11話 望むと望まざるとにかかわらず
「パティ、おいで。大丈夫だから」
「こわくないよ、パティちゃん」
閣下とエド君が、そう言って手招きをする。
けれども、私は足が地面に縫い付けられたように動けなくなって、ブルブルと震えるばかりだった。
オルコット家に戻るカミラ様を見送ったその日、閣下はモリス少佐を口説き落として半休をとった。
一人残されて浮かない顔をしているエド君を、気晴らしに外へ連れ出すためである。
私もそれに同行することになったまではよかったのだが、問題はその方法だった。
「む、無理……無理です――馬に跨がるなんてっ……!!」
エド君は、お馴染み首長竜のぬいぐるみアーシャが入ったリュックを背負っている。
そんな甥っ子を膝の間に抱えるようにして、閣下が愛馬ヘルムの背中に跨がっていた。
黒鹿毛で額に星と呼ばれる白斑があるヘルムは、鎧で武装した重騎兵を乗せるために品種改良を重ねられた、とりわけ身体が大きくて力持ちな軍馬だ。
長い睫毛の下から、閣下のそれとよく似た色合いの瞳にひたりと見据えられ、私はひっと悲鳴を上げて後退った。
馬というのは非常に警戒心の強い動物である。
そのせいか、竜の姿に変化するメテオリット家の先祖返りは、だいたい彼らと相性が良くなかった。
馬車に乗るのは問題ないのだ。ただ、その背に直接跨がるとなると話は違ってくる。
どうしても軍馬に乗る必要のあった姉マチルダなんて、自分を主人と認めさせるために、三日三晩厩舎に籠って死闘を繰り広げたという話だ。
「パティ、ヘルムに乗るのは初めてじゃないだろう? 大丈夫だよ」
「前は、子竜の姿で閣下の外套の中にいたから平気だったんですっ!」
「ヘルムはパティちゃんをのせるの、ぜんぜんイヤじゃないよって言ってるよ?」
「エド君、馬の言葉が分かるの!?」
確かに、私を見るヘルムの眼差しは穏やかで敵意は感じない。
けれども、劣等感に苛まれて生きてきたちんちくりんの落ちこぼれ子竜は、馬に負けず劣らず警戒心が強いのだ。ついでに言うと、つい先日暴走馬車に危うく踏み潰されそうになったことも、結構なトラウマになっていた。
とにかく、馬の背に跨がるのだけはご勘弁願いたい。
閣下とエド君には申し訳ないが、私は今日のお出掛けを遠慮させてもらおうと、じりじりと後退っていた時だった。
「はいはいはい、時間は有限ですからね。さくっと行ってらっしゃいませ」
「ふえっ!?」
突然、背後から聞き馴染みのある声――モリス少佐の声がしたと思ったら、ひょいっと両脇の下を抱えられ、ヘルムの尻に乗せられてしまう。
絶句して固まった私の代わりに、猛然と抗議の声を上げたのは閣下だった。
「おい、モリス! 誰がパティをだっこしていいと言った!」
「そんなの今更ですよ、閣下。パトリシア嬢をだっこしたことくらい、前にもありますもんねー。と言っても子竜の姿をしていて、その時はまだパトリシア嬢だとは知らなかったんですけど」
「な、何だとっ……!? いつのことだ、それっ……」
「閣下が執務室で、クロエ・マルベリーを騙ったミリア・ドゥリトルに既成事実をでっち上げられそうになっていた時のことですね」
とたん、閣下は苦虫を噛み潰したような顔になる。
嫌な出来事を思い出させた少佐をじろりと睨み、文句を言おうとしたのか口を開きかけるも……
「それいけ、ヘルム号ー」
「わああっ!?」
ペシン、と少佐に尻を叩かれたヘルムが急発進。
その反動で危うく後ろに倒れそうになった私は、目の前にあった閣下の背中にとっさにしがみつく。
その背中越しに、感極まったような閣下の声と、無邪気なエド君の声が聞こえた。
「パティに抱き着いてもらえるなんて――これ、何のご褒美!?」
「よかったね、シャルロおじさん」
*******
カツカツと、蹄鉄が石畳を叩く音が響く。
ヘルムの歩みに合わせて、閣下の腰に下がったサーベルがカシャカシャと硬質な音を立てた。
この日は、軍の施設に近い裏門を出発し、大通りを南の水門の方角へと下っていく。
相変わらず町のあちらこちらには、王都からの逃亡者に目を光らせる辺境伯軍の軍人の姿が見受けられた。
年配の者は微笑ましげに、逆に若い軍人は緊張に顔を強張らせて、それぞれ馬上の軍司令官閣下に敬礼をする。
その度に、小さな右手を上げて敬礼を返すエド君には、軍人も町の人々も一様に顔を綻ばせていた。
やがて、頭上を覆っていた雲の間から日が差し、青空がのぞく。
それを見上げた閣下は頬を緩め、膝の間に抱いていたエド君の栗色の髪を撫でた。
「どうやら、少しは気晴らしになっているみたいだな……エド、初めて馬に乗った感想は?」
「すごくたかい。なんだか、つよくなったみたいな気がする」
