4話 落ちこぼれ同士
午前中は晴れ渡っていた空は、いつの間にか灰色の雲に覆われていた。
いまいちな天気にため息を吐きたくなるものの、何とかそれを飲み込んで隣を見下ろす。
「……」
空と同じくらい、もしくはそれ以上にどんよりとしている相手に、私はますますため息を吐きたい気分になった。
突然発覚したカミラ様の離婚騒動により、シャルベリ辺境伯家では緊急の家族会議が開かれることになった。
閣下と婚約したばかりで、カミラ様を含めた三人のお姉様達とは初対面のため参席を免除された私は、同じく幼過ぎるという理由で部屋から出されたエド君のお守りを任されてしまったのだが……
「エド君は、その……どこか行きたい場所とか、あるかな?」
「ない……です」
全然、まったくもって、会話が弾まない。
そもそも、一族の末っ子で、自分よりも年下の面倒をみた経験がない私は、初対面のエド君の扱いに困っていた。
エド君は生まれて初めてシャルベリ辺境伯領を訪れたということなので、とりあえず私の知っている場所を案内しようとシャルベリ辺境伯邸を表門側から出てきてみたはいいものの、五歳の男の子が何に興味があるのかも分からない。
馬車も頻繁に通る道を歩くのだから、安全のために手を繋いだ方がいいだろうか?
でも、初対面の相手といきなり手を繋ぐのなんて、嫌かな?
などと悩みながら、私はひとまずシャルベリを語るに欠かせない場所を提案してみることにした。
「えっと……じゃあ、神殿でも見に行こうか? 竜神様の……」
「……りゅうじんさまって、竜の神さま?」
「そう! そうだよ! シャルベリの守り神様だから、エド君もご挨拶しておいた方がいいかなって!」
「……うん。じゃあ、行き……ます」
全然、まったくもって、乗り気ではなさそうだ。
けれども私は、断られなかっただけましだと思うことにした。
ところで竜神の神殿と言えば、そこに収められた石像の化身である小竜神の姿が、つい先日から竜神の眷属であるシャルベリ辺境伯家の人々の目に映るようになったのだが、その効果は何親等にまで及ぶのだろうか。
ちなみに、メテオリット家の場合は竜の血は女にしか遺伝しないため、男の方の系図には一切影響を及ぼすことはない。
はたして、エド君には小竜神の姿が見えるのだろうか。
神殿に誘ってはみたはいいものの、いきなり彼を小竜神のもとに連れていっていいものか。
大通りを西へと下りながら悶々と頭を悩ませていたところ、ふいに足元をふわふわとした感触が掠める。
私がその正体に気付いたのと、足元から声が上がったのは同時だった。
「わんっ!」
「ひぃんっ!」
突然響いた犬の吠え声に、私はその場でビクーンと飛び上がる。
ドキドキと激しく脈打つ胸を、慌てて空いた手で押さえた。
その時である。
すぐ横を慌ただしく一台の馬車が駆け抜け、私のストロベリーブロンドを大きく揺らした。
「わ、馬車……。あ、ありがとう。馬車が通るから危ないよって教えてくれたんだよね? ――ロイ」
「わふんっ」
私の言葉を肯定するみたいに、ふさふさの黒い尻尾をパタパタと振ったのは、モリス少佐の愛犬ロイだった。
犬恐怖症克服のためと銘打って、ここ最近私は彼の散歩を一任されている。
とはいえ実際は、優秀な軍用犬でもある彼の方が、まだシャルベリ辺境伯領の地理に詳しくない私の散歩に付き合ってくれているようなものだった。
私に対して常々好意的で、穏やかで優しい彼とは随分打ち解けたつもりだが、やはり身に染み付いた恐怖心は昨日今日でどうこうできるものではない。
無害そうなロイ相手にビクビクしている私を見て、エド君が遠慮がちに口を開いた。
「……犬が、こわいの?」
「えっ? う、うん……えっと、小さい時にひどく噛まれたことがあってね……」
「そうなんだ……痛かった?」
「うん、痛かったよ……エド君は、犬は平気?」
私の問いに、エド君は小さくはにかみつつ、うん、と頷く。
そして、やっとぽつりと自分のことを話し出した。
「ぼく、ずっとこの子みたいな大きな犬を飼ってみたかったんだ。だって、かっこいいもん」
「そうなんだ。お母様にお願いしてみたらどうかな?」
「うん、でも……ぼく、お散歩につれていってあげられないかもしれないから……」
「それは、どうして?」
カミラ様はなかなか子供に恵まれず、口さがない周囲の声に傷付けられることもあったようだ。
それでも、ようやく生まれたエド君を溺愛していた。
にもかかわらず、エド君の自己評価は悲しいくらいに低かった。
「もっと、からだが丈夫だったらよかったのに……そしたら、おかあさんを安心させてあげられるのに……」
「エド君……」
エド君は生まれつき身体が弱く、すぐに熱が出てしまうため、ほとんど外出をしたことがないという。
これまでの人生の大半をベッドで過ごさざるを得なかった自分を、彼はオルコット家の跡継ぎとして落ちこぼれだと感じているようだ。
