15話 小さなお友達同士
時刻は午後十時を回り、雨足はますます強くなっていた。
「パティ、本当に大丈夫なのか? こんな雨の中でも飛べるのかい?」
「ぴい!」
掃き出し窓を開いて外に飛び出せば、たちまち雨粒が顔に打ち付けてくる。
夜の闇も相俟って、視界はすこぶる悪かった。
けれども、心配性な閣下の手が伸びてくる前に、私はベランダの手すりによじ登って、背中の翼を目一杯に広げる。
大丈夫。へっちゃらだ。
シャルベリ辺境伯領に迫る危機を知らせるために、再生したばかりの翼で遥々王都から飛んできた時に比べれば、このくらいの雨なんて雑作もない。
そう自分を鼓舞しながら、私は翼を大きく羽ばたかせた。
「はわっ……パティが、とんでる!! とうといっ……!!」
何やら語彙力がお亡くなりになった様子の閣下に見送られつつ、子竜の身体は宙へと飛び上がる。
そういえば、閣下の前で翼を広げて飛んだのは、これが初めてかもしれない。
雨が降りしきる中でベランダから身を乗り出すものだから、せっかくお風呂に入ったばかりなのに、閣下はまたもやずぶ濡れになっていた。
私は翼に打ち付ける雨に四苦八苦しながらも、どうにかこうにか三階から二階のベランダへと飛び移る。
すぐさま屋根のあるところまで逃げ込むと、犬がするみたいにブルブルと全身を振って水滴を飛ばした。
そうして、掃き出し窓のガラス越しに部屋の中を覗き込む。
幸いだったのは、カーテンが閉め切られていなかったことだ。
おかげで、室内の様子はしっかりと見えた。
『エド君……』
はたしてエド君は、部屋の角に置かれたベッドの上にうつ伏せになっていた。
眠っているのかとも思ったが、メテオリットの竜譲りの耳をよくよく澄ませてみれば、かすかに嗚咽が聞こえてくる。
空の上では雲が渦巻き風を吹かせ、雨をじゃんじゃん降らせ続けていた。
竜神の力を受け継いだ先祖返りの心そのままに、シャルベリ辺境伯領の空は今も悲しみに包まれている。
『エド君っ、エド君っ……!!』
私はエド君の名を呼びながら、小さな子竜の手を拳にして窓ガラスを叩いた。
すると、音に気付いたのか、エド君がベッドに突っ伏していた顔を上げる。
泣き腫らして真っ赤になった彼の目を見てしまい、私の気持ちはますます逸った。
エド君の方も、まさか子竜姿の私がベランダからやってくるとは思わなかったのだろう。
しかも、ただでさえちんちくりんなのに、雨でびしょ濡れになっていっそう情けなく見える子竜を、優しい彼が放置できるはずがない。
「パティちゃん? どうしたのっ!?」
手の甲で涙をぐいっと拭ったエド君は、大急ぎでベッドから飛び降り、窓辺に駆け寄ってきた。
小さな身体で大きな掃き出し窓を苦労して開いて、私を部屋の中へ招き入れてくれる。
さらには、浴室から持ち出してきた大判のタオルで、子竜の身体を包み込んで拭いてくれた。
そうしながら、どうしたの? と再び問うエド君に、私は涙の跡が残るその頬にペタリと片手を当てて口を開く。
『エド君と一緒にいたくて来たんだよ』
「え……?」
『だって、エド君が一人で悲しんでいると思うと、私も悲しくて仕方がないんだもの』
「ぼくが悲しいと、パティちゃんも悲しいの……?」
エド君の虹色の瞳が大きく揺れた。
まっすぐにそれを見上げて、私は大きくこくりと頷く。
それから、ぴょんと飛び上がって彼の首筋に抱き着いた。
『悲しいよ。だって、エド君が大切だもの。大切な人が悲しい時は側にいたいよ』
「ぼくが、たいせつ……? パティちゃんは……ぼくのこと、好き……?」
『好きだよ、大好き。だってエド君は、私が竜になっちゃってもお友達でいてくれるでしょう?』
「……っ、うんっ! ぼくもパティちゃんのこと、人間でも竜でも、大好きっ!!」
エド君の華奢な腕が、子竜の身体をぎゅうと抱き締め返してくれる。
それを皮切りに彼の小さな口から溢れ出したのは、切ないほどに健気な言葉の数々だった。
いい子で待っている――そう、カミラ様と約束したから、悲しくても我慢するんだ、と。
お母さんに会いたい。でも、我が侭を言って皆を困らせるのは〝いい子〟のすることじゃないから、泣き顔は誰にも見せてはいけないんだ、とエド君は言った。
さっきタオルで拭ってもらったはずの私の肩が、今度は彼の涙によって濡れていく。
私はうんうんと頷きつつ、じゃあ、と口を開いた。
『今夜泣いちゃったことは、エド君と私だけの秘密にしよう。その代わり、もう一人で悲しい思いをするのは無しだよ?』
「パティちゃん……いっしょにいてくれる?」
『うん。私、今夜はエド君のお部屋にお泊まりしてもいいかな?』
「うんっ、いいよっ……」
それからエド君はひとしきり泣いて、泣いて、泣き疲れて、私と首長竜のぬいぐるみアーシャを抱き締めたまま眠りに落ちた。
私が子竜の姿でエド君に会いに来ていることは、閣下が伝えてくれたのだろう。
廊下側の扉の向こうから呼びかけていた奥様の声は、いつの間にか聞こえなくなっていた。
窓ガラスを叩いていた雨粒もだんだんと小さくなり、やがて風が吹く音もしなくなる。
しとしととしめやかに降り注ぐ雨も、きっと朝にはすっかり上がっているに違いない。
すうすう規則正しいエド君の寝息を聞いているうちに、自然と私も眠りに誘われていった。
*******
次の朝。
カーテンが開きっぱなしの窓から出し込む日の光に瞼をくすぐられ、私は目を覚ます。
何も着けていなかった身体に慌ててシーツを巻き付けて上体を起こすと、見計らったように廊下側の扉がノックされた。
「おはよう、パティちゃん。ぼくが出るよ」
私が身じろいだことで目を覚ましたエド君が、すかさずベッドから飛び降りて扉の方に駆けて行く。
寝起きのその顔には、昨夜の涙の気配もなくなっていてほっとする。
そんな中、鍵を外して扉を開いたエド君を、廊下から伸びてきた二本の腕がひょいと抱き上げた。
「おはよう、エド」
「おはよう、シャルロおじさん」
扉をノックしたのは閣下だった。
部屋の中を覗き込み、私と目が合うと、全て心得ているとばかりに頷いてみせる。
閣下は昨夜のことについては何も触れないまま、エド君に告げた。
「エド、レイラおばさんとイザベラおばさんから手紙が来ていたぞ」
「おばさんたちから? 何だろう……」
正確には、カミラ様とエド君に対して連名で宛てた手紙だったが、閣下はそれを広げながら続ける。
「従兄弟達が、ぜひともエドに会いたいと言っているそうだ。――そういうわけだから、エド。お前も行くぞ」
「いくって、どこへ?」
「王都だよ。私とパティと一緒に、王都へ行こう」
「おうと……?」
この翌日、私達は数日前に姉夫婦が乗ったのと同じ、王都行き最終汽車の一等車両に乗り込むことになった。




