5話 思わぬ遭遇
シャルベリ辺境伯邸には、表門から屋敷にかけて見事な庭園が広がっている。
庭園の中は、薔薇の生垣に囲まれた通路が幾何学模様を描くように造られており、その内の一本を進んでいた旦那様がふいに私を振り返って口を開いた。
「パティ、妻のわがままに付き合わせてすまないな」
「……いえ」
奥様による、私のシャルベリ辺境伯領滞在続行宣言から早一週間。
私は初日に案内されたシャルベリ辺境伯邸二階東向きの角部屋で、相変わらず寝起きしていた。
〝私のお客様として〟との言葉通り、この一週間、奥様と過ごした時間が一番長い。
次点はもちろん、足の不自由な彼女に寄り添う旦那様だ。
いかにも軍人然とした風体の旦那様が、こまごまと奥様の世話を焼く姿は見ていて微笑ましい。
今日なんて、午後三時から庭園で開かれている奥様主催のお茶会の給仕役まで買って出ていた。
かしましいマダム達にやいのやいの言われながら、まるで定規で計ったかのようにホールケーキを正確に七等分する旦那様は拍手喝采したいくらいだった。
今もまた、紅茶のお代わりを所望する彼女達のため、空のポットを抱えて屋敷の厨房に向かっている最中である。
完全に奥様の尻に敷かれている旦那様の姿に、同じく母に頭が上がらない父の哀愁漂うシルエットを重ねてしまった私は、思わずその背を追っていた。
ともあれ、一週間前のあの朝、私はシャルロ閣下の空々しい態度に心底がっかりし、一刻も早く王都に帰りたいと考えていた。
だから、旦那様には本当は、私を引き留めようとする奥様を窘めてもらいたかったのだが……
「ようやく隠居の目処が付いて、妻のために存分に時間を使えるようになったんだ。私は、可能な限りあれの願いを叶えてやりたいと思っている」
六年前に長男であるシャルロ閣下に譲るまで、辺境伯位とともに辺境伯軍司令官をも兼任していた旦那様の日常は多忙を極めていた。
その結果、子育ては奥様に任せっきりで、なかなか家庭を顧みる余裕がなかったのだという。
奥様の足が不自由になったのは、二十年前に起きた不幸な事故が原因だった。
シャルベリ辺境伯邸は築二百年を数える古い建物で、老朽化によりベランダの手すりが壊れていたらしい。
三階のベランダから落ちた奥様は、幸い命に別状はなかったが、後遺症により自力での歩行が困難になってしまった。
私の当初の縁談相手であるロイ様が生まれたのは、ちょうどその頃だという。
それでも立派に彼を育て上げた奥様を、私はただただ尊敬する。
「そんなロイも、ついに自立して家を出た。親としては喜ぶべきなのだろうが……妻はあれを殊更可愛がっていたものだから、裏では随分と寂しがっていてな。パティには申し訳ないが、もう少しだけ付き合ってやってはもらえまいか」
厳つい眉を八の字にした旦那様にそんな風に請われてしまえば、私はもう黙って頷く他なかった。
ところで、不本意ながらも一週間をシャルベリ辺境伯邸で過ごした私には、朝食と夕食の時にだけ顔を合わせる相手ができた。
何を隠そう、シャルロ閣下である。
私をシャルベリ辺境伯領に引き留めた奥様に対し、表立って異を唱える様子はなかった閣下だが、私が同じ屋根の下に居続けていることを本当は煩わしく思っているかもしれない。
そんな相手とわざわざ親交を深めようなんて気は微塵も起きなかったから、私と彼の関係は良くも悪くも初対面の時から変わっていなかった。
それに、同じ屋根の下と言えば……
「神殿の屋根を修繕する間、竜神の石像はこちらで保管されるとおっしゃっていましたよね。もう、移動は済んだのでしょうか?」
「ああ、今日の午前中に完了したと聞いている。――なんだ、パティは竜神の石像に興味があるのか?」
旦那様の問いに、私は大慌てで首を横に振った。
とんでもないことだ。むしろ、石像の保管場所付近には絶対に近づきたくない。
「旦那様は、竜神そのものの姿をご覧になったことはおありなんですか?」
「いいや、はっきりと目にしたことはないな。天気が荒れている日などは、何となく空に気配を感じることはあるが……」
旦那様の話によれば、眷属であるシャルベリ家の人間の前にも、竜神がおいそれと姿を現すことはないらしい。
