閣下の言う未来が訪れるのはそう遠くないような気がして、私は何だか照れくさいような心地になった。
「か、閣下は、子供はお好きですか?」
「もちろん。子供は無条件で可愛いよね。パティはどうだい?」
「私は、その……一族の末っ子でして、自分より小さな子が近くにいなかったので、どう接していいのかよく分からなかったんですけど……エド君を見ていると、すごく可愛いなって思います」
「そうか。ではきっと、自分の子供もとても可愛く思えるんじゃないかな」
閣下はにこにこして、エド君の髪ではなく私の髪を撫でながら続ける。
「私達の子供の髪は、何色になるのだろうね。顔は、私とパティどっちに似るのかな? 男の子でも女の子でも、どちらでも大歓迎だけど……」
「閣下、気が早いですよ……」
「そうは言うけどね、パティ。もしも女の子で、いつかお嫁に出さなければならないと思うと……うん、ダメだ。今からもう、胃が痛くなりそう……」
「気が早過ぎますからね!?」
とたんに、胃の辺りを押さえて青い顔をする閣下に、私はあたふたする。
慌てて向かいの席から腕を伸ばして彼の鳩尾を撫でようとするも、その手をぎゅっと捕まえられてしまった。
「パティの姉君の気持ちがよく分かるよ。こんな可愛い子を手放すなんて、それこそ身を切られるような思いだろう」
「閣下……」
「それでも、私もこればかりは譲れない。どれだけ姉君に辛い思いをさせてしまうとしても、私は絶対にパティを貰い受けるからね?」
「は、はい……」
きっぱりと宣言した閣下は、エド君が眠っているのをいいことにそっと顔を近づけてきた。
私は頬が熱くなるのを感じながら、慌てて両目を閉じる。
そうして、互いの唇が触れ合いそうになった――その時だった。
「あのー。すみませんけど、そういうのは二人っきりの時にやってくれませんかね?」
閣下の背後から聞き覚えのある声が降ってきて、私はきゃっと悲鳴を上げる。
「……ちっ」
「あっ、舌打ちした! パトリシア嬢、聞きました? 閣下、今舌打ちしましたよね!? うわー、大人げないっ!!」
「うるさいぞ、モリス。静かにしないか。他の客に迷惑だろうが」
「迷惑なのは、周りの目を気にせずいちゃつき出した閣下の方ですからっ! それに――他の客も何も、周りにいるのはみーんな身内でしょーがっ!!」
呆れた顔をしてそう言ったのは、お馴染み閣下の腹心、モリス・トロイア少佐だった。
少佐は今回、戴冠式に出席する閣下に随行する。
さらには彼の言う通り、周囲の座席どころかこの一等車両丸ごと、シャルベリ辺境伯軍が借り切っていた。
普通ならケージに入れられた上で貨物室に乗せられるはずの犬のロイも、客車の床で寛いでいる。
他に乗車しているのは、戴冠式の最中、王都を警護する王国軍の応援任務に就く一個小隊、総勢六十人。
これを率いるのは、数日前の事件――前国王陛下の第四王子ミゲル殿下が化け物と成り果てた犬とともにシャルベリ辺境伯領に侵入した際、南のトンネルを守っていた中尉だった。あの時バリケードの下敷きになった十名も、今回の王都行きに選ばれている。
これは偶然ではなく、末弟が迷惑をかけたことに対する新国王陛下の配慮によるものだった。
「こちとら、臨月の奥さんを残して仕事しに来てるんですよ! 閣下だけいちゃこらするの、ずるいと思いまーす!」
「だって、仕方がないじゃないか! パティはこんなに可愛いんだぞっ!!」
「パトリシア嬢が可愛いのは仕方ないにしても、閣下は自重しろってんですよっ!!」
「ばっかもん! 私にだって、できることとできないことがあるんだよっ!!」
なおも騒がしい閣下と少佐のやり取りに、どうやら慣れっこらしいシャルベリ辺境伯軍の軍人達は苦笑いを浮かべている。
そんな中、私の膝に頭を預けて眠っていたエド君が身じろいだ。
