10話 心を鬼にして
「ど、どうして――どうして、余計なことをしちゃうんですかっ!!」
自分よりもずっと年上の複数人、しかも出会ってまだ二日しか経っていない相手を叱りつけるなんて――私にとって人生初のことだった。
「せっかく、久しぶりに三人集まったんですもの。婚約祝いに、シャルロにお菓子を手作りしてあげない?」
シャルベリ辺境伯家滞在二日目の昼食の席で、ふいにそんなことを言い出したのは、三人の中で一番楽観的な三女イザベラ様だった。
三つ子がいくらそっくりだと言っても、さすがに少しくらい性格に違いがある。
ちなみに、夫が王国軍大将ライツ殿下直属の部下である縁で、お姉様達の中で唯一私の姉マチルダと会ったことがあるらしいのがイザベラ様だが、曰く「一緒にめちゃくちゃお酒呑んだことしか覚えてなーい」とのこと。
そんなイザベラ様の提案に、カミラ様とレイラ様もすぐさま賛同の声を上げる。
これに、たちまち顔色を悪くしたのは閣下だった。
「姉さん達の手作りの菓子!? うっ……過去のトラウマが……」
「閣下、気をしっかり持ってください!」
何しろお姉様達ときたら、料理をすれば必ずダークマターを錬成してしまうという。
食物だけで形成されているはずのものも、彼女達の手に掛かればおおよそ口にできそうにない物体にしかならないらしい。
閣下をして、「もはや、呪われているとしか……」と言わしめた筋金入りの料理下手にもかかわらず、本人達にその自覚がないのだからすこぶる質が悪い。
かつて無理矢理食べさせられたおぞましい成れの果て達を思い出し、ブルブルと震える閣下を見兼ねた私は、あの! と叫んで立ち上がった。
「お姉様方、私もご一緒させていただいていいですか?」
「あらあらあら! もちろん、いいわよー!」
「お姉様、ですって! うふふ、かーわいいっ!」
「妹っていいわねぇ。図体ばっかりでかくなった弟と違って!」
そんなこんなで昼食後、心配する閣下を宥めて仕事に戻らせ、お姉様達と連れ立っていざ厨房へ。
作るお菓子はマフィンに決定し、コックから材料を受け取ったまではよかったのだが……
「ひえええ……」
ひとまずは彼女達がどのようにしてマフィンを作るのか、私が黙って見守ろうと思ったのも束の間だった。
とにかく、三人が三人ともひどい有り様だとしか言いようがない。
まさしく、料理ができない人あるあるを体現しているようだった。
「シャルロったら、見かけによらず甘いのが好きでしょう? だから、お砂糖は多めに……」
「ま、待ってくださいっ! 規定量の倍を入れることは、〝多め〟じゃなくて〝多過ぎ〟ですからっ!!」
レシピに書かれた用量を守らない。
「バターは、焦がすと香ばしくなって美味しいって聞いたことがあるのよね」
「確かに、焦がしバターは美味しいですよ? けれどお手元のそれは、もはや鍋の焦げ付きでしかありませんからねっ!?」
レシピに書かれた手順も守らない。
「ほんのりと塩気があると甘さが引き立つって言うじゃない?」
「だからって、どうしてアンチョビを選ぶんですか!? チーズとか、他に合いそうなものがあるでしょう!?」
そして、やたらとレシピに書かれていないものを入れたがる。
「あー、この牛乳。うちで飲んでるのよりおいしいー」
「どうして計量済みのを飲んじゃうんですか? 飲んだ分、ちゃんと足してくださいね!?」
「ねえねえ、ファオグラ入れていい?」
「だめ! です!!」
「私、レアが好きなんだけどー」
「マフィンにレアなんて焼き加減はありませんから! ただの生焼けですからっ!!」
とにかく、余計なことばかりしたがるお姉様達の間で右往左往しつつ、私は何とか食べられるマフィンを作らせようと必死になった。
「いいですか、お姉様方! レシピは裏切りません! まず、材料はきちっと秤で量ってください! それから、レシピに書かれている通りに作ってみましょう!――とにかく、余計なことはしないでくださぁいっ!!」
思わず手元にあった麺棒を振り上げて力説すれば、お姉様達は何故だか軍隊よろしく、三人揃ってビシッと気を付けの姿勢になった。
「ひいっ、パティちゃんったら、可愛い顔してスパルタだわ」
「これは、シャルロが尻に敷かれるのも時間の問題ね」
「あらー、もうすでに敷かれてるわよー」
全ては、出来上がったものを食べさせられる閣下の身体と心の平穏のためだ。
私は心を鬼にして、お姉様達を厳しく監督した。
その結果……
「「「で、できた……」」」
多過ぎる砂糖でじゃりじゃりもしないし、炭化したバターで苦くもない。アンチョビもフォアグラも入っていないし、牛乳が少なくてパサパサもしないし、もちろん生焼けでもない普通の――ごくごく普通のマフィンが出来上がったのである。
午後一の会議が終わってお茶の時間。
そのごくごく普通のマフィンをおそるおそる口にいれたとたん、閣下は目頭を押さえて打ち震えた。
そうして、私の両脇に手を入れて持ち上げると、「私の救世主……尊い……」と呟いてくるくると回す。
「今まで食べたおかしの中で一番おいしい。おかあさん、じょうずだね」
生まれて初めて母の手作りお菓子を口にしたエド君も、そう言ってカミラ様を感涙させた。
「エ、エド~!!」