シャルベリ家の人々にとっての竜は、メテオリット家にとってのそれとは違って、全然身近な存在ではないようだ。
しかし、それも致し方ないことだろう。
だってシャルベリ辺境伯領の竜は、少なくとも六人の生け贄の乙女を食らい、七人目に至っては連れ去って娶ったという話だ。しかも、生け贄は全員、その時代時代のシャルベリ家当主の娘であるという。
犠牲となった娘達を悼み祀るための霊廟が、シャルベリ辺境伯邸の庭園の一角にひっそりと建てられている。
彼女達の命を対価として人間の願いを叶えた竜は神となり、崇められると同時に畏れられる存在となった。
その成り立ちが、人間社会に溶け込んで共生を図ったメテオリット家の竜とはどうあっても相容れない。
だからこそ、私は竜神も、その縄張りであるシャルベリ辺境伯領に来るのも恐ろしかったのだ。
馬車の窓から石像の鋭い目を垣間見た時の、あの身の毛がよだつような感覚が今でも忘れられない。
冷たい汗が背筋を流れ落ち、全身がぞくぞくとしてーー
(そう、ちょうど今みたいな感じ……)
そう思いかけて、私ははっとする。
唐突に、視界の端を何かの影が過った。
「えっ……なに……?」
それは、いきなりのことだった。
蛇に睨まれた蛙みたいに私の全身はたちまち硬直し、足なんてその場に縫い付けられたかのように一歩も動かなくなった。
前を歩く旦那様は、そんな私の様子に気付かないままどんどんと離れていってしまう。
一方、逆に近づいて来るのは、ふよふよと宙にたなびく一本の太い縄のように見える物体だった。
その表面は虹色に輝く鱗らしきものに覆われていて、片方の先端には頭が付いている。
竜の先祖返りらしく常人より視力がいい私には、その大きく裂けた口の中にぞろりと並んだ牙まで分かった。
ギョロリとした二つの目玉が私を真っ直ぐに捉えているように感じるのは、できることなら気のせいだと思いたい。
だって近づいてくるのが、今さっき旦那様との話題に上った竜神の石像――それにそっくりな、竜だったからだ。
「ーーっ!!」
もはや悲鳴を上げる余裕もない。
私は硬直していた両足をやっとのことで地面から引き剥がすと、すぐ目の前の小道に飛び込んで一目散に駆け出した。
この時、私が背を追うなり声をかけるなりして旦那様に助けを請わなかったのには理由がある。
竜が明らかに進行方向から迫って来ているというのに、旦那様が無反応だったからだ。
これにより、旦那様にはあの竜の姿が見えていないのではないかと思い至る。
常人の目に映らないものが見えてしまうというのは、メテオリット家の先祖返りにとってはよくあることだった。
「はあっ……、はあっ……」
私はとにかく、がむしゃらに走った。
小道がどこへ通じているのかも分からないまま、ひたすら足を動かす。
さっきまで旦那様と歩いていた通路よりも格段に道幅が狭くなり、振り抜いた腕が垣根で擦れてあちこち痛かったが構ってなんかいられなかった。
それからどれくらい経っただろう。
走り疲れて足の動きが鈍ってきた頃、私はようやく立ち止まって背後を振り返った。
幸いなことに、虹色に輝く竜の姿は見当たらず、ぐるりと周囲を見渡してもその気配は感じられない。
何とか振り切れたようだ、と私はひとまず安堵のため息を零した。
しかし今度は、竜と遭遇した恐怖と全力疾走したことによって、自分の鼓動がひどく乱れていることに焦りを覚え始める。
心拍数が急激に上昇した場合、望むと望まざるとにかかわらず子竜の姿へ転じてしまう恐れがあるからだ。
自分に与えられた客室や事情を把握している旦那様と奥様の私室でならともかく、シャルベリ辺境伯邸の敷地内とはいえ、こんなどこなのかも分からない場所で子竜化してしまっては一大事。
翼がなく、よちよちと歩くことしかできない私が、人目に付かずに客室に戻るのは容易ではないだろう。
とにかく人間の姿を保つため、鼓動を落ち着かせる必要がある。
私は近くの茂みの中に潜り込み、両目を閉じてゆっくりと深呼吸をし始めた。
「はー……、はー……」
呼吸のリズムが一定になれば、それに比例して徐々に心拍も整っていく。
