6話 閣下の上着の中
――ガチャリ
突然、取手を動かす音が響いたかと思ったら、部屋の扉が開いた。
「「「「――!?」」」」
ベッドの上で塊になって頭を突き合わせていた私達は、一斉にビクンッと飛び上がる。
私は、自分が着ていた衣服の塊を抱えてベッドの下へと潜り込み、ロイがその前の床にお座りをした。
小竜神はパタンと横向きにベッドに転がり、ただの首長竜のぬいぐるみアーシャに戻る。
そうして最後に、ベッドから飛び降りて靴を履いたエド君が、扉の方まで駆けていった。
「――おかあさんっ!」
「エド、ほったらかしにしてごめんね」
部屋に入ってきたのは、エド君の母親であるカミラ様だった。
私はベッドの下に隠れたまま、ロイの背中越しにそっと彼女を窺う。
家族会議はもう終わったのだろうか。泣き腫らして赤くなった目元が痛々しい。
そんな母の頬を、慰めるように小さな手で撫でるエド君の姿がひどくいじらしかった。
一方、カミラ様は元気に走ってきた彼の姿に頬を綻ばせている。
どうやらシャルベリ辺境伯領に着いてからのエド君の体調の変化は、良い方に劇的だったようだ。
「エド、外を散歩できたんですって? ――あら、大きな犬がいるわね。その子と一緒に行ったの?」
「ロイだよ。すごくかしこいの。ロイと、アーシャと、それからパティちゃんが一緒に行ってくれたんだ」
「パティちゃん……」
「パティちゃん、ぼくに優しくしてくれたんだよ」
エド君を抱き上げたカミラ様は、彼の口から飛び出た私の名前に一瞬顔を顰める。
それを見た私は、閣下のお姉様に嫌われてしまったとしょんぼりしかけたのだが……
「パティちゃん……その、怒ってなかった? 私ったら、シャルロに八つ当たりするつもりで、あの子にひどいことを……」
「パティちゃん、おこってなかったよ。でも、きっとかなしい気持ちになったと思うから、おかあさんはちゃんとあやまろう?」
「ううー……パティちゃん、お母さんのこと許してくれるかなぁ……」
「ゆるしてくれるよ! ぼくも、いっしょにあやまってあげるから! ね?」
パティちゃんパティちゃん、とそれはもう親しげに呼ばれているところを見ると、杞憂であったと思ってもいいだろう。
そうこうしているうちに、窓の外では茜色だった空が群青色へと掏り替わっていた。
何はともあれ、お嫁に行って久しかった三人の娘達が久しぶりに一度に里帰りを果たしたのだ。
今宵はシャルベリ辺境伯家のコックもいつも以上に腕に縒をかけることだろう。
夕飯を前にして、カミラ様はエド君と一緒に湯浴みを済ませることにしたらしい。
母子が仲良く部屋に備え付けられた浴室に入るのを確認し、私はようやくベッドの下から這い出した。
『小竜神様……?』
『……』
ベッドの上に転がったアーシャに声をかけてみるが返事はない。
どうやらすでに小竜神の憑依は解け、ただのぬいぐるみに戻っているようだ。
カミラ様が別段私を嫌っているわけではないと判明したものの、安易に子竜姿を晒していいものかどうか、私一人で判断するのは難しい。
ともかく、閣下に一度相談してみるべきだろうが、さてそれではどうやって人目に付かずに彼の元へ行こうか。
私がううんと頭を捻っていた時だった。
コンコン、とノックをする音が聞こえ、私はぴゃっと飛び上がってとっさにロイの背中に隠れる。
すると、彼のふさふさの尻尾に顔面をもふもふと打たれ、今度はあわあわするはめになった。
とはいえ、ロイがやたらと尻尾を振る理由は、扉の向こうから声が掛かったことによって判明する。
「――カミラ、いないのか?」
「――ぴっ!!」
聞こえてきたのは閣下の声だった。コンコン、ともう一度ノックの音が響く。
しかし、浴室にいるカミラ様とエド君の耳には届いていないのか、応答する気配はない。
すると一拍してから、「失礼する」という断りの文句とともに、扉が開いて閣下が顔を覗かせた。
「カミラ。パティとロイは、エドと一緒では……」
そこまで言いかけて、ロイとその脇から顔を覗かせている私に気付いた閣下が息を呑む。
その瞬間、私は衣服の塊を抱えたまま無我夢中で彼に向かって駆け出していた。
ゴム毬みたいに勢い良く跳ねて飛び付いてきた私を、閣下は両腕を広げて難なく受け止めてくれる。
ぎゅっと温かな胸に抱き竦められ、パティ、と潜めた声で名前を呼ばれれば、ほっとして全身から力が抜けてしまった。
ふにゃふにゃになった私を、閣下が軍服の上着の中に隠すようにして仕舞い込む。
その足元に、ロイが尻尾をフリフリしながらやってきた、ちょうどその時。
「――誰かいるの?」
浴室からカミラ様の声が聞こえ、私は閣下の懐でビクリとする。
その背中を上着越しにゆったりと撫でながら、閣下が落ち着いた声で応えた。
「私だ、シャルロだよ。勝手に入ってすまない。ここにいるロイだが、私の部下の犬なんだ。連れて行ってもかまわないか?」