「そういえば、私も子供達にお菓子を作ってあげたことがないわ」
「私もだわー」
カミラ様とエド君母子のやり取りを見ていたレイラ様とイザベラ様も、自分の子供にお菓子を作ってあげたくなったようだ。
この翌日、一月後の結婚式にはまた戻ってくると言い置いて、レイラ様とイザベラ様は二人揃って王都に帰って行った。
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シャルベリ辺境伯邸と軍の施設に挟まれた中庭に、幼い子供の無邪気な声が響いていた。
真ん中に作られた小さな噴水の周りを、栗色の髪の男の子と真っ黒い長毛種の大型犬が楽しそうに追いかけっこをしている。
閣下の甥っ子エド君と、モリス少佐の愛犬ロイだ。
エド君の体調は、シャルベリ辺境伯領に来て以来すこぶる良好だった。
今までだったら少し風が冷たいだけでも熱を出し、ベッドを離れられる日は三日と続かなかったそうだ。
そんな子供を連れて、遠く離れたシャルベリ辺境伯領まで衝動的に里帰りをしたのは軽率だったかもしれないが、結果的には良い方向に転がったと言えるだろう。
「カミラ様、お茶にしませんか?」
「あら、ありがとう。嬉しいわ」
中庭の片隅には、大きなオリーブの木が一本立っている。
その下にいつしか丸いテーブルと椅子が二脚置かれるようになったのだが、カミラ様はそこに座って、元気にはしゃぎ回るエド君を嬉しそうに眺めていた。
三人寄ると賑やか過ぎるお姉様達も、一人だと案外静かなものだ。
私がカミラ様のために淹れたのは、表の庭のハーブ園で摘んだカモミールのお茶だった。
熱湯を注いで、五分ほど蒸らしてからカップに移す。
たちまちリンゴのようないい香りが広がって、私は思わず顔を綻ばせた。
カモミールティーはハチミツを加えれば甘さが引き立って飲みやすくなるし、ミルクを加えるのもお勧めである。
エド君にも声をかけたが、ロイとの駆けっこに夢中な彼は戻ってくる気配がない。
ミルクティーにしたカミラ様は、そんな我が子にため息を吐きつつも、堪らなく愛おしげな眼差しを向けた。
その優しい青い目が、私が知る閣下のそれにとても似ている。
私がそう告げると、カミラ様はころころと笑って言った。
「シャルロは、あなたが可愛くて仕方がないんでしょう。あの仕事人間を恋愛脳にしちゃうなんて、やるわねー」
「わ、私は何も……」
「あら、可愛い。照れているの? どうか誇ってちょうだい。弟に家庭を持つ決意をさせたあなたは偉大だわ」
「そんな……恐れ多いです……」
頬を赤らめる私に、初々しいと言ってカミラ様が目を細める。
そうして、テーブルの上に頬杖をつくと、実はね、と続けた。
「私とセオドアも、恋愛結婚なの」
「えっ、そうなんですか? じゃあ、叔父が仲人を務めたっていうのは……」
「私達が出会った当初、セオドアは琥珀の権利に目が眩んだ親類に勝手に縁談をまとめられそうになっていたの。だけど、仲人として高名なあなたの叔父様が推してくださったおかげで、私との結婚を優先してもらえたのよ」
「そうでしたか……」
カミラ様の夫でエド君の父親であるセオドア・オルコットは、閣下と同じ三十歳。
カミラ様が、三姉妹の中で一番最初に結婚した次女レイラ様を王都に訪ねた際、場末のバーで隣同士になったのが出会いだという。
そんな夫婦の間に、どういう経緯で離婚話が持ち上がったのか、私には分からない。
ただ、少なくともカミラ様はまだ夫を愛しているようだ。
離婚を切り出されたことにカッとして、そのまま話し合いもせずにオルコット家を飛び出してきてしまったというが、カミラ様もきっとこのままではいけないと思っているに違いない。
差し出がましいことかと思いつつも、私は居ても立っても居られず口を開いた。
「あの……私と閣下も、お互いに別の相手と縁談がまとまらなかった代わりとして、叔父に引き合わせてもらったんです」
「まあ、そうだったの?」
「叔父は、自分が縁談をまとめた夫婦は必ず幸せになるって豪語しています。実際、その通りになってるそうです。だから、だから、その……」
「パティちゃん……」
何とか離婚を回避して、再び円満な夫婦に戻れる方法が、探せばあるのではなかろうか。
どうにも歯切れの悪い言葉の中から、私の言いたいことを正しく汲み取ってくれたのだろう。
カミラ様はずっと遠くを見るような目をして呟いた。
「そう……そうよね。あの人と結婚できることになった時、私すごく嬉しかったのよ。パティちゃんの叔父様にも、いっぱいいっぱい感謝したわ……」
ロイの黒い背中に抱き着いて、エド君がきゃあきゃあとはしゃいでいる。
しばらくの間、そんなひとり息子をじっと見つめていたカミラ様は、やがて意を決したような顔で私に向き直った。
「ありがとう、パティちゃん。何だか背中を押してもらっちゃったわね」
「いえ……」
この翌朝、カミラ様はオルコット家に戻っていった。夫婦で腹を割って話し合うつもりだという。
その間、エド君は祖父母である旦那様と奥様に預けられることになった。
シャルベリ辺境伯邸の表門に立ち、母の乗った馬車を見送る彼の表情が曇るのも仕方のないことだろう。
それに比例するように、シャルベリ辺境伯領の空にも雲が掛かり始めていた。