むやみやたらと人前で子竜化してしまわないよう、こうして自分を落ち着ける方法を私に叩き込んだのは、姉のマチルダだった。
他の先祖返りのように大人の竜の姿にもなれず、己を制御することもできない。
そんな落ちこぼれの妹を、姉は一度だって馬鹿にしたことはなく、それどころかいつも心配ばかりしていた。
優しくて綺麗でかっこいい姉のことは大好きだ。けれども、彼女が変身する美しい竜の姿を思い浮かべれば、針で突かれるみたいに胸が痛んで仕方がない。
羨ましいし、妬ましい。
同じ親から生まれた同じ先祖返りなのに、始祖の再来と謳われるほど優秀で美しい姉と、落ちこぼれでちんちくりんの私。劣等感に苛まれるなというのが無理な話だ。
姉ならば、シャルベリ辺境伯領の竜神だって恐れたりしないだろう。
それに比べて私は逃げ惑ったあげく、こんな茂みに飛び込んで息を殺している。メテオリットの竜の誇りも何もあったもんじゃない。
どんどん膨らんでいく卑屈な思いに、私の心は圧し潰されそうになっていた。
「もう、いやだ……帰りたい……」
泣き言を漏らしつつ両の膝を抱え込み、繭みたいに身体を丸めて自分を守ろうとする。
この時、周囲への注意が散漫になってしまったのは否めない。
ガサガサと茂みを掻き分ける音がするのに気付いたのは、それが自分のすぐ側まで迫ってからのことだった。
ガサッ、と一際大きな音がして、目の前の茂みが揺れる。
私がひゅっと息を呑んだその瞬間、真正面から飛び出してきたのは……
「ーーわんっ!」
真っ黒い犬の真っ黒い顔だった。
吼えた拍子に見えた口の中、ぞろりと並んでいたのは竜もかくやといった鋭い牙。
またしても悲鳴を上げることさえできなかった私の胸の奥では、心臓がひっくり返りそうなくらいに大きく跳ね上がる。
あっ、と思った時にはもう手遅れだった。
みるみる視界が低くなって……
「……ぴい……」
「くうん……?」
結局私は、あれだけ回避しようと必死だった子竜に変化してしまっていた。
ここまで身に着けていた衣類一式はすっかり脱げ落ちてしまい、地面の上に広がっている。
ちんちくりんの子竜はそんな衣類の海の中であっぷあっぷともがくばかり。
そんな私を、茂みの向こうから現れた黒い犬――シャルロ閣下直属の部下であるモリス・トロイア少佐の愛犬ロイは、しばし右へ左へと首を傾げて眺めていた。
しかし、やがてゆっくりと近づいてきたかと思ったら、濡れた鼻面を押し付けるようにしてクンクンと匂いを嗅ぎ始める。
まったくもって、生きた心地がしなかった。
ぐるぐるぐるぐる、恐怖のあまりに目が回る。
だって、怖い。とんでもなく怖いのだ。
シャルベリ辺境伯領の竜神を恐れるのは畏怖からだが、犬に対してはもっと直接的な、それこそ即刻命を脅かされるような恐怖を覚える。
しかも、どうやら腰が抜けてしまったらしくて立ち上がることもできない。
私がついにぴいぴいと情けない泣き声を零し始めれば、ロイは何を思ったのか、いきなり私の首の後ろをくわえた。
そして、こともあろうにそのまま茂みから出て行こうとするではないか。
私は、犬にくわえられる恐怖だけではなく、自分の子竜姿が不特定多数の人間の目に晒されてしまう恐怖にまで戦く羽目になった。
「ぴ、ぴい、ぴいいっ……!!」
短い両の手足をジタバタさせて、何とか必死にロイの口から逃れようとする。
けれども、非力な子竜の力では抵抗も虚しく、結局は有無を言わさず茂みの中から連れ出されてしまった。
もう、だめだ――私が絶望しかけた、ちょうどその時である。
思いがけない声が頭上から降ってきた。
「――ロイ?」
「ぴみっ!?」
私の身体がびくりと跳ね上がる。
それはこの一週間、朝食と夕食の際にだけ耳にしてきた男の声だった。
ロイの口元にぶら下げられた私の視界に、良く磨かれた黒い軍靴の先が割り込んできたかと思ったら、ふいに両脇の下に人間の大きな手が添えられる。
とたんに、ロイはあっさり私の首の後ろをくわえるのをやめた。
その代わり、両脇の下を掬った手によって持ち上げられた私が、真正面から顔を突き合わせることになったのは……
「――驚いた。君、もしかして竜の子供なのかい?」
空色の瞳をぱちくりさせる、シャルロ閣下その人だった。