いつも立派な姉とちんちくりんな我が身を比べて、自分は落ちこぼれの子竜だと卑屈になっていた私は、彼の気持ちが痛いほど分かった。
とにかく、シャルベリ辺境伯領に来るどころか、オルコット家の領地から出ること自体、生まれて初めてだという。
そうとは知らず、気軽に連れ出してしまったと慌てる私に、彼はシャルベリ辺境伯領に来て不思議と今までになく体調がいいと言った。
「せっかくの初めてのお散歩なのに、私なんかが相手でごめんね?」
「ううん。ぼくの方こそ、つきあわせちゃって、ごめんね?」
「えっと……ロイのリード、持ってみる?」
「うんっ」
ロイのリードを譲ると、エド君の口元がわずかに綻んだ。
少しだけ、ほんのすこーしだけ打ち解けられたような気がして、私はほっとする。
それから私達はぽつぽつとお互いのことを話しながら、ゆっくりと大通りを北の水門の方角へと歩いていった。
そんな中、私はふと気になったことを口にする。
「ずっと背負ってるそのリュックって、もしかしてエド君のお気に入り?」
「ううん、リュックじゃなくて、中に宝物が入ってるの。――見たい?」
エド君はそう言うと、私の返事も待たずに背中からリュックを下ろした。
どうやら、宝物を誰かに見せたかったようだ。
私がロイのリードを受け取ると、エド君はさっそくリュックの留め具を外して中身を取り出す。
「あれ? これって……もしかして、竜のぬいぐるみ?」
「うん、ぼくのうちにむかーし住んでたって伝説の竜だよ」
リュックの中に入っていたのは、水色をした首の長い竜のぬいぐるみだった。
エド君はアーシャと名付けているらしい。
円らなボタンの瞳が愛くるしく、他人とは思えないぽってりとしたお腹にもボタンが付いていて、小物が入れられるようになっている。
私が可愛いねと言うと、エド君はぬいぐるみのお腹を撫で、おとうさんにもらったの、と消え入りそうな声で呟いた。
とたんに、ぎゅっと胸が苦しくなる。
何がどうしてそうなったのかは知らないが、現在エド君の両親――カミラ様とオルコット家当主は離婚の危機に瀕している。
もしも離婚が成立してしまえば、エド君は両親のどちらかと離ればなれになってしまうかもしれないのだ。
私はかける言葉が見つからず、ぐっと唇を噛み締めた。
そうこうしている内に、北の水門が見えてきた。ここでは、山脈の向こうから貯水湖に流れ込む水の量を調整している。
トンネルから貯水湖までは大きな水路が川のように流れており、その両脇には落下防止の鉄柵が設けられ、大通りと遜色ない石畳の道が整備されていた。
トンネル向こうの駅から馬車に乗り換えてシャルベリ辺境伯領に入ったエド君達も、この水路脇の道を通ってきたはずだ。
それが大通りと合流する三叉路に差し掛かった時である。
突然、一台の馬車が飛び出してきた。
「わあっ、危ないっ!!」
私はとっさにエド君の手を引いてその場から飛び退いたものの、勢い余って転んでしまう。
それでも必死にエド君を腕の中に抱き込んで、彼が固い石畳に叩き付けられるのだけは防いだが、次の瞬間――
「――ひっ……!!」
顔の真横を、凄まじい音を立てて馬車の車輪が通った。
あと寸分でも逸れていたら、私の頭は踏み潰されてしまっていただろう。
喉の奥で悲鳴が上がり、胸を突き破って外に飛び出すんじゃないかと思うくらいに心臓が激しく跳ねた。
この後の展開は、嫌でも分かる。
石畳の上をゴロゴロ転がりつつ、私の身体はみるみる小さくなった。
その腕に抱き込まれていたエド君は、さぞや戸惑ったことだろう。
やがて、大通り脇に立つ街灯の支柱にぶつかってようやく止まる。
その瞬間、エド君よりも小さくなった身体で身を挺して守った自分を褒めたい。
「――ぴっ!!」
ゴチンと鉄製の支柱に頭をぶつけて、目の前にチカチカと星が飛んだ。
そんな私をよそに、馬に乗った黒い軍服の一団が目の前を通り過ぎていく。どうやら、暴走馬車はシャルベリ辺境伯軍に追われている最中だったようだ。
幸いと言うべきか否か、周囲の人々の視線はその大捕り物に釘付けになっていて、大通りの隅で転んだ子供とワンピースの塊には誰も気付いていない。
リードを離された犬のロイだけが慌てて駆け寄ってきて、ワンピースの中でぐったりとする私の顔中をベロベロと舐め回した。
「パティ、ちゃん……?」
エド君の呆然とした声が聞こえる。
当然のことながら、私の摩訶不思議な変身に、彼はさぞ驚いたことだろう。
しかし、事情を説明しようにも子竜の口は人語を操れないし、何より頭を打った衝撃で意識が朦朧としていた。
そんな中、ふいに身体が浮き上がる。
固い石畳の上からそっと私を抱え上げてくれたのは、どうやらエド君のようだ。
彼は私の顔を覗き込むと、ゴクリと大きく唾を呑み込んでから、おそるおそるといった態で口を開いた。
「……パティちゃんは、竜なの?」
この時初めて、真正面からエド君と顔を合わせた。
彼の瞳が、キラキラと虹色に輝いているのに気付いた瞬間――私の視界は暗転したのだった。