「もちろんよ。エドが随分お世話になったそうで……飼い主にもお礼を言っておいてもらえると助かるわ」
こうして、私は無事人目に付かずにカミラ様とエド君の客室を脱出し、閣下の元へと戻ることに成功したのである。
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「パティいいいっ! いったい何があったんだ! 心配したよっ!!」
「ふぎゅっ!」
私室に飛び込むやいなや扉に鍵をかけ、上着の中から取り出した私を、閣下は改めてぎゅうぎゅうと抱き締めた。
婚約を機に、私はそれまで客室として与えられていたシャルベリ辺境伯邸二階にある東向きの角部屋から、そのちょうど真上にある閣下の私室の隣に移っていた。
というのも、三階東向きの角部屋が代々シャルベリ辺境伯家当主の私室として使われており、その隣が夫人の私室とされているからである。
当主の私室は、現シャルベリ辺境伯である旦那様が足の不自由な奥様に合わせて一階の部屋に移った際、閣下が入れ替わりに使うようになったそうだ。
それぞれ独立しているように見えるシャルベリ辺境伯夫妻の私室だが、実は中に扉があって繋がっている。
つまり、閣下と私はわざわざ廊下に出なくてもお互いの部屋を自由に行き来できるわけだが、この時子竜の私が連れて来られたのは、閣下の私室の方だった。
ほとんど寝に帰るだけのこの部屋は、相変わらず物が少なく整然としている。
その奥のベッドに腰掛けた閣下は、腕に抱いた私の顔を覗き込んだとたんにびょんと眉を跳ね上げた。
「どうしたんだ、その額! 赤くなっているじゃないか! どこかでぶつけたのかっ!?」
「ぴ、ぴい……」
「他には!? どこも怪我はしていないかい!? どれ、見せて! 全身隈無く見せなさいっ!!」
「ぴぎゃあ!?」
エド君とロイと連れ立って町へでかけたはずの私が、次に会った時には子竜になっていたのだ。
子竜化するほど私の心臓をバクバクさせる出来事があったのは明白で、閣下の過保護に輪を掛けることになった。
ちなみにロイは、客室の前の廊下で待っていたモリス少佐に引き渡され、早々に帰宅している。
元来メテオリットの竜の子孫は常人よりも傷の治りが早く、街灯の支柱にぶつけた額も赤くなっているだけで今はもう痛みもない。
にもかかわらず、宣言通り全身隈無く、それこそ尻尾の裏まで閣下に検分された私は、あまりの恥ずかしさにプルプルと震えた。
一方、私に大事ないと分かって、閣下はひとまず落ち着きを取り戻したようだ。
「――そうだ。パティを人間の姿に戻して話を聞けばよかったんだ」
彼はそう呟いたかと思ったら、いそいそと軍服の上着を脱いで子竜の私を包み込み、いきなり顔を近づけてきた。
メテオリット家の先祖返りは精神力が強く、自分自身をコントロールすることで人間にも竜にも自在に変化可能である。
一方、著しく心が乱れている時や、私のように自力でどうこうできない場合は、好いた相手のキスによって早急に人間に戻ることができるというのは、つい最近知ったばかりだった。とはいえ……
「ぴやっ!!」
心の準備ができていなかった私は、とっさに両手を前に突き出して閣下の口を掌で押えた。
んむっ、と呻いた閣下の眉間に皺が寄る。
気を悪くさせてしまったかもしれないという後悔と、キスなんて慣れない行為を受ける恥ずかしさが、子竜の小さな頭の中でせめぎ合った。
どうしていいのか分からず、私は閣下の口を両手で塞いだままひたすらおろおろする。
その両脇にふと閣下が手を添えたものだから、問答無用で引き剥がされてしまうのかと思ったが――違った。
「……っ、ぴぃやっ!?」
閣下の手は、私の両脇を掴むのではなく、こちょこちょっとくすぐったのだ。
驚いたのとくすぐったいのとで、私は慌てて閣下の口から手を離して両腕を引っ込める。
すると、待ってましたとばかりに、閣下の顔が一気に距離を詰めてきた。
後のことは言わずもがな。
口の先に柔らく温かなものが触れた瞬間、私はぴゃっと上着の中に頭まで潜り込んだ。
「――パティ。ほら、出ておいで」
私の背中を軍服の上着越しにポンポンと叩きながら、閣下が笑いを含んだ声で呼ぶ。
それでも顔を上げられずにいると、上着の中に忍び込んできた彼の指が私のピンク色の頭を――ストロベリーブロンドの髪をさらりと撫でた。
パティ、と蕩けるような声でもう一度呼ばれて、ようやく観念する。
「うん、額……やっぱり赤くなっているな。どこでぶつけてきたんだい?」
「が、街灯の支柱、です。大通りの……」
人間の姿に戻った私を見て、閣下はぶつけた額を労りつつも満面の笑みになった。
私はきっと、額なんかよりも頬の方がずっと真っ赤になっているだろう。
だって、閣下のキスで子竜から人間の姿に戻ってしまったということは、私は彼が好きなのだと堂々と歌い上げているようなものだからだ。




