14話 ドキドキさせて
その夜は、嵐になった。
まさしく、バケツを引っくり返したような土砂降りで、大粒の雨が激しく窓ガラスを叩いている。
貯水湖の水量を警戒するよう指示を出した閣下が、軍の施設からシャルベリ辺境伯邸へとずぶ濡れになって戻ってきた。
「戴冠式が終わったら、邸と軍の施設の間に屋根付きの渡り廊下を作る工事に着手しよう。絶対そうしよう。父さん、かまいませんよね?」
「その頃にはお前がここの当主だ。私に断らずとも、好きなようにするといい」
そんな閣下と旦那様の会話を聞きながら、私はまったく別のことを気にしていた。
私が閣下と婚約を交わすまで寝起きしていた、シャルベリ辺境伯邸二階東向きの角部屋。そこは、現在エド君のための客室となっている。
母親であるカミラ様がオルコット家に戻ってからは、毎晩枕を持って私の部屋を訪れていた彼が、今夜は一人で眠ると言って客室に入ったのが午後九時前のこと。
雨は、その直後から降り出した。
「エドの様子はどうなんですか?」
「扉に鍵をかけて部屋に引き蘢っている。声をかければ、大丈夫だと答えが返ってくるものの、どうにも泣いているようでな……」
閣下と旦那様が難しい顔をしてそう言い交わす。
エド君の部屋の前には奥様が陣取って、優しく声をかけ続けているが、鍵が開く気配はなかった。
外から鍵を開いて中に踏み込むのは簡単だ。だが、エド君本人が大丈夫だと答えている以上、余計な干渉をすれば彼の自尊心を傷付けかねない、と大人達は二の足を踏んでいた。
「昼間は随分はしゃいで、元気そうに見えたんですけど……」
「夜になると、母恋しさが増すのだろう。何しろ、あの子はまだ五歳だからね」
私も奥様と一緒に扉越しに声をかけてみたものの、結果は同じだった。
明らかに濡れた声で、大丈夫と言わせるのがかえって辛くて、閣下が戻ってきたのを機にすごすごと私室のある三階に引き上げてきた。
三階東向きの角部屋である閣下の私室は、ちょうどエド君がいる客室の真上に当たる。
私はお風呂から上がってきた閣下にお茶を用意しながら、一人で涙を零しているであろうエド君の姿を想像してため息を吐いた。
ぱちゃぱちゃと、大粒の雨がいまだ窓ガラスを叩いている。
(せめて窓越しにでも、エド君の顔を見て話ができればいいのに……)
エド君が、祖父母にも甘えずに一人で泣いている理由は何だろう。
生まれつき身体が弱くて、これまでの人生の大半をベッドで過ごさざるを得なかった自分を、彼はオルコット家の跡継ぎとして落ちこぼれだと感じているようだった。
『もっと、からだが丈夫だったらよかったのに……そしたら、おかあさんを安心させてあげられるのに……』
そう呟いた、いじらしい姿が忘れられない。
エド君はきっと、一人でも大丈夫だったと言って、戻ってきたカミラ様を安心させたいのだろう。
だから、旦那様にも奥様にも、閣下にも、そして私にも――誰にも縋って泣くことができないのだ。
私はぎゅっと胸が苦しくなった。
人じゃなくて、例えば犬のロイやアーシャに憑依した小竜神だったら、少しは彼の側に寄り添えただろうか。
けれども生憎、ロイはすでに少佐と一緒にトロイア家に帰宅してしまったし、小竜神は今日は竜神の神殿から離れていないようだ。
他に誰か、人以外でエド君と親交のある生き物はいないか――そんな風に考えていた時である。
はた、とあることに思い至った私は、慌てて閣下に声を掛けた。
「閣下――私をドキドキさせてもらえませんか!?」
「――ん? うん!? パティ、何だって!?」
「私を、すっっっごくドキドキさせてほしいんです! 心臓が、飛び出しちゃうくらいにっ!!」
「うんんんんっ!?」
私の言葉にぎょっとしたらしい閣下の手から、バサバサと手紙が落ちる。