「んん……うるさい……」
「あっ、エド君……起きちゃった?」
エド君は、目を擦りながらのろのろと身体を起こす。
そして、閣下と少佐をじとりと見上げて口を開いた。
「汽車の中ではおしずかに。シャルロおじさんも少佐さんも、おとなでしょう?」
「「――申し訳ありませんでした」」
とたん、一等車両はどっと笑いに包まれた。
東の空が白み出した頃、汽車はようやく小麦畑を抜けた。
すぐに大きな湖に差し掛かり、それを迂回するように、北西に向かって線路が大きく曲線を描き始める。
かと思ったら、汽車は湖の外周を四分の一ほど行った所で速度を落とし出し、やがて止まった。
眼前の湖は、アレニウス王国最大の湖として観光名所になっている。
そのため、どの汽車も停車する大きな駅が作られていた。
機関士や機関助士の休憩を兼ねてしばらく停車するということで、私は閣下に誘われて汽車を降りてみた。
一月前に初めてシャルベリ辺境伯領へ向かう際も、数日前に一時王都に戻った際も、私が乗った汽車はこの駅に止まったのだが、ホームに降り立ったのは今回が初めてである。
だだっ広いホームの前は一面に湖が広がり、上り始めた太陽の光を受けて水面がキラキラと輝いていた。
その光景に見惚れていた私だったが、ふと、あるものが目の端に入る。
それは、湖の縁に突っ立つ、巨大な一本の木だった。
「あれっ……ここって、もしかして……?」
「パティ、どうかしたかい?」
「パティちゃん、どうしたの?」
立ち止まった私に、閣下とエド君が首を傾げた――その時。
「ガアッ! ガアッ!」
濁った鳴き声を上げながら、木の上から真っ黒いものが降りてきた。
一羽の大きなカラスである。
思い出すのは、数日前。王都からシャルベリ辺境伯領を目指して飛んでいた時のことだ。
雲の上で雁の群れに追い払われ、錐揉み状態で落下してきた子竜の私を受け止めてくれたのが、湖の縁に立つあの巨大な木だった。
その際、大きなカラスと鉢合わせ、あわや一触即発というところまでいったのだ。
そう閣下とエド君に打ち明けていると、少し離れた場所に降り立ったカラスがぴょんぴょんと跳ねて私に近づいてきた。
「ガア!」
「ひえっ!?」
もしかしたら、目の前にいるのは件のカラスで、しかも私があの時の子竜であると勘付いているのだろうか。
ギョロギョロとしたガラス玉みたいな目は、閣下でもエド君でもなく、私をまっすぐに捉えていた。
おののく私を、すかさず閣下が背中に庇う。
エド君もぴったりと隣に寄り添い、私の手をぎゅっと握ってくれた。
「そこの真っ黒いの。パティをいじめたら、承知しないぞ」
「パティちゃんをいじめたら、ぼくだってゆるさないぞ!」
頼もしい二人のナイトに守られて、私はほっと安堵のため息を吐く。
そんな人間達をカラスは白けたような顔をして――実際そう見えた――眺めていたが、ロイが吠えながら駆けてくると慌てて空へ飛び上がった。
*******
私達を乗せた汽車は、正午過ぎに王都の駅に到着した。
王国軍に合流する中尉率いる小隊と別れ、私と閣下とエド君、それから少佐とロイは、馬車を拾って一路メテオリット家を目指す。
閣下を案内する旨を綴った私の手紙に、歓迎するとの姉からの返事が一昨日届いていたのだ。
アレニウス王家の末席に連なるメテオリット家は、王都の南に邸宅を構えていた。
汽車の発着駅からは、王城までまっすぐに伸びた大通りを馬車で半時間ほどのところにある。
自分の生まれ育った家に閣下を案内し、改まって家族に紹介するのだと思うと、何だか少し照れくさいような、それでいてわくわくするような、落ち着かない心地であった。
ところがである。
「お、お姉ちゃん……」
せっかく閣下達を連れて戻ってきた数日ぶりの我が家は、またしても修羅場のまっただ中であった。