シャルベリ辺境伯領の竜神は天気を司るという。その力によって、かつては領主が捧げた生贄と引き換えに、日照りに悩まされていたシャルベリ辺境伯領に雨を降らせたのだ。
シャルベリ辺境伯領の竜神の先祖返りは、私達メテオリットの竜の先祖返りのように竜の姿に転じることがない代わりに、そんな天気を司る力の一端を持って生まれるという。
ただし、それを自由自在に操れるわけではなく、感情の起伏によって勝手に天気が左右されてしまうのだ。
望むと望まざるとにかかわらず、である。
これは、心拍が急上昇するとたちまち子竜の姿に転じてしまう私に負けず劣らず悩ましいことだろう。
この日のシャルベリ辺境伯領の空も、エド君の気持ちが反映されて朝から曇り空だった。
しかしながら閣下の言う通り、馬での散歩は少なからず彼の気晴らしになったようで、雲の間から太陽が顔を出し、竜神の神殿が浮かぶ貯水湖の水面をキラキラと輝かせた。
ちょうど差し掛かったリンドマン洗濯店――エド君と同じ虹色の瞳のロイ様が生活している店の屋上では、いっぱいに干された洗濯物が揺れている。
ロイ様は、自分がシャルベリ辺境伯領の竜神の力を受け継いでいることをちゃんと把握しているらしい。
洗濯屋は、雨が降っては仕事にならないだろう。ロイ様自身が感情を制御する術を心得ているのか、それとも夫婦同然の関係だというリンドマン洗濯店の女主人の存在が彼に雨を降らせないようにしているのか、あるいはその両方なのか。
遅かれ早かれエド君も、自分が受け継いでいるシャルベリ辺境伯領の竜神の力やその経緯を知っておく必要があるだろう。
これを機に、閣下は次期シャルベリ辺境伯――つまり、間もなく竜神の眷属の長となる人間として、一族に伝わる秘密を彼に話すことにしたようだ。
「シャルベリ家は昔、幾度も娘を雨乞いの生け贄として捧げたんだ。そうして最後の生け贄の導きにより、一族は竜神の鱗を得てその眷属となった。エドみたいな虹色の瞳の子が生まれるようになったのは、それからだよ」
「いけにえって……竜のかみさまは、人をたべちゃったの!?」
シャルベリ辺境伯領の竜神の有り様は、エド君にはなかなか衝撃だったようだ。
太古の昔に滅んで、今は可愛らしいぬいぐるみになっているオルコットの竜と比べれば、確かに随分と血腥い伝説だろう。
エド君の虹色の瞳が物問いたげに、貯水湖の真ん中にある竜神の神殿に向けられた、その時だった。
「――うん? エド、リュックに何か生き物でも入れているのかい?」
「ううん。アーシャしか、はいってないよ?」
エド君が背負っていたリュックが、突然もぞもぞと動き出したのだ。
閣下の背中越しにそれを聞いた私が、彼の脇から顔を出したのと、リュックの口が開いて何かが顔を出したのは同時だった。
「――えっ、アーシャ!?」
現れたのは、エド君が父親からもらって宝物にしているという首長竜のぬいぐるみだった。
とはいえ、ただのぬいぐるみが勝手に動き出すわけがない。
『ごきげんよう、パトリシア、エドワード。ついでに、贄の子』
「……こんにちは、小竜神様。ついでに、とは随分ですね」
パカパカと動くぬいぐるみの口から発せられたのは、竜神の石像の化身である小竜神の声だった。
いつのまにかアーシャに憑依していたようだ。
エド君はリュックからそれを取り出して腕に抱くと、恐る恐るといった風に問うた。
「アーシャ……どうして、人をたべたの?」
あまりにも率直な質問だった。
とたんに、小竜神の瞳が――というか、アーシャの円らなボタンの瞳が、じっとエド君を見上げる。
一瞬落ちた沈黙に、私は緊張を覚えてごくりと唾を呑み込んだ。
『我はな、もともとは長く生きただけの、ただのケダモノだった』
パカパカとぬいぐるみの口を動かして、小竜神が語り出す。
奇しくも大きな雲が頭上に掛かって、その顔が翳って見えた。
『ただのケダモノが、人間とそれ以外の動物を区別するわけがない。最初に生贄の人間を食べたのは、単に腹が減っていたから。そこに食う物があったから食った、それだけのことだ。人間を食らったことによって、我が雨を降らせる力を得たのは、まったくの偶然だった』
けれどもこれにより、〝竜に生贄を食わせたら雨が降った〟という実例を作ってしまった。
竜神の望むと望まざるとにかかわらず、である。
これが、その後も日照りの度に生贄が差し出される事態に繋がってしまったのだ。
「つまり、生贄を差し出したのは竜神様に求められたからではなく、あくまで人間が勝手に始めたことだった、ということか……」
何人もの娘を犠牲にしてこの地を守ってきた領主の末裔である閣下が、ため息まじりにそう呟く。
その声は、ひどく虚しそうに聞こえた。