彼はちょうどこの時、シャルベリ辺境伯軍司令官宛ではなく、個人名に宛てて届いていた郵便を確認している最中だった。
慌てて手紙を拾ったものの、そのうちの一通が目に留まったとたんに顔を顰め、封も切らずに屑篭に放り込んでしまう。
そうして、気を取り直すみたいに一つ咳払いをしてから、私に向き直った。
「まさかとは思うけれど、私を誘っているわけではないよね?」
「誘って……? えっと、それはどういう意味で……」
「いや、いい……いいんだよ。それで、パティはどうしてドキドキさせられたいんだい?」
「子竜になるためです。子竜になって、窓の方からエド君の部屋を訪ねてみようと思うんです」
私の答えに、「そういうことか」と苦笑いを浮かべた閣下は、何故だかほんの少しだけ残念そうに見えた。
とはいえ、子竜の姿でエド君に接触してみようという試みには賛同が得られたようだ。
どうやって私をドキドキさせようか、と両腕を組んでうんうんと唸り始める。
私も私で、どんなビックリなことをされるのか、とすでにドキドキしながら構えていたのだが……
「えっ?」
ふいに、ひょいっと抱き上げられて両目を丸くした。
ただし、まだまだ子竜化には至らない。
そのまま閣下のベッドに運ばれて、仰向けに転がされたのには流石に心臓が飛び跳ねた。それでも、まだ子竜になるには足りない。
高鳴る胸を両手で押さえつつ、自分の身体を跨いで覆い被さってきた相手に両目をぱちくりとさせた。
閣下は私の頬を両手で包み込むと、空色の瞳でじっと見下ろしてくる。
私はそれをおずおずと見返しながら、乾いた唇を無意識に舐めた。
とたんに目を細めた閣下が、ぐっと顔を近づけてくる。
思わず私が目を瞑ったのと、唇が触れ合ったのは同時だった。
「ん……」
そのままゆっくりと、閣下の身体が伸し掛かってくる。
対照的に、柔らかく重ねられていただけの唇は離れていった。
けれども、少し首を傾ければ再び触れ合いそうな位置に留まり、くすりと苦笑いを浮かべる。
「まるで、自制心を試されているようだよ。一つ屋根の下どころか隣の部屋――しかも、続きの間でパティが寝起きしているのに、キス以上のことができないなんてね」
「キ、キス以上……」
「実は、姉君に釘を刺されているんだ。パティには絶対に、真っ新な身体で花嫁衣装を着させるってね。つまり、式を挙げるまで私は君に手が出せない」
「お、お姉ちゃんったら、いつの間に……」
初めて聞いた話に驚きつつ、姉が釘を刺さなかったら自制なんてするつもりはなかった、と言外に宣言されたような気がして、私はどぎまぎする。
とたんに、伸し掛かる閣下の重みが、体温が、香りが――何もかもが恥ずかしくなった。
ぴったりとくっ付いた胸から、私の拍動が閣下にまで伝わっているに違いない。
全身を駆け巡る血液が激しさを増し、いよいよこの身が子竜に転じるかと思われた――その時だった。
……ポトッ
ベッドに仰向けに寝かされた私の顔の真横に、ふいに何かが落ちてきた。
とっさに顔を傾けてそれの正体を知ってしまった私は、次の瞬間悲鳴を上げる。
「きゃああっ!?」
「わっ、何だ? ――クモ!?」
そこにいたのは、クモだった。無毒だが、足を広げれば私の掌くらいある大きなクモだ。
それを、何の心の準備もなく至近距離で目撃してしまったのだ。
この後の展開は、容易く想像できるだろう。
「ええっ、パティ!? そんなっ……嘘だろう!?」
閣下が思わずといった様子で悲鳴を上げる。
私の心臓を早鐘を撞くみたいに拍動させたのは、確かに閣下だった。
けれども、決定的なドキドキを与えたのは――結局、クモだったのだ。
「……」
「ぴ、ぴい……」
すっかり脱力してしまった閣下が、ベッドに突っ伏す。
その身体の下から這い出した私は、小さな子竜の手で彼の頭をよしよしすることしかできなかった。